苦い文学

偶然の再会

15年ぐらい前の話だが、ドイツ在住のビルマ人の難民が日本にやってきた。日本で難民申請をしている彼の妻をドイツに呼び寄せるためだった。これはかなり大変だったのだが、結局うまく行った。私はその妻と知り合いで、二人のためにいろいろ手伝ったのだった。

その後、何年かして、私はアフリカのチュニジアで言語の調査をしたくなり、ドバイ経由で行くことにした。そして、乗り継ぎのドバイの空港で、時間潰しに免税店を冷やかしていると、なんとあの夫婦がいるではないか。

二人はタイの知人に会いに行くところだということで、私たちは思わぬ再会に驚きあった。

日本に帰って、あるカチン人の女性にこの出来事について話すと、彼女はこう言った。

「私たちカチン人の牧師がアメリカに行った時、船に乗ったのです。そしたら、その乗客の一人が、彼の父と友人だったというアメリカ人牧師だったのです」

私の偶然の出会いよりももっと強力で神がかったのを持ち出してきたので、思い出もすっかりくすんでしまった。

苦い文学

下のマスク

猛暑が続くせいもあるし、また熱中症予防として推奨されていることもあり、最近では人通りの少ない道を一人歩くときなどは、マスクを外すようにしている。

そうすると、外気が直に触れて涼しいし、気持ちもいい。もうマスクなどつけたくなくなってくる。

思えば、コロナ禍の中、マスク着用が当たり前になり、これがない生活は考えられなくなった。そのせいで、「顔パンツ」などといって、マスクを外すことに抵抗感を覚える人も多くいる。

そんな状況を続けてきたからこそ、外で堂々とマスクを外すのに、これほどまでの解放感があるのだ。

このまま外でマスクを外す機会が増えていくのはいいことにちがいない。だが、私にはひとつ心配なことがある。

「外気が直に触れて涼しいし、気持ちもいい、素晴らしい解放感だ」などと思って外を歩いていたら、実はないのは「顔パンツ」ではなく「パンツ」だった、なんてこともありそうなのだ。

押っ取り刀で駆けつけた警官に「うっかり上と下を間違えちゃいました」という弁明は通用するだろうか?

苦い文学

POCLANOS

今、韓国の音楽というと、いわゆる K-pop だが、こうした高度に産業化された音楽以外のものも、韓国にはたくさんある。

私はあまり知らなかったのだが、サブスクリプションで音楽を聴くようになって、音楽チャートにも、音楽番組にも出てこないし、ニュースにもならない、それどころか Wikipedia にも登録されていないが、良い音楽を作っている韓国の若いミュージシャンがたくさんいることを知った。

このところ、私がよく聴くのは、インディー系と大きく括られるようなものだ(もっとも、インディー系が何だかもよくわからないが)。

とくに気に入っているのをいくつかあげると、off the menu と wave to earth というバンドでどちらもギターの音がいい。rainbow note という女性二人組はシティポップで、最近、オリジナル曲(Venus)の日本語バージョンを出した。

JISOKURY は、写真やMVをみると、とぼけた兄ちゃんという感じだが、音楽は非常に洗練されている。最新曲の Mindless mind もよい。

김뜻돌(Meaningful Stone)は女性のソロで、この人の 2020 年のアルバム「A Call from My Dream」は、独特の雰囲気があってアルバム全体で聞かせる(これでなにか賞をとったそうだ)。

これらのミュージシャンにはある共通点がある。これは私も最近気がついたのだが、どのミュージシャンも、インディー系の音楽配信レーベル POCLANOS に関係しているか、かつて関係していたのだ。

POCLANOS のサイトを見ると、非常に多くのミュージシャンがこのレーベルを通じて曲を配信しているようだ。中には日本人の名前もある。

私が知っているのは、これらのミュージシャンのほんの一部だが、そこから判断するかぎり、この POCLANOS というのはなかなかやるなという印象だ。

POCLANOS の配信する音楽は聞きやすいものが多いので、ルー・リードの『メタルマシーン・ミュージック』みたいのを探してるという人以外は、このレーベルで何かしら発見があるにちがいない。

苦い文学

大いなる喜び

自民党の議員の多くが信じている(少なくとも否定はしない)ことによれば、LGBTの自殺率が高いのは、社会のせいではなく、LGBTであること自体によるのだそうだ。

私はこれを聞いて思わず快哉を叫んだ。

この考えが意味するのはこうだ。LGBTの人の自殺は、社会の差別など関係ない。その人に原因があるのだ。

なんと明快な考えだろうか。自由と民主が混じり合うと、我が国ではこんな素敵ない考えが生まれるのだ。

だが、それだけではない。私たちはこの考えがさまざまな場面に適用可能なのを知って歓喜するのだ。

例えばいじめだ。いじめられた人が自殺するのは、いじめを生み出す社会など関係ない。その人に原因がある。こうきちゃう。(しかも、今日、「弱い子がいじめられるんだ」と麻生がまっすぐな口で語ったという)

次は性暴力に行ってみよう。レイプされるのは、性差別を許す社会など関係ない。その人に原因がある。いや、これはもう連中がかねてから言っていることに合致だ。

では、今流行りのウクライナなどどうだろうか。もちろんだ。侵攻されるのは、ウクライナに原因があるのだ。

まったくこれで私たちにも分かろうというものではないか。自民党の議員たちが、我が国がどこかの国に攻められた時に、どんなことを言い出すかが。どんなふうに国民を見殺しにするかが。

連中にとって、LGBTの人を含めた私たちの命など屁でもないということが、今、選挙の前に知ることができたのだから、大いに喜ばずにはいられないのだ。

苦い文学

ハラスメントの生き残り

私の知っている人で、おとなしく人が良さそうに見えるのだが、奇妙な点があった。

同僚の若い女性の世話につきまとうのだ。

待ち伏せして話しかけたりするのだが、何を話すかというと、親切にアドバイスしている。毎日何かメールを書いてくる。どうぞ使ってくださいという感じでものをあげたりしている。

女性の方からするとそうとう不快に違いないが、うまく拒絶することもできない。というのも、相手はまさに親切心からしているだけで、そこに下心はまったくないように見えるのだ。

これがもし、この男が性的な事柄を仄めかしたりでもすれば、これはもうセクハラだ。少なくとも、この男を追っ払う口実になる。だが、そんなそぶりはまったく見せない。

この男は親切で素朴な人間なのだろうか。それとも、巧妙に下心を隠している卑劣な人間なのだろうか。

私はしばしばこのテーマについて考えたが、最近では、この男の内部には「セクハラ」という別種の生命体が宿っていて、その生命体が生き延びるために取っている方策が、この男の奇妙なふるまいとなって現れているのでは、と考えるようになった(これは本人が無自覚なのもよく説明する)。

現代では容易に判別できるハラスメントはすぐに排除されてしまうから、わかりにくく、微妙で、それでいてダメージは大きいというように、巧妙化しなくては、ハラスメントは生き残れないのだ。

苦い文学

史料編纂所

昨日は、見たい資料があって東京大学の史料編纂所図書室に行った。

この施設は、ホームページを見ればわかるが、部外者でも身分証があれば利用することができる。

ただし、利用には事前に予約が必要で、これもホームページを通じて行うことができる。利用したい日・時間帯(午前か午後)と閲覧したい資料を書いて送信すると、しばらくして予約完了のメールが届く。私の予約は昨日の午前(10時〜13時)だ。

史料編纂所は赤門の近くにあるが、私は上野から歩いていったので、反対側の池之端門から構内に入ることになった。炎天下のなか長い距離を歩き、着いたころにはもう汗だくになっていた。

途中、銅像を何体か見かけた。どれも昔の人で、最近の著名人、例えば東大王のものはないようだった。私は不思議に思い、短い物語を思いついた。

史料編纂所の建物は古いものだった。入り口の両脇の柱には、変わった形の青銅の街灯が取り付けられている。戦時中に供出したものを再現したのだという。

外観は古めかしいが、中は違った。入るとすぐにガラスの自動ドアがあり、その先には白い壁が広がっている。まるでSF映画のようだ。

図書室は3階で、薄暗い中、カウンターに職員の人が座っていた。猛暑のため節電しているのだろうと思って入ろうとすると、開室前だと言われた。

苦い文学

銅像の時代

いわゆる東大生とは違うのだが、私はかつて本郷の東京大学で学んだことがある。

本郷キャンパスは、日本で最も古い大学施設の一つで、古びて味わいのある校舎が並んでいる。これらは歴史的な価値のあるものだから、壊して建て直すというわけにはいかない。外見はそのままに、内部を改修改築して使っているのである。

そんなわけで、建物によってはまるで迷路のようになってしまったものもある。うっかりすると出口がわからなくなってしまう。私もいくど迷ったかしれない。

あるとき、地下にある購買部に行こうと階段を降りると、見覚えのない回廊に出た。薄暗いその回廊を歩いていくと、白い円柱に挟まれたカウンターがあり、一人の老いた男が座っているのに気がついた。

私が道を尋ねようと声をかけると、老人は顔に歓喜を浮かべて叫んだ。

「お待ちしておりました! ご用命くださればただちに取り掛かります」

だが、私が事情を話すと、老人はかわいそうなぐらい悄気てしまった。私は気の毒になった。円柱には古びた木の板が取り付けられていて、そこには「銅像部」と書かれていた。私を客かなにかだと勘違いしたのだ。

「すいません。購買部に用があるのです」

「購買部ならこの廊下の先を曲がったところだよ」

「銅像部というのは何なのですか」

「銅像部では、功績ある学者先生の銅像の注文を受けつけるのだ」と老人は重々しく告げた。

私は大学構内にある数々の銅像を思い浮かべた。「ああ、たくさんありますね」

老人は自慢げに胸を張った。「そうだ、濱尾新先生、三好晋六郎先生、山川健次郎先生……、すべてこの銅像部の製作によるのだ」

「ずいぶん昔の先生方ですね」

「そうなのだ」と今度は肩を落とした。「昔は東大といえば銅像だった。だが最近ではもう……」と老人はぶつぶつと昔語りを始めた。銅像華やかなりしころの先先代の逸話、早稲田の連中に銅像づくりの技を盗まれた顛末、戦時中の供出で失われた傑作の数々、先代から始まる凋落と、今にまで続く忘却の時代……。

「何十年もここで銅像の注文をお待ちになっているのですね」

老人は私の質問には答えず、唸るようにつぶやいていた。「もう、銅像は時代遅れになってしまったのだろうか? それとも、銅像に値するような立派な先生が払底してしまったということなのだろうか……」

私はただ曖昧な笑みを浮かべ、一礼すると歩み出した。背後の老人の悲しげな呻き声がどこまでも私を追いかけてくるように思えた。

私が東大にいた時期はほんの短いもので、再びこの「銅像部」を訪れる機会はなかった。だが、先日、数十年ぶりに、本郷キャンパスに行く機会があり、ふとあの「銅像部」と老人のことが思い出された。

私はあの地下の階段を降り、再び薄暗い回廊に出た。そして、その回廊の先の、白い円柱に挟まれたあの場所に立った。カウンターも、老人も、「銅像部」の看板も何もなく、ただ立派な3Dプリンタが置かれているだけだった。

苦い文学

シリアス・カップル

シリアス・カップルとは、主として都市部で、夜の駅の改札口周辺に出現する男女のことだ。

いつも厳しい顔つきで互いを見つめあっていることから、この名がついた。

その名の通り、二人は何か深刻な問題で対立しているように見える。だが、不思議なことに、口論などは決してしないのだ。ただ、まるで時間が止まったかのように睨み合っているだけだ。

私はこの不思議なカップルに出くわすたびに、なぜ、いつも駅で見つめあっているのか、考察を重ねてきたが、最近、納得のいく答えが見つかった。

シリアス・カップルは、駅の混雑の緩和と、ケンカなどの抑制のために、駅が特別に配置しているのではないだろうか。

私たちは、シリアス・カップルを見ると、ある種の緊張感と好奇心を呼び起こされ、その周辺を歩くときは、自ずとゆっくり、慎重になる。これは、混雑した駅構内で、歩行者同士の衝突などの思わぬ事故を避ける上で効果があろう。

また、夜の駅ではしばしば乗客同士のケンカや、駅員に対する暴力行為が発生するが、これもまたシリアス・カップルの存在によって、抑制されるものと考えられる。なぜなら、人はケンカをするよりも、ケンカを見るほうがはるかに好きだからだ。

となると、シリアス・カップルは恋人同士などではありえないのは明らかだ。おそらく、駅が雇ったバイトか、駅員ではないだろうか。

いずれにせよ、まだまだ謎は多い。シリアス・カップルについて情報をお持ち方からのご連絡を待っている。

苦い文学

予言

もし、ウクライナの戦争が長引き、プーチンの時代が続くとすれば、プーチンは日本にある提案をしてくることだろう。

北方領土を返す、そのかわり、経済制裁をやめろと。

そして、もし、そのときの日本の政権が保守政権であり、しかも、アメリカが共和党政権であったら、日本政府はその提案を呑むだろう。

我が国は北方領土を取り戻すのだ。だが、それだけではない。北方領土に暮らすかなりの数のロシア人が、日本国籍を取ることだろう。

北海道にも移り住むことだろう。

そのとき、ロシア人に対する迫害が始まるのだ。もちろんプーチンは黙ってはいない。ロシア人を守るために、日本に軍を派遣する時が来たのだ。

日本はウクライナのように戦うだろう。だが、ウクライナと違うのは、アメリカは助けてくれないということだ。北方領土返還の時点で、見限ったのだ。

となると、日本が助けを求めることができるのは中国しかない。

中国はロシアと交渉する。そのおかげで停戦が実現する。だが、それは、中国とロシアは日本を半分に分けあうということでもある。

そしてその時になって我々は悟るのだ。「君と僕は同じ未来を見ている」という予言が成就したということを。

苦い文学

現代の大岡さばき

被告:鰻文男(うなぎ・ふみお、53、住所不定無職)

事件の概要:2022年3月、マスクなしで飲食店に入り、マスク着用を求めた従業員らに対し激高し、「俺はコロナだ」などと大声で騒ぐ。通報を受け、駆けつけた警官たちにより、威力業務妨害の現行犯で逮捕。

裁判での弁護側の主張:被告は長い間、不遇で孤立した状況にあった。「俺はコロナだ」というのは、「自分はまるでコロナのように嫌われている」という被告の心情を表したものである。「自分がコロナウイルスに感染している」ということを言ったものではなく、それゆえ危害を加える意図もなかった、として無罪を主張。

判決:裁判官は、こうした事件では異例の主文後回しを告げ、判決理由を述べた。そののち、「被告は死刑だ」と宣告。

予想外の極刑に被告が激しく動揺すると、裁判官は「被告はまるで死刑のように難儀な男ということだ」と述べ、罰金刑を言い渡した。