小説

時代にログインできない男たち(2)

翌日、私は仕事を休んで近所の病院に行った。「パスワードを忘れたのです」と受付にいうと、外来で待つようにと言われた。そこにはすでに何人もの男たちが長椅子に腰掛けて待っていた。

私は男たちのようすを窺い見た。携帯をじっと見つめている男もいれば、黙って目を瞑っている男もいた。どの男たちも不幸そうで、その額には深い皺があった。私も同じように見えたにちがいない。誰かが深いため息をついた。それに釣られて、いくつかのため息が連鎖した。

ああ、私たちがどれだけ陰鬱だったとしても、それは無理からぬことであった。パスワードがないとは、時代にログインできないということであり、時代にログインできないということは、人間としての尊厳も、地位も、価値も、職も失うということであったから。すべてを失って生きるつらさを考えれば、いっそのこと世界からログアウトしてしまうほうが楽かもしれなかった……

男たちは次から次へと診察室に呼ばれていった。そして、私の後にも次から次へと陰気な男たちがやってきた。私は診察室から出てくる男たちのようすを注意深く見ていたが、どの顔も入ったときと同じく暗いままで、時代にログインできたと喜んでいるようすなど微塵もなかった。

「これは簡単なことではないぞ……」とますます気が滅入る。と、診察室から声がして私の名を呼んだ。

苦い文学

ストレスチェック

今年、平助はある学校で、非常勤として授業を一コマ担当した。前期だけだから、契約期間も9月いっぱいで終わりとなった。すると、10月になって、その学校からこんなメールが送られてきた。

「ストレスチェックのお知らせ」

メールを開くと「必ずストレスチェックを受けてください」と書いてあり、どうやら常勤の教員や職員が対象のようだ。契約の終わった非常勤には関係ない、と平助はメールを削除した。しかし、2週間後、またメールが来た。

「【周知】ストレスチェック実施のご案内」

今度も削除すると、1週間ほどのちにさらなるメールが送られてきた。

「【重要】ストレスチェックのご案内」

メールには、「*このメールは現在実施中のストレスチェック未受検者の方に送っています。」とあり、ストレスチェックの URL が貼り付けられていた。そこまでいうのなら、と平助はリンクに飛んでストレスチェックを受けることにした。

60 問ほどの質問があって、そのそれぞれに「そうだ まあそうだ ややちがう ちがう」のどれかで答えるのだった。

1問目「非常にたくさんの仕事をしなければならない。」
2問目「時間内に仕事が処理しきれない」

どうやら質問は、常勤向けのようだった。非常勤暮らしの平助は、やるせない思いを抱きながらも答えていくと、こんな質問が出てきた。

12問目「私の部署内で意見の食い違いがある」

もう無理だ、と平助はタブを閉じた。

それから数日後、メールがやってきた。

「【緊急】ストレスチェックを受けましょう!」

平助はもう確信していた。連中は非常勤を相手にストレス発散しているのだ、と。

苦い文学

このブログの内容

このブログをはじめたとき、私は当時かかわりのあったビルマや難民について書こうと思っていた。だが、次第に嘘を書くほうが多くなり、今ではほとんど嘘になった。おかげで最近では事実を書くのに抵抗を感じるようになった。

事実を書くと嘘を書いているような気になるのだ(これも嘘だ)。

もとより誰かを騙そうとしているわけではないが、世の中には「人がものを書くとき、本当のことを書くものだ、わざと嘘を書く人などいない」と信じている人もいる。結果として私の嘘(のある部分)を、もしかしたら、事実だと誤解してしまった人もいるかもしれない。これはもちろん、私が悪いのであり、そうしたことのないよう、ここにその旨、明記しておきたい。

なお、投稿にあたっては、特定の人を傷つけることのないように、つまり、傷つけるならば、必ず人類すべてが傷つくように配慮している。だが、予期せぬ間違いもあるだろう。被害にあわれた方は「Contact」からお知らせ願いたい。

苦い文学

キクラゲ

何年か前、都内の豚骨ラーメン屋に行ったときのことだ。メニューを見ると、外国人観光客もよく来るのか、英語が併記してある。

キクラゲ入りのラーメンの表示を見ると、こんなふうに書いてあった。

Ramen with Jew’s Ear

Wikipedia で調べてみると、古くからヨーロッパでは、キクラゲを「ユダヤ人の耳」と呼ぶのだという。新約聖書のイスカリオテのユダが首を吊った木から生えてきたという伝承に由来し、もともとは「ユダの耳」と呼ばれていたのが「ユダヤ人の耳」となったそうだ。

この呼称がユダヤ人差別にあたるかどうかは、いくつか意見があるようだが、誤解を生みそうな名称は避けるにこしたことはない。

それに「ユダヤ人の耳を大盛りで!」では、あまり食欲もわかない。

おそらく、英語のメニューを作成する時に「キクラゲ」を調べたら「Jew’s Ear」が出てきたのであまり深く考えずに採用したということだろう。

最近では中国の食品も簡単に手に入るようになったが、即席麺のかやくにキクラゲが入っていて、やはりそのパッケージに「Jew’s Ear」と書いてあった。これも同じように深く考えずに採用したものとみえる。

さて、それからしばらく経って、また件の豚骨ラーメン屋にいったら、キクラゲラーメンは「Ramen with Wood Ear」に変わっていた。漢字の「木耳」をそのまま英訳したものだ。

こっちのほうがずっといいし、これなら、禁じられたミミガーを食べられるとの噂を聞きつけて、ナチスの残党が団体で来店する危険はほぼなくなった、と言えるだろう。

苦い文学

働かざる者に

無職にもかかわらず、果敢にも食べ続けた人が私たちの先輩にいた。

ストイックにタダ飯を食らうその姿は、まるで「働かざる者食うべからず」という記録に挑むアスリートのようであった。

その大胆不敵な食べっぷりを見てある唯心論者が先輩をこう批判したことがあった。

「こんな穀潰しに食べさせる金があるなら、猫を救ってほしい」

というのも、この人は愛猫家で何匹も保護猫を飼っていたのだ。彼の言葉を聞くや先輩、そのお宅を訪問した。主人は不在であったが、そのまま上がると、片手で猫どもをすくいとった。そして、庭先で丸焼きにして食べてしまった(ご馳走に招待されたと思ったのだ)。

あるとき私たちのもとに先輩からこんな手紙が送られてきた。

「働かざる者こそ食うべきであるとの信念のもと、世の通念に逆らい、不惜身命の思いで食べつづけてまいりましたが、この度をもちまして引退いたします」

私たちは「ついに先輩も就職か」と仰天した。ある者は新たな門出を喜び、ある者は裏切りだと憤慨した。しかし、引退の理由についてはっきりとは分からなかった。

しばらくしてその真相が明かされた。

後進の育成にあたられるということであった。