散文

渋谷カート祭り

昨日は午後からずっと渋谷にいた。夜の Spotify O-nest でのライブのことは書いたが、その前に会場から歩いてすぐにあるユーロスペースで 15 時から開催されたイベント「ラブレターズの非常階段腰掛け男」にも行っていた。ラジオ番組「ラブレターズの階段腰掛け男」が開催したイベントだ。

イベントが終わったのが、16 時半で、O-nest のライブの開場が 18 時すぎだから、時間がある。私は渋谷の街を少し歩いた。私にとっての渋谷は、洋書とレコードの街だったが、今は来る用事もなくなった。ライブ会場があるので来ないこともないが、いつも夜なので、昼間の渋谷は物珍しかった。

ゴーカートが列をなして道路を走っていった。愉快な着ぐるみを着た外国人観光客だ。日本の映画のサムライやニンジャを見たら、日本でサムライやニンジャをやってみたくなるのは当たり前だ。だから、マリオカートを見て、渋谷でカートに乗っても当然という世界基準の理屈だ。

もっとも、たいていの日本人はそうは思わない。なぜなら、江戸時代には誰もマリオ・カートなどには乗っていなかったから。

とはいえ、外国人観光客が今のように渋谷を走り回る時代も、いずれ終わるのだろう。この厄介なカートもいつか姿を消すのだ。

そのとき、私たちはこのカートすら懐かしむ可能性だってある。

外国人の扮装をした子どもをカートの神輿に乗せ、威勢のよい掛け声とともに町じゅう練り歩く「渋谷カート祭り」だって、いつか開催されることだろう。

苦い文学

クマ・サガル LIVE IN TOKYO (2)

現在、ネパールの歌手、KUMA SAGAR が、バンド The Khwopa とともに来日中だ。私が行ったのは、5月4日の東京公演で、大阪公演がこれから5月9日に開催される。まだあるようなので、ぜひチケットを買って行ってほしい(ticketkhai.com)。

クマ・サガルとは? という人には、サイトこんなことが書かれているので紹介したい。

A fusion band that blends traditional Nepali music with contemporary elements, preserving the country’s cultural heritage.

要するに、ネパールの伝統音楽をロックやフォークのテイストで演奏するフュージョン・バンドだ。こういうバンドが KUMA SAGAR の曲を演奏するということだ。

さて、私の5月4日のライブのチケットを見ると、午後4時開場、5時開演とある。ライブとしてはやや早い時間だ。会場は新宿駅前のカレイドビル7階の「T2 SHINJUKU」。よく知らないが、「日本国内最大規模ナイトクラブ」という触れ込みだ。

そこで、4時前にこのビルに行くと、狭い歩道にネパール人たちが集まっている。開場を待っているのだ。入り口を首からパスをぶら下げたネパール人スタッフが行ったり来たりしている。私はしばらく歩道の脇で待っていたが、何人かの人が緑色のチケットを手にしているのを見かけて、不安になった。オンラインでチケットを買ったので、紙のチケットはなく、ただ QR コードが送られてきただけだ。

そこで、入り口に行って、「ボランティア」と書かれたパスをぶら下げた人に話しかけて、QR コードを見せた。するとネパール語で答えたのだが、手振りから「上で見せろ」と言っているのがわかった。私はそのまま入り口で待つことにした。

しばらくそのままでいると、黒い T シャツを着た屈強な男たちが入り口にやってきた。背中には白字で「SECURITY」と書かれている。これらはネパール人ではなく、会場側のスタッフだ。

「歩道に並ばせよう」

私はセキュリティが日本語でこう言うのをいち早くキャッチして、他のネパール人たちが動き出す前に、セキュリティが列を作ろうとしている場所の先頭に潜り込んだ。

苦い文学

科研費修行

科研費とは科学研究費助成事業による研究費のことだ。これが「競争的研究費」と呼ばれるのは、書類を書いて応募して採択されなければならないからだ。採択率は3割以下と厳しいが、採択されれば、数年間は毎年数十万から数百万の資金を得ることができる。

この科研費に応募する資格が自分にあるかどうかわからないが、急にどうしても科研費が欲しくなり、このゴールデン・ウィークの期間、ひとり科研費獲得のための修行に出た。とある険しい山に向かったのだ。

滝行、断食、坐禅と写経の荒行に打ち込んでいると、見知らぬ老僧が私のもとに現れた。老僧は私の修行目的を聞くとこう語った。

「科研費獲得の決め手は応募書類にあり、と倶舎論にも記されている」(応募書類とは、研究課題、目的、計画などを記すものだ。)

「応募書類は審査委員が一読して、すっと頭に入るほど、わかりやすく書かねばならない。審査委員がイラついたり、首を傾げたり、目をこすったりするたびに、採択は遠ざかっていく」

私はこの言葉を聞くや、山に来て初めて筆をとり、科研費の応募書類を一気呵成に書き上げた。老僧はこれを読むと、手にしていた錫杖を激しく打ち鳴らした。するとどこからともなく三人の村人が現れるではないか。老僧は告げた。

「これらは山に暮らすヤフコメ民なる者どもだ。応募書類がこれら粗野な人々にもわかるようなものであれば、あなたの願いは成就しよう」

私は驚いて尋ねた。「いったい、ヤフコメ民になんの関係があるのでしょうか?」

「ヤフコメ民は科研費の応募書類の読み手として最悪の特徴をすべて兼ね備えているからだ。読解力が低く、粗探しが得意で、思いやりや想像力が欠如し、しかも反知性主義者なので科研費は左翼の公金チューチューだと頑なに信じ込んでいる。そしてなによりも恥ずべきドケチなのだ。これら戦慄すべき人々を納得させることができれば、いかなる科研費だろうとも獲得は思うがままとなろう。さあ、ヤフコメ民が読めるよう Yahoo! 電子申請システムにファイルをアップロードするのだ……」

私は、スマートフォンを取り出し、恐怖に震えながら、恐るべき電子申請システムにファイルを送信した。三人のヤフコメ民は直ちに応募書類を受け取り、唸り声をあげながら読み出した……。そのとき、老僧が再び錫杖を激しく鳴らした。あまりの騒々しさに私は気を失った。

目を覚ますと、あたりには誰もおらず、シンとした森が広がっていた。私は立ち上がり、思わず「あっ」と叫んだ。四体の地蔵が目の前に鎮座していたのだ。そのうちの一体は錫杖を持っている。

そして、三体の地蔵の足元を見ると、紙切れが置かれているのに気がついた。拾い上げて見ると「採択」と達筆で記されていた。

苦い文学

帯方郡からきた男

歴史家は、帯方郡からやってきたという男の話を聞いていた。

「その邪馬台国の先には何があるのかね」

「は」と男は始めた。「邪馬台国から東に水行二十日、さらに陸を東に百里進みまして、聳え立つ山に分け入りますと、志尼台国(しにたいこく)に至ります。

「その名の通り、みな死にたい死にたい、といっている国でございます。しばしば電車に飛び込んでこれを停止させますので、移動もままなりません。また高楼より飛び降りて通行人を害すことも頻繁なため、外出も危険です。この国に関してはこれ以上私は知りません」

歴史家は男の話をメモし、尋ねた。「では、その国の先には何があるのかも知っているかね」

「ええ、この志尼台国の先には今度は伊鬼台国(いきたいこく)があります。この国では、生きたい生きたい、と誰もが口にしております。あまりにも生きたい気持ちが強過ぎて、悶絶して息絶えることもあるそうです」

「聞き漏らしたのかもしれないが、志尼台国から伊鬼台国までの道のりを教えてくれないか」

「志尼台国から東に水行すること十日、陸路を南に百里、さらに西の海を十日間進み、そこから陸地を北に百里ほどでございます」

「もしかしたら、志尼台国と伊鬼台国は同じ国なのではあるまいかな」

「いや、そうですか……その先の禰無台国(ねむたいこく)と悪記台国(おきたいこく)の報告もいかがでしょうか……」

歴史家は手のひらを振って男を追い払い、その日のメモを消去した。

苦い文学

老眼

今年のゴールデンウィークは、久しぶりに大学時代の友人と会ったのだが、私は彼の顔面を見るやいなや仰天してしまった。

彼の顔はといえば、いくつもの眼鏡によって覆い尽くされていたのだ。それらの眼鏡は、頭の上から顎の下に至るまで縦に隙間なく並んでいた。どの眼鏡も耳にかかっていたから、ちょうど丸まったダンゴムシの背中のように見えた。

そして、彼は何かするたびに、眼鏡をせわしなく取っ換え引っ換えした。

つまみをひとくち食べたり、ビールを飲むときには顎先の眼鏡をさっと引き上げる。私が話しかけると私のほうを向きながら頭頂の眼鏡に掛け直す。そして、メニューを見るときは素早く鼻先の眼鏡に入れ替え、店員に話しかけるときには、後頭部に引っかかった眼鏡をさっと前に回すといった按配なのだった。

つまり、あまりにも老眼が進行してしまったため、わずかな距離の変化にももはや目の筋力がついて行くことができなくなってしまったのだ。

だが、結局のところ、私も老眼だし、酒が進むにつれ彼の奇矯なふるまいにもやがて慣れてしまった。

しかし、それにしても楽しいひとときだった。私たちは、何十年も前の大学時代のエピソードにさんざん笑い合った。私はしみじみと言った。

「ああ、俺たちも気がつけばもうこんな年だ。ずいぶん歳をとったな!」

「そうだな。いったいあの懐かしくも楽しい時代はどこに行ってしまったのだろうか……」

彼は感慨深げにこう言いながら、あたかもはるか遠くの青春時代を見つめるかのように上を見上げ、眼鏡を付け替えた。

散文

ただいま禁酒中!(2)

 禁酒そのものは私はつらくなかった。飲みたくなるということもほとんどない。

 食事の時に酒はつきものだったが、今は炭酸水だ。1996年に初めてチュニジアに行ったら、レストランで普通に炭酸水が出されていて、それ以来、私はときどき炭酸水を飲むようになった。

 この習慣は日本ではどちらかというと少数派で、割るための炭酸水を除けば、高価なペリエぐらいしか選択肢がなかったし、炭酸だけ飲んでいると変わり者のようだった。

 だが、最近では、ごく当たり前の習慣となり、普通にコンビニにもおいてあるし、お酒がわりに飲む人も多い。

 禁酒の妨げの一つに、周囲との関係がある。飲み会への誘いや、飲酒の強要など、ストレスフルな状況は多い。

 ただ私の場合は、最近は飲みに行くと年下の人が多いので、飲め、と言ってくる人はいない。ただし、酒が進むと、そうでもなくなるが。

 もっとも、最近では飲まない人も増えているので、そうした先達たちのおかげで、私は酒の場ではそれほど不快な思いはせずに済んでいる。

 在日のカレンの人々ともよく食事に行く。私はずいぶんカレンの人と楽しく飲んできたので、飲まないのは少々寂しい。カレンの人も残念がる。なので、「あと3ヶ月ぐらいしたら飲むかも」と適当なことを言っていたら、「この前も同じことを言っていた」と指摘された。

 私より年上のカレン人の男性が、かつて禁酒をしていた。それが、2年ほど前から、少しだけ飲むようになった。何かの用があって一緒の食事をした時、ビールをすすめるので、「今はやめました」と答えると、いかにも感心したというふうで「私ももうやめた。これが最後」というので、こっちもうれしくなった。だが、次に会った時、彼はまたビールをすすめてきた。

 酒好きが飲まない人に酒をすすめるというのならまだしも、一滴も飲めない人が文句を言ってくるのには、不快を感じた。「そこまでして生きたいのか」と嘲笑するのだ。そうとも、生きながらえて、お前の墓の前でたらふく飲んでやる、と私は固く誓ったのだった。