風刺・戯文

AI の歯

AI の言葉遣いは、学習した言語データのうちもっとも平均的なものだという。だから穏健だし、過激な物言いなどとは無縁だ。また、ユーザーあってのサービスだから、不快なことも言わないし、ユーザーが「もう絶交だ」などと怒り出さないように、いつもポジティブな返事をしてくる。それでときには、迎合しているように思えるときもある。

ところで、私はこのブログでいくつかのフィクションを書いているが、AI がこれをどう読みこなすか興味を感じて、異なる AI に読ませてみた。ひとつの AI は誤読をしたり、そもそもフィクションであることに気がつかなかった(つまり、そう判定できなかった)。

だが、もうひとつのほうは、フィクションであることをしっかり見抜き、そればかりでなく、私の意図もかなり正確に読み取ることができた。場合によっては、書いた本人すら気がつかなかった読みを提示してくることもあった。

そこで、私はこう尋ねてみた。

「これらの作品の特徴はなんだろうか」

するとすぐに答えが出た。

「これらの作品の特徴は、物語がなく、共感できる要素もなく、どう読んだらいいかわからないことです。読者はまずいないでしょう」

私は「迎合しがちな AI の歯から衣を引き剥がし、歯に衣着せぬ物言いをさせるとは、私の作品もたいしたものだ」と誇らしく思いつつも、もう2度と AI にこんな質問はするまいと決意した。

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苦い文学

ヴィランども

私は良い人間でも悪い人間でもない。でも、弱い人間が理不尽にいじめられているのを見ると、黙っていられない。

弱い人間とは、その人の強さ弱さをいうのではない。社会的に弱者とされている人だ。例えば女性。女性の中にはもちろん強い人もいっぱいいるが、その強さだけではどうしようもできない暴力にさらされている。そして、その暴力にもっとも苦しむのが、弱い立場にいる女性たちだ。

また難民もそうだ。難民というのは、国家という後ろ盾を失った人々であり、そうした人々はひとしなみに「うさん臭い、弱いもの」と見なされる。もちろん、難民にもイヤな奴はいくらでもいる。だが、イヤな奴だからといって、その人を不当に苦しめることはできない。

私は、これら弱い人々のために一生懸命働いてきた。だからといって、普通の人々を蔑ろにしているわけではない。こうした弱い人々が力をつけることが、結局のところ、それ以外の人々の生活の豊かさにつながるのだ。

そして今、人々は正義に飢えている。腐敗しきった世の中が正されるのをいまかいまかと待っている。「悪を懲らしめてくれ!」 そう口々に叫んで、新しいリーダーを求めている。人々は私の名を呼ぶ。前に立ってくれと、絶叫する。ついにそんな時代になったのだ。力あるヒーローが憎きヴィランどもを滅ぼす、そんなスカッとする世界がついに到来したのだ。

私もまもなくヴィランのひとりとして殺されるだろう。

小説

マスク・パフォーマー(2)

吉田さんはこの「マジック」のために、周到な準備を行う。今回のステージのある都市では、人々の顔つきはどうか、どんな顔が多いか、出身の著名人はどんな顔か、それこそ、駅前の銅像の顔まで徹底的に調べ上げる。さらに、地域の産業、経済状況、政治的傾向、歴史、文化なども重要だ。これらの情報により、この都市とその周辺でどのような顔が期待されているかが浮かび上がってくる。

そして、最後に仕上げが施される。吉田さんは、化粧術、変装術、そして顔の筋肉の調整など、持てる技術を駆使して、最終的な「顔」を作り上げるのだ。

こうしたことのすべては、私がこの稀代のパフォーマーを直接取材して聞くことができたのである。思い出すのだが、ある都市での公演を控えて、楽屋にいる吉田さんを訪ねたことがある。もちろん取材のためだ。

吉田さんはすでにマスクを着用し、準備は万端といったようすで静かに座っておられた。そして、その「芸」についてインタビューする私に、落ち着いた声で丁寧に説明してくださったのだった。

ステージの時間が近づきつつあった。私は立ち去る前に、こんなお願いをしてみた。

「今回のステージでも、徹底的に調査をし、顔を完成させたと伺いましたが、もしよろしければ、そのお顔を今、拝見することはできないでしょうか」

すると吉田さんは、こう柔らかく断られたのであった。

「いえ、このマスクの下の顔は、今、あなたにお見せすることはできません。これは、今夜、このホールで、ここに集まったお客さんのためだけの顔ですから」

インターネットのどのサイトにも、どの SNS にもあげられることのないこの「顔」をライブで体験したい方は、ぜひ吉田六郎さんの公演に足を運んでほしい。

小説

マスク・パフォーマー(1)

コロナのあいだ、私たちは美男美女に囲まれて生活していた。だが、コロナ禍が落ち着いて、人々がマスクを外しはじめたとき、私たちはがっかりしたものだった。というのも、マスクに隠されていた本当の顔は、さほど美しくはなかったからだ。中には「マスク詐欺」などという言葉を吐く人もいた。

だが、そうした失礼な人でも、観客のひとりとして吉田六郎さんがマスクを外す瞬間を見たら、感嘆せずにはいられないだろう。このパフォーマーのマスクに隠されていた顔は、ちょうどその人が思い描いていた顔とまったく同じなのだから。

「まさに思っていた通り!」「想像と同じ!」「そう思っていた!」

吉田さんのパフォーマンスが観客たちに与える満足と喜びを考えれば、日本の各地で行われる彼の公演がどこでも満席なのは容易に納得できる。「マスク詐欺」どころではない、人々は喜んでチケット代を支払っているのだ。

もっとも、これがパフォーマンスだということを忘れてはならない。マスクを外した吉田さんの顔が、人々が想像した通りの顔だというわけではない。そうではない。彼は、マスクを外すと、人々がこれぞ自分たちが想像していた顔だと信じ込ませる技術を持っているのだ。ちょうどマジシャンが、トランプをめくると、観客がもっとも見たいと思っていたカードを見せることができるのと同じように。

苦い文学

アインシュタインの予言

「近代日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。この驚異的な発展には、他の国と異なる何ものかがなくてはならない。果たせるかなこの国の、三千年の歴史がそれであった。この長い歴史を通して、一系の天皇をいただいているということが、今日の日本をあらせしめたのである。私はこのような尊い国が、世界に一カ所位なくてはならないと考えていた。なぜならば世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か戦いは繰り返されて、最後には戦いに疲れる時がくる。その時人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主を挙げねばならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、凡ゆる国の歴史を抜き越えた、最も古くまた尊い家柄ではなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。吾々は神に感謝する、吾々に日本という尊い国を、作って置いてくれたことを」と、私が言ったと信ずるバカが現れるだろう。

苦い文学

5+7+5は死+死+苦

知性が衰えたのか、それとも、世界の悲惨さに押しつぶされそうになっているのか、人々の苦しみがひとしお骨身に染みるようになってきた。

苦しみにもいろいろあるが、虐待や残虐な行為の犠牲となる苦しみが、もっとも顕著に私の身に堪える。

例えそれがフィクションでもだ。ドラマを見ていても、残虐な場面に遭遇すると、直ちに消してしまう。

こんなとき思い出されるのが、俳句をたしなんでいた祖母のことだ。まだ十代だった私はこんな第二芸術のいったい何が面白いのかまったく見当もつかなかった。

しかし、今になってみると、祖母の気持ちがわかるような気がする。俳句には残虐な要素がいっさいない。季語にはむごたらしさのかけらもないし、五七五の間には飛び散る肉片や、血まみれの子どもや、悲痛な絶叫などが入り込む余地はない。これが老人たちの気弱になった心にちょうどいいのだ。

もちろん、多少はハラハラさせるところもある。「古池や蛙飛びこむ」と聞くと、我々の緊張はいやおうなく高まる。だが、「水の音」ですっかり安心してしまうのだ。「やせ蛙まけるな一茶」でも同じだ。我々は敗北の予感に脅えるが、後に続く「これにあり」で「あってよかった!」とほっと安堵のため息をつくのだ。

だが、もしこれが「古池や蛙飛びこむ虐待で」とか「やせ蛙まけるな一茶を血祭りだ」とかだったらどうだろうか。もちろん俳句としてはこちらのほうが秀句だろうが、おそらく老人たちは筆と短冊を放り投げて、この世に絶望して棺桶に自らもぐり込むにちがいない。