風刺・戯文

地頭の悪さについて

することがないので街をぶらぶら歩いていたら、一群の人々に出会った。みんなで大きな荷物を担ぎ、口々に叫んでいた。よく見てみると、荷物ではなくゴザでぐるぐる巻きにされた男なのだった。そして、人々はその男に「バカめ」「アホ」「ノロマ」などと侮蔑の言葉を浴びせかけていた。

私は思わず尋ねずにはいられなかった。「この人がどうしたのですか。盗撮でもしたのでしょうか」

ひとりの男が答えた。「私たちはこの男を海に沈めようと運んでいるのです」

「それはまたどうしてですか」

「こいつ、地頭が悪いからだよ!」と別の男が忌々しげに叫んだ。「そうだ!」「悪すぎる!」と人々は同調した。

「地頭が悪いからといって海に投げ入れることはないではありませんか」

「違うんだ! こいつは地頭は悪いままのほうがいいと言って、絶対に何もわかろうとしないのだ」「地頭の悪さが犯罪的なのだ!」「地頭のよさに対する侮辱だ!」 そういうと、人々は男を殴りつけた。男は呻き声をあげた。私は彼に話しかけた。

「いくら地頭が悪いといっても、あなたはご自分が海に放り投げようとされていることぐらいはわかるでしょうに!」

簀巻きにされた男は苦しそうな声で答えた。「わたくしは……地頭の悪い男でございます」

「そんな! 死ぬのに地頭の良し悪しは関係ありませんよ!」

「わかりません。わたくしは地頭が悪いからこそわからないのでございます」

人々が嘲った。「この調子だ!」 ひとりが私に説明した。「こいつは、地頭のよさより、地頭の悪さのほうがずっといいって言いやがるんだ。わからないままでいたいんだとさ! とんだ地頭の悪さだ!」

男がうめいた。「そうではないのです。わかった気になるより、わからないままでいるほうが、ずっと大事だ、と申し上げたのでございます」

「そうさ! だからいっそのこと、わからないままにしてやろうってのさ!」 人々はそういうと簀巻きの男を運んで、海のほうに行ってしまった。地頭のよい人々は、なるほどすぐやる人々だ。

風刺・戯文

鴎外の害

森鴎外という作家はご存知だろうか。昔の文豪だ。

少し本でも読んで勉強しようと、たまたま手に取った本の作者が森鴎外だった。それは短編集で、最初の何編かは面白く読めたのだが、ある作品で私はもう先に進めなくなってしまった。怒りに身が震えて、思わずその本を壁に投げつけてしまった。

それは「普請中」という作品だ。この小説は、作中のこんな台詞で有名なのだ。

「日本はまだ普請中だ」

なんということを言うのだろうか。文豪ともあろう人が。日本人ほど文豪に弱い人々はいないのだ。文豪のいうことを信じすぎる。おかげで、日本人は日本は普請中だとすっかり信じ込んでしまった。いや、それどころか、普請中こそ日本だと思い込んでしまったのだ。

その結果、何が起きただろうか。いつまで経っても終わらない駅の工事だ。昨日あっちにあったと思ったら今日は行手を塞ぐ神出鬼没の白の仮囲いだ。目まぐるしいルートの変更で、わたしたちを迂回させ、迷わせ、その挙句、新しくできた角で出会い頭に衝突させ、頭を砕く、恐るべき普請中だ。

本当に迷惑な話だ。文豪が普請中にお墨付きを与えたせいで、わたしたち日本人は、永遠に完成することのない駅構内をさ迷い続ける羽目になったのだ。

苦い文学

コスモス

『コスモス』は、ポーランドの作家、ヴィトルド・ゴンブロヴィッチの小説で、日本では「東欧の文学」というシリーズの一冊に入っている。

この(シリーズの一冊としての)『コスモス』には、別のポーランドのユダヤ人作家のブルーノ・シュルツの短編集『肉桂色の店』も入っている。順番としては、シュルツ、ゴンブロヴィッチの順に収録されている。

この夏、ポーランドに行くことになったので、積みっぱなしのポーランド文学を読んでおこうという気になった。そのうちの一冊が、『東欧の文学 コスモス』だ。

私は少しずつ読み進め、『肉桂色の店』をほぼ読み終えたところでポーランドに持って行くことにした。

そして、この本を私はポーランドで無くしてしまった。ワルシャワに到着した日に私はキャリーバッグを引っ張って、駅からホテルまで長い距離を歩いたが、そのバッグのチャックが開いていたのだ。どうやらそこから『コスモス』だけが、ワルシャワの街角のどこかに落下したらしい。

非常にガッカリしたが、しょうがない。また、シュルツには別の日本語訳もあり、私はそれも持っていた。

その後、ポズナンの本屋でオリジナルの “Kosmos” を見つけた。私はポーランド語はわからないが、一応「江戸の敵を長崎で討つ」の精神で購入した。

苦い文学

不徳

私は犬を飼っている。マンション暮らしなので、たまには自由に走らせてやりたくて、車に乗せてドッグランに連れて行った。

その日は日曜の昼だというのに、奇妙にもほかに誰もいなかった。人の吐息のような湿気のある空気が立ち込めていて、私はしきりに汗を拭った。

それでも犬は元気に走り回っていたが、不意に私のところに怯えて逃げ込んできた。ドッグランのスタッフが大きな黒犬を連れて入ってきたのが見えた。

私は、震える犬を撫でながら、自分自身も得体の知れない不安を感じた。そして、スタッフのほうに再び目をやったとき、彼が連れているのが犬ではないことに気がついた。

それはシェパードほどもある黒い軟体動物だった。

スタッフは私に近づいてきた。その生き物も身をくねらせながらその脇を進んできた。私はとっさに犬を抱き上げた。その生き物はおぞましかった。

「すいません。今日はもう閉園です」と彼は言った。

私はうなずき、彼が連れている「もの」について尋ねた。

「ああ、これはフトクです」

「フトク?」

「ええ、急に訓練しなくてはいけなくなりまして、申し訳ありませんが……」

相手の態度に非日常的なところがなかったせいか、私は好奇心が湧いてきた。

「そのフトクとはなんなのですか? はじめて見ました」

「ああ、まともな人なら見ることはありませんよ。これは、不徳の致すところの不徳です」

「不幸の不に徳川の徳の?」

「ええ、ときどき不徳が不始末をしでかすので、飼い主の方が訓練してほしいと」

私は理解した。「つまり、不徳の致さぬようにしてくれと」

スタッフは笑った。私はその笑い声を聞きながら、犬を抱いて足早にドッグランを立ち去った。「私の不徳の致すところ」とは、こう言う人間にとってみれば「私の犬がやったこと」と言うのと変わらないのだ、という事実に驚きながら。

そして、あのおぞましい生き物がいかに哀れかと気がつき、自分の犬をいっそう抱きしめた。

苦い文学

老害記念日

今日は「老人の日」。これから、1週間の「老人週間」が始まります。「敬老の日」は9月の第3月曜日ですから、今年は9月19日ですね。

高齢化社会となった我が国では、従来の「老人の日」「敬老の日」に加えて、さまざまな老人ための祝日を制定することになりました。

10月は、老人の心身の健康を喜ぶ「老人スポーツの日」、若者が老人の言葉を拝聴する「聞き分けの日」、若者が老人のために寄付をする「年金記念日」。

11月は、「老人文化の日」と「老人感謝の日」に加えて、老人のわがままを聞いてあげる「冷や水の日」、老人の知恵を敬う「年の功の日」などもりだくさんです。

12月は、前半の2週間が、「師走週間」です。この期間中は、老人は何を買ってもすべて半額です。また、若者たちは老人に出会うたびに平伏して喜びを表します。後半の2週間は、「年忘れ週間」です。若者たちは老人に思い思いの贈り物を差し上げ、長生きを祈って平伏する期間です。

大晦日もお正月も、お年寄りを敬って、お年玉を差し上げる期間ですし、その後には「老人成人式」があり、地方自治体から高価な記念品が配布されます。

2月から8月までは省略しますが、月に10日は老人のための記念日が新たに制定されています。ただし、老人以外の人は休日にはなりません。

「なんだ、老人の記念日ばかりではないか」と思う方もいるかもしれません。もちろんそんなことはありません。今回新たに「若者の日」も制定されたのです。

「若者の日」は、若者たちが、若さの赴くままにわがまま放題にふるまい、高慢な顔つきで外を出歩き、老人に対して生意気な物言いをしたりすることが許されています。

この日ばかりは日頃の鬱憤を晴らそうと、若者に扮した老人たちが街に繰り出すのです。