旅・観察

ラブラービー

初めてチュニジアに行ったときのこと、私はチュニジア人の友人たちと家で食事をすることになり、パンを買ってくるように頼まれた。パン屋に行って、バゲットを四本ぐらい買って戻ると、こう言われた。

「なんでこんなに買ってきたんだ。固くなっちゃうじゃないか」

日本のスーパーで買う食パンは長持ちするので、私はその感覚のまま買ってきてしまった。チュニジアでは、宵越しのパンは固くなってしまう。ナマモノだ。

もちろん、だからといって、パンが残らないわけではない。チュニジアには、固くなったパンを食べるためにできたという料理がある。それがラブラービーだ。

これはドンブリに、パンをちぎって入れて、その上にヒヨコ豆とスパイスの入った熱いソースをかける料理だ。ただかけるだけではなく、スプーンでパンを潰して粥状にして食べる。半熟卵を入れることもある。

昨日のパンをできるだけ早く食べてしまいたいからなのかどうかわからないが、ラブラービーは朝の食べ物だ。家庭料理というより、お店で食べるもので、人気の店は早朝から客が列を作っている。

お店に入ると、ドンブリとパンを渡される。そのパンを自分の流儀でちぎってから、ソースをかけてもらう。そして、かき混ぜる。この過程も楽しい。由来はどうあれ、お店で提供されるのは、一晩じっくり寝かせたカチカチのパンではなく、柔らかいパンだ。

(写真:ラブラービー、かき混ぜる前)

苦い文学

クマ・サガル LIVE IN TOKYO (7)

クマ・サガルのライブで、私が恐れていたことのひとつは、群衆事故だ。最前列中央の前には黒い低い壁で囲まれた DJ ブースがあった。壁の前はパーテーション・ベルトが設置されており、その前には人ひとり分の隙間があった。

しかし、ライブがはじまり、観客たちの熱狂が高まると、人々は少しづつブースの壁へと押し出されていった。私が立っていたのはこのブースのない端の部分であったが、私も後ろからの人に押されて、ついにはブースの脇の高台に押し上げられた。

そこから、最前列を振り返って見下ろすと、後ろから押された若者たちが、ブースの壁に手を当ててしのいでいるのが見えた。非常に危ない光景だった。フロアには、人の動きを止める柵など設置されていなかったから、もしどこかでパニックが起きて、後方から観客たちが押し寄せてきたら、壁際の人はもうどこにも逃れることはできず、押しつぶされるほかないのだ。

私の場合は、たとえそうなっても、ステージの方に逃げられる、と考えていた。だが、後ろからどんどん人が前に湧いてくるので、もはやそううまく避難できるかもわからなくなった。

そして、もうひとつ私をおののかせていたのは、おしっこだ。5時前に会場に入場する前にトイレに行くチャンスがあったのだが、私はそうせずに会場に入り、自分の場所を確保した。そして、その瞬間から、5時間にわたる私と尿意との戦いが始まった。

はじめは少し音楽を聞いてから、ゆっくり行こうと、と考えていた。だが、メインフロアが開放され、ステージ前の最前列に立ってしまうと、もうできるだけここで聞いていようという気になった(私のカバンの中にはペットボトルがあった)。そして、会場が満員となり、ライブが始まっても、自分はまだトイレに行くチャンスはあると考えていた。しかし、人々が前へ前へと押し寄せてくるようになったとき、私はもうトイレに行くのは無理だと覚悟した(ペットボトルだ!)。

最悪の場合は漏らすことだが、これだけの騒ぎの中なら、バレないような気もした(もしかしたらペットボトルになら……)。

だが、結局のところ、すべて無事に終わった。群衆事故も起きず、おしっこも漏れず、私と観客たちはクマ・サガルの音楽に満足しながら会場を去ったのであった。

今回の公演を事故なく終わらせることのできた運営の人々、会場の人々、観客たち、そして私の膀胱に感謝をして終わりたい。

苦い文学

計画殺人(4)

「チャンスとはどういうことだ」と尋ねる署長に、吉田刑事は弾むような声で答えた。

「それはもちろん署長がもっともっとふさわしい地位に登るためのチャンスですよ! だって、この事件も署長の指揮のおかげで解決したのですから!」

「う、うむ、そうだな……」とまんざらでもない顔つき。その顔に向けて吉田刑事が次なる言葉を放った。「そこで署長の評価がもっともっと上がるような計画を立てたのです」

「計画と!」

「ええ、まず、私たち部下が署長の業績をアピールする文書を警視総監に送るのです。すると、間違いなく警視総監は私たちの署を訪れることでしょう。これでもう署長の知名度はぐんと上がります」

「そ、それでどうするのだ!」と署長は興奮を隠しきれない。

「もちろん、その次の計画も立てています。署長がこうしてああすれば……その計画は……」

こう吉田刑事が計画を詳細に開陳すると、署長の目はギラギラと輝き始めた。「……計画通りに行けば、署長は次の警視総監に……」という吉田刑事の言葉に、署長の口からは呻きとも喘ぎともつかない音声が噴き出た。

「さらには、勲章を……」 この一言で署長の目はクワッと見開かれ、妖しい光を放ち出した。そして、吉田刑事の「さらに、皇族の側近として仕える計画も……」という発言がトドメとなったものであろうか、口から泡を溢れさせながら、署長は卒倒した。

苦い文学

終末の鐘

私たちの社会ほど、子どもを憎んでいる社会はない。

ありとあらゆる知恵と技術と科学を動員して、子どもを苦しめることに夢中になっているのだ。

口を開こうものなら、うるさいと怒鳴りつけられる。元気よく走れば、騒がしい、とナイフ片手に脅される。どこに行っても厄介者扱いで、居場所はない。学校ではいじめや体罰が教育委員会のお墨付きで横行してる。

外を歩けば、老人が車で突っ込んでやろうと待ち構えてる。声をかけてくるのは、変質者か変態か性犯罪者か誘拐犯だ。これら剣呑な連中からどうにかこうにか逃げたと思ったら、車の中に閉じ込められて蒸し焼きになる始末。

便利であるべき携帯電話、パソコン、ゲーム、ありとあらゆる先端技術が、相手が子どもとなるととたんに牙を向く。子どもの未熟な脳を利用し、金を奪い、知性と精力を消耗させにかかるのだ。そして、ふらふらなった頭のたどり着く先は、電車への飛び込みか、犯罪の片棒担ぎだ。

世界中いたるところ、子どもの叫びが、まるでこの世の終わりの鐘みたいに鳴り響いている。

こんなでは、産まれないほうがマシではないか。少子化も当然ではないか。そして、産まれたとしても、ちょっと見ない間に、すぐ大人になってしまうのも当然ではないか。

苦い文学

真の日本語教師

ある素晴らしい日本語教師のことをぜひ紹介させてください。

都内のとある日本語学校にいるその人は、熱意とやる気に溢れ、いつもクラスのこと、学生のことを考えているような教師だ。

近頃は、どこの教育の現場でもそうだが、ただ単に教えるのではなく、学生たちが自分で学び、自ら成長していくように促していくのが大事だとされている。これを「学習者の自律性を重視した教育」だとか、「自律した学習者の育成」だとかいうのだが、この教育手法をもっとも熱心に実践していたのが彼であった。

「教えてはいけないのだ」と彼はよく言ったものだった。「ただ学生の自律的な学びを手助けするだけで十分なのだ」と。

しかし、この教育法は実践するのはなかなか難しい。というのも、学生にしてみれば先生はあくまでも先生なのだ。「教わりたい」という気持ちをなくすのはそう簡単ではない。

この「教わりたい」という気持ち、これが、学生たちの自律学習を妨げていると彼は見てとった。これは結局、依存に過ぎないのだ。

では、学生の教師に対するこの依存心を消滅させるにはどうしたらよいか。

彼はたった一つの答えを見出した。それは、彼ほどの優れた、そして徹底した教育者にしてはじめて可能な方法だった。

彼は日本語をすべて忘れたのである。

これならば学生たちは教わるまい、そう考えたのだ。

無論のこと、学生たちは驚き、唖然とし、怒った。日本語教師が日本語を知らないなんて! 学生たちは乏しい日本語を駆使して非難し、猛烈に抗議したが、彼にとってはどこ吹く風だ。なにしろ日本語はまったくわからないのだから。

結局、学生たちは諦めて、自分たちで勉強を始めた。彼の捨て身の努力が実を結んだ瞬間だった。

そんな彼が、現在どうしているかといえば、日本語学校で日本語を学んでいる。

散文

ただいま禁酒中!(7)

 禁酒をすると、当然ながら酔うこともなくなるから、いつも同じ意識状態でいることになる。しかし、時に自分を忘れたくなることもある。そうした時は、忘我の境地を目指して瞑想をするとか、滝に打たれるとかするのが一番いいのだろうが、ゆっくり座っていられるほどの暇もないし、滝もない。

 そういうときにお勧めしたいのがタイマだ。

 わたしは、禁酒して以来、タイマを続けている。初めは効かないが、徐々に精神が変容してくる。それが心地いいのだ。酒が入った状態でやるのは良くないともいうので、禁酒中にはうってつけの習慣だ。というか、今や、タイマをやめたくないがために、禁酒を続けているといってもいいぐらいだ。これには中毒性があるのだ。

 しかも、これは繁華街に行けばたいてい見つけることができる。お金はかかるが、飲み代に比べれば安いものだ。

 もっとも、コロナの件で、最近はちょっと難しくなっている。コロナが終わって、はやくタイマ解禁といきたいものだ。

 タイ・マッサージの話はこれくらいにするが、酒に代わる趣味や行動様式を身につけることも、禁酒を継続させる秘訣であるようだ。

“boy’s club” by Matt Furie, p117.