散文

中身のない言葉(1)

政治家のキャッチフレーズにはおかしなものが多い。例えば「やり抜く政治」「ぶれずにまっしぐら!」「今こそ変化!」「取り戻す!」などなどだが、よくよく見てみると、なにをやり抜くのか、まっしぐらにどこに行こうとしているのか、どんな変化を起こそうとしているのか、なにを取り戻すのか、よくわからない。もちろん、公約をよく読めば書いてあるのかもしれないが、もっとはっきり言ったほうが親切ではないかとも思う。

そんなわけで私は中身のない標語だとバカにしていたのだが、よくよく考えてみると、これはもしかしたら中身がないことが肝なのではないかという気がしてきた。

というのも、中身がないものに出会うと、人間はそれぞれ自分でその中身を埋める習性があるからだ。

そこで人は「やり抜く政治」と聞くと、自分なりになにをやり抜くかを思い浮かべることになる。ある人は経済政策、また別の人は政治資金のこと、子育てのこと、あるいは外国人の問題、とそれぞれだ。このような解釈の多様性が立候補者にとって有利なのはいうまでもない。多くの人が中身のない標語の中身を自分の関心事で埋めてくれれば、その分、自分の支持につなげることができるからだ。これがもし「原発再稼働のためにやり抜く政治」と具体的にいってしまったら、関心のない人や反対する人は、そこで離れてしまう。

こう考えてみると、中身がないことが中身だったのだ。

旅・観察

本場の寿司

江戸前寿司というように、寿司の本場といえば江都東京だ。そんなふうに思っていた私だったが、今回、ドイツ、ベルリンに行ってみて、この考えを改めざるをえなくなった。

なにしろあらゆる街角に Sushi Bar という寿司屋があるのだ。私はドイツの民の寿司を愛する気持ちに打たれた。そして、異国のただなかで、Sushi Bar の経営に奮闘し、寿司の伝統とワザを受け継ぎ、ただ人々を喜ばせたいがために、素晴らしい寿司をフォーと一緒に提供しているベトナムの民にも敬意を表せずにはいられなかった。

ひるがえって東京の寿司を見れば、若者の米離れ、それに追い打ちをかける米の高騰、恒常的な不漁とワシントン条約、そしてなによりも我々の財布の中身の乏しさにより、江戸前は衰退の一途を辿るばかりだ。ドイツのほうがはるかに物価が高く豊かな国であることを考えると、寿司に消費する金額はドイツの方が上ではないだろうか。いや、たとえ今そうでなくても、そうなるのは時間の問題なのだ。

こうなると、もはや寿司の本場はベルリンとすべきではないか。私たち東京人はそう認めるのにいささかの躊躇も感じない。寿司を心から愛する私たちはむしろ寿司のためにこれを喜びたい。それに、寿司を失っても、東京はなお、とんこつラーメンとお好み焼きの本場であることは変わらないのだ。