漫才を見たり、芸人たちの話を聞いているとたまに「ぶれてはいけない」という話になる。これには二つの側面がある。ひとつは話の「ぶれ」だ。漫才にせよ漫談にせよ、話のフォーカスがずれたり、ひとつに絞りきれていなかったりすると、聞く人の解釈がぶれてしまうというのだ。もうひとつは視線の「ぶれ」で、例えば普段つけていないアクセサリーをつけていたり、手に包帯を巻いていたりすると、観客はそっちのほうに気を取られてしまう。
これらのぶれは、舞台上で行われていることに観客が集中することを妨げる余計なものだから、できるだけ排除しなくてはいけないのだという。私は芸能のことはわからないが、芸人たちが舞台では決まった衣装を身につけるのも、こうした余計なものを舞台に持ち込まないためのひとつの工夫であろう。
また芸人たちが、程度の差こそあれ、ある種のキャラクターを帯びて登場するのも、もちろんキャラクターそのものにも機能はあるが、衣装と同じように余計なものを排除する機能があるものと思われる。いつもと同じ雰囲気だからこそ、観客は迷わずに集中することができる。
私は昨日、生身の人間が演じた舞台など、これまで一度もなかったのかもしれない、と書いたが、芸人にもこれは当てはまる。漫才や漫談は演劇とは違うから、そのまま生身の人間がそこにいると勘違いしやすい。またそう勘違いさせるのが芸のうちでもある。しかし、そこにいるのは引き算によって作られた存在だ。
演技や芸というと特別なことのように感じられるが、やっていることは私たちにも関係のあること、つまり話を伝えるということだ。となると、私たちもまた、なにかを伝えようとするとき生身の人間でなくなっているのではないか、という気もしてくる。