苦い文学

無理の基準

私は不当に罪を負わされ、公衆の面前で辱めを受けた。

全車両に響き渡る声で「無理なご乗車はおやめください!」と一方的に怒鳴りつけられ、恥辱を加えられたのだ。

「ちがう」と言いたかった。「そんなことはしていない」と。だが、無情なスピーカーに私の抗弁など届かなかった。

人々は私を遠巻きにしていた。完全な無関心、見て見ぬふり、クスクス笑い……。悔し涙を流す私に誰ひとり声をかけてくれる者はいなかった。私はこの公衆のただ中で「存在しない者」とされた。濡れ衣を着せられ、人間の尊厳を剥ぎ取られ、丸裸で……。

しかし、私は無実だ。私には十分な余裕があった。断じて無理ではなかった。ひらりと軽やかに乗り込むのが、こんな恥辱に値するとは、どんな乗客も思い及ばぬことだろう。

それでも私の乗車が無理だったというのならば、まずその「無理な乗車」の客観的な基準を示し、周知徹底に努めるべきではないか? 車内広告などひっぺがして、その基準を張り出しておくべきではないのか?

だが、もしそうした努力を怠ると言うのであれば、車掌たちに警告しておこう。

恣意的に「無理なご乗車」と宣告されるおそれがある以上、当面のあいだ、私たち乗客はいっさいの乗車を見合わせるだろう、と。

苦い文学

ハンディファン

暑い日が続くので、街ゆく女の子たちはみんなハンディファンを顔にかざしている。そればかりか、男の子も持ち歩いている。

いぜん私は、おじさんは絶対にハンディファンを持たない、と主張した。もしかしたらそれは大きな間違いかもしれないと思っていたが、今日見たかぎり、ひとりのおじさんもハンディファンを持っていなかった。私は正しかったのだ。

なぜおじさんはかくもハンディファンにかたくなに抵抗するのだろうか。頭が硬くなっているので、扇風機は家にあるものという固定観念から抜け出せないのだろうか。

それとも、ジェンダー的ななにかが原因なのだろうか。つまり、おじさんがカーラーを頭につけて歩かないのと同じ理由だ。

しかし、いろいろ考えるよりも実際に調査してみたほうがいい。私は自腹でハンディファンを購入すると、街角に立った。やがて、ひとりのおじさんが向こうからやってくる。汗だくでちょうど風を欲しているようなようすだ。

私はそのおじさんを呼び止め、ハンディファンを渡し「どうぞ使ってください」と言った。

おじさんは、渡されたハンディファンを不思議そうにいろいろな角度から眺めた。そして、スイッチを入れると、なんとファンの部分を頬や顎にこすりつけはじめた。

これだ。これが原因だったのだ。

おじさん感心して「朝剃ったばかりなのにまだ剃り残しが!」なんて言ってる。

苦い文学

ポイ捨て禁止

よくあることだが、私たちの車両におかしな人が乗り込んできた。そいつは自分の頭を両手で覆い隠しながら、こんなふうに喚いているのだった。

「やめろ、やめろ! ポイ捨て禁止だぞ!」

もちろん、私たちのうち誰もポイ捨てなどしているものはいなかった。

「やめろ! ポイ捨てやめろ!」とそいつは言いながら、大きな紙袋を取り出した。「ちゃんとこのゴミ箱に入れなきゃダメじゃないか!」

そして、紙袋を振り回し、私たちを睨みつけた。

「俺の頭に想念をポイ捨てするのをやめてくれ!」

この一言で状況がぐんと緊張しだした。ただのゴミの話ではなかったのだ! さらにそいつは喚く。

「お前らはなんでもすぐ捨てるんだ! あのころの夢! 切ない気持ち! 秘めた想い! 野望! 淫らな欲情! なんでもかんでもすぐ捨てやがって! 俺の頭はゴミ捨て場じゃないっての! だから、こっちのゴミ箱に入れてくれ、お願いだから。全部、全部だ、ここに捨ててくれ!」

このときの私たちの恐怖といったらなかった。そいつは私たちを激しく非難し、自分を被害者だと訴えているのだ。いつ攻撃に発展してもおかしくはなかった。

私たちはただ黙っていた。ちょっとのミスが惨事を招くかもしれないのだ。喚き続けるそいつを前に、私たちの恐怖と苦しみはもはや耐え難いレベルに達していた。

そのときだ、一人の男が立ち上がってそいつを怒鳴りつけたのだ!

「お前はなんてことをしてるんだ! ポイ捨てだ? 想念だ? 全部そのゴミ箱に捨てろだと? ふざけるな!」

勇気ある男はそいつを圧倒し、激しい口調で続けた。

「ちゃんと分別しなくちゃダメじゃないか!」

……あのころの夢は「もう燃えないゴミ」に、切ない気持ちや秘めた想いは「ちょっとしたきっかけで燃えるゴミ」に、野望は「有害ゴミ」に、劣情は「リサイクル」に……

苦い文学

富士登山の記録

このあいだの週末、富士山に登りに行った。登山が趣味なのだ。

しかしそれにしてもすごい人出だった。無理もない。みなコロナのあいだ遠出を我慢していたのだ。しかも日本人だけではない。外国人観光客もいっぱいだ。

私は五合目から登山道に入ろうとしたのだが、入り口にはなんと行列ができている。三合目まで降りてようやく最後尾に辿り着いた。

4時間待ってようやく登山の始まり。だが、なんという登山道だ。登山客でいっぱいでもう押し合いへし合いのありさまだ。こんな状態でもいまさら引き返すわけにもいかないから、のろのろのろのろ登っていく。

登山道は上に行くにしたがい幅も狭まってくる。もう登山客でぎゅうぎゅうだ。あちこちで悲鳴が上がり、子どもたちの泣き声も聞こえる。群衆事故発生だ。押しつぶされて窒息死するよりマシだと、私は人々の頭の上に這い上がる。

頭や肩を踏みつけてぐんぐん登っていく。「この調子だ」と思ったのもつかのま、人間の斜面は次第に険しくなり、ついに壁のようになった。

私はボルダリングの要領で、耳の穴・鼻の穴・目の中に指をしっかり突っ込んで登る。上に手をかけるたびに、苦悶の悲鳴が聞こえるのに辟易したが、次第にその悲鳴を聞いただけで安全なホールドかどうかがわかるようになった。

人間の壁を乗り越えると、比較的なだらかな斜面が続く。私は人間たちの髪の毛をしっかり掴みながら、一歩一歩進んでいく。私の後ろにも同じように人間を登攀している人々が続いていたが、何人かはうっかりカツラを掴んだため奈落に滑落していった。

そして、とうとう私は富士山の頂上に到達した。もっとも、これを富士の頂上というべきかはわからない。なにしろ私が登ってきたのは、富士山に覆いかぶさっている人間の山だったのだから。

ただし、そんな私にもご来光は美しく降り注いだ。手を合わせウクライナの平和を祈ると私は、人々の頭をスイカのように踏み潰しながら一気に山を駆け下りた。

苦い文学

世界の粘度

時間とはなんだろうか。

時間が経つとそのぶん世界が変化する、ということを考えると、世界の変化が時間だ。

いっぽう、ある宇宙論によれば、我々の世界は拡大しつつあるのだという。つまり、世界の変化とは世界の拡大だということになる。

世界が拡大していくとはどういうことだろうか。世界が大きくなるとは、その中にある諸物も大きくなることだ。しかし、それらの諸物をつくる質量そのものは変わらないのだから、要するに世界の諸物はだんだんスカスカになっているのだ。

ここでたとえば考えて欲しい。水と泥の中のどちらが進むのにたやすいかを。答えはもちろん水だ。なぜなら水は泥よりも粘度が低いからだ。粘りがないということは、つまり水のほうがスカスカなのだ。

世界の諸物がスカスカになっていくといったが、これはちょうど世界の諸物が泥から水へと変わりつつあるということと同じだ。世界が変化すればするほど、世界は水のようになりその粘度は下がる。そして、その中を進むのはより早くなる。

泥のプールを10メートル進むのにたとえば1時間かかったとしよう。しかし、一定の変化ののち、水のプールに変化したとしたら、ほんの数分で同じ距離を進めることとなる。

これは空間のたとえだが、時間についても同じことがいえる。ある時点で1週間たつのに1週間かかっていたとしよう。しかし、20年後の世界では、もっと短くなっている。たとえば、1週間たつのに4日間かもしれない。いずれにせよ、これは世界の粘度が下がるため、4日間で1週間分の変化が可能になったため生ずるのである。

我々の時間感覚というものは、生まれて数年のうちにその当時の世界の粘度に応じて形成される。だが、世界が変化し、その粘度が下がるにつれて、我々の体得した時間感覚とのずれが生じてくる。つまり、時間の進むのが早く感じられてくるようになるのだ。

こうした事情により、我々はある一定の年齢になると、1年があっという間に過ぎてしまうのである。

苦い文学

マスク派の逆転

近頃は、マスクを外して歩く人がどんどん多くなっている。また、都内に出るとマスクをつけていない外国人観光客でいっぱいだ。

これからもっと暑くなるから、ますます脱マスク派は増えていくことだろう、そんなふうに思っていたら、マスクをつけた謎の集団が出現し、駅や繁華街で「マスクを外すな!」と声高に訴え出した。道ゆく人にマスクも配布している。

その訴えるところはこうだ。

「我々は、コロナ禍の間じゅう、政府の要請に従い、しっかりマスクをつけてきた者である。そして、コロナ禍の終わりの見えたころに厚労省が出した『マスクの着用は、個人の主体的な選択を尊重し、個人の判断が基本』という方針にも賛同し、脱マスクの先駆けとならんと志してきた。しかし、今、我々はこの方針にもかかわらず、マスクをつけるべきだ、との結論に至った。

「その理由は、コロナ禍の最中、マスクを拒否し、それどころかマスクをつける我々をあざ笑ってきた連中、そして、そのことによってコロナを防ぐどころかコロナの跋扈に手を貸してきた陰謀論者が、こう言うのを聞いたからである! 『結局、みんなマスクを外しているではないか。マスクなど意味のないことは初めからわかりきっているのだ』

「あきれたことに、連中は、我々がマスク着用を通じて得たコロナに対する勝利を直視するかわりに、愚かにも『ほれ見たことか』と我々を嘲笑しているのである! そこで、我々はこう決意した。今、マスクを外すことは陰謀論を利することにほかならぬ、と。なぜならば、陰謀論はコロナよりももっと恐ろしい疫病であり、それがもたらす死者もコロナの比ではないからである!」

この逆上ぶりに市民は不安がるばかりだったが、実際にはそう心配するに及ばなかった。というのも、新たな陰謀論がでまわり、これを信じた陰謀論者たちがいっせいに外に飛び出してこう叫んだからだ。

「外国勢力が日本人にマスクを外させることで属国化しようとしている! マスクをつけろ! 脱マスクは反日!」

件のカルトじみた反脱マスク集団は、たちまちもとどおりの穏健な脱マスク派に転じ、それぞれの手堅い暮らしに帰っていった。

苦い文学

レジ前のはずかしめ

現在、コンビニで電子マネーで支払うとき、2つの方式がある。

ひとつは支払うときに、レジについたスクリーンで支払い方を選ぶ方式だ。

スクリーンには、「現金」、「クレジットカード」、「交通系 IC カード」などのボタンが並び、そこから選ぶのだ。たとえば私はいつも Suica だから、「交通系」を押して、カードリーダーにかざす。

もうひとつの方式では、レジで店員に言わねばならない。

店員「お支払いは?」

私「Suica で」

すると、店員がレジの操作をして、カードリーダーが光る。そこに私はカードをかざすのだ。

問題は、この2つの方式が混在していて、どのコンビニではどちらを採用しているかがわからないことだ。

申告制だと気づかずに、ぼんやりレジの前で待っていることもある。

スクリーンで自分で選択する方式なのに、「Suica で」と店員に宣言してしまうのも恥ずかしい。店員に「この人はシステム音痴だ」という顔で、スクリーンの存在を教えられるのも悔しいことだ。

ここで、自分で選択する方式のレジのあるコンビニでは、店員は、客の支払い方法を選択するという業務を、客に代わりにやらせていると、考えるとしよう。

すると客も、店員の時給の一部を受け取る権利があるということになる。なのにこれが支払われたなどという話は聞いたことがない。つまり私たちは不当に搾取されているのだ。

私は資本家どもからこれら不当な利益を奪い返したい。そして、その金を、レジ前のはずかしめによって心を傷つけられた人々を癒すための基金としたい。

苦い文学

北風と太陽

ある時、北風と太陽がどちらが強いか口論をはじめた。「俺が強い」「いや俺のほうだ」 議論していても埒が開かないので、とうとう力比べで決着をつけることになった。

すると、たまたま日本人がやってくるのが見えた。北風と太陽は、どちらがこの日本人の上着を脱がせることができるか、という勝負をすることにした。

まずは、北風が名乗りをあげた。北風はビュービュー風を吹いて、日本人の上着を吹き飛ばそうとした。だが、冷たい風に当たった日本人はブルブルと震えながら、上着をギュッと押さえてしまった。

北風が失敗したさまを見て、太陽は笑いながら「私なら成功するだろう」と言って、日差しをぐんと強くした。日本人はあまりの暑さに汗をダラダラ流し始めた。そこで太陽は「あと一息だ」とさらに強力に照りつけた。

すると日本人は、上着の腰の両サイドに取り付けられた冷却ファンを回した。たちまち強力な風が上着内で循環し、こもった熱を吹き飛ばした。

日本人はエアコンさながらのひんやり感を味わいながら、涼しい顔でスタスタと歩き去っていった。

苦い文学

カツラと反戦活動

アナウンサー「ロシアがウクライナに侵攻してから、1年半が経とうとしています。あくまでも強硬な姿勢を崩さないプーチン大統領にはウクライナだけでなく、世界中の国々から非難の声が上がっています。実はその中には国内外のロシア人も多くいるんです。今回は日本に暮らすロシア人の反戦活動を取材しました。吉田六郎記者の報告です」(映像始まる)

ナレーター「ここは都内某所。カツラを箱に詰めているのはニコライ・チチコフさん。日本在住のロシア人です」

吉田記者「このカツラをどうするのですか?」

チチコフ「ロシアに送りますね」

ナレーター「チチコフさんがロシアにカツラを送り始めてもう1年が経ちます」

チチコフ「カツラはモスクワに送って、そこで仲間たちがもらって、プーチン大統領に被せます」

吉田記者「プーチン大統領に?」

チチコフ「そう。戦争を止めるために大事です。プーチン大統領は髪の毛なくなっちゃった。それで、なくなるの怖い。ウクライナもなくなりたくないから、戦争始めました。だから、カツラ被せれば、髪の毛とウクライナが戻ってきた思って、戦争やめます」

吉田記者「どうやってプーチン大統領にカツラを?」

チチコフ「それが一番大変ね。暗殺より難しい。だけど、向こうの仲間がんばってる。カツラ被せるチャンスきっと来ます。わたしたち、そのときのために活動がんばってます」(映像終わってスタジオに戻る)

アナウンサー「カツラで戦争を終わらせるとはなんとも奇抜なアイディアですね」

スタジオの吉田記者「ええ、そうなんです。この活動が実現するまで、チチコフさんは大変な苦労をされました。挫けそうになるたびに、ひいおじいさんのことを考えて自分を励ましていた、とおっしゃっていました」

アナウンサー「それはどうして?」

吉田記者「なんでも、チチコフさんのひいおじいさんは、ロシア革命時にレーニンにカツラを被せる活動をしていたそうです」

アナウンサー「チチコフさんの送ったカツラ、きっとプーチン大統領に届くでしょう。以上、吉田記者の報告でした。では、次のニュースです……」

苦い文学

120 パーセントの魔法

ペテン師になるための第一歩は「120 パーセント」の魔法を使えるようになることだ。

「120 パーセントない」「120 パーセント出しきる」「120 パーセント叶える」などなど、自在に使いこなしてこそペテンもうまくいこうものだ。

だが、120 パーセントとはなんだろうか。100 までしかないからパーセントなのだ(cent=100)。それを、20 パーセントも増量してしまう。これが魔法の魔法たるゆえんだ。

もちろん「前年比 120 パーセント」という言い方はある。だが、それはなにかとの比較があってのことだ。ペテン師が「120 パーセントない」というとき、去年に比べて今年はもっとなかった、ということを言いたいわけではない。

ペテン師が「120 パーセント」で言いたいのは、100 パーセントよりすごいということだ。20 の上乗せで粉飾してだまくらかそうとしているのだ。

だが、ペテン師が「120 パーセント」の魔法を振るう理由はそれだけではない。この言葉は、現実を覆い隠すのに都合がいいからだ。

その証拠に、ペテン師は絶対に「100 パーセントない」とは言わない。なぜなら、それだと現実的に検証可能になってしまうからだ。百分率を越えた魔法の世界に相手を連れ込めば、なんでも好きなようにできるということを、ペテン師は知っているのだ。

修行を積んで「120 パーセント」を使いこなせるようになると、ペテン師は「200 パーセント」「2000 パーセント」など、上級の魔法の習得を始める。