苦い文学

落とし物

私は若いころ、交通事故に遭って死にかけたことがある。

病院に搬送されたが、頭を強打したせいか何日も意識が戻らず、生死の境をさまよう状態だった。

もちろん私はなにも覚えていないが、うっすらと残る奇妙な記憶がある。

私はずっと川のほとりいたのだった。そこには交番があって、外にはベンチが置かれていた。私はそこに座って、川を行き来する船を眺めていた。

その交番には一人の警官がいた。私が外にいるのに飽きて交番に入ろうとすると、彼は無言で外に追い払うのだった。

私はしかたなくベンチに戻り、川を眺め続けた。見ているうちに自分も船に乗って川を渡りたくなったが、いざ立ちあがろうとすると体が動かなかった。

どれくらいそこにいたかわからない。あるとき、影のように薄い存在が交番にやってきた。それは交番に入り、警官と話しはじめた。窺い見ると、なにやら書類を作成しているようだ。

すると、警官が私を呼んだ。私が交番に入ると、警官はそのぼんやりした黒い影の隣に座らせ、こう言った。

「この方が、お前の命を拾ってくれたそうだ。感謝をしたまえ」

私はよくわからないまま、お礼を言った。

「この方はお前に10%のお礼を請求しているが、どうかな」

「お礼?」

「お前のこれから生きる寿命の1割だ」

私がうなずくと、警官は書類を作成した。そして、私はその薄暗い存在に自分の命の10%を差し出した。

その黒いシミは命を受け取ると、奇妙な声を発し、弾むような足取りで立ち去っていった。

警官は私に言った。「さて、お前も交番を出て、こっちの方にずっと歩いて行くのだ」

私は交番を出て、言われた通りに歩いて行った。気がつくと病室の中にいた。

ときどき、私はあの影のような存在について考える。まったく見当もつかないが、私が与えた10%の命を有意義に使っていてくれればと思う。

苦い文学

スキマ時間

10月1日
以前から気になっていた『スキマ時間を活用! 司法試験合格』をついに購入。普段は忙しくて勉強の時間はないけど、スキマ時間を活用すれば、なんとかできそうだ。というか、スキマ時間があればなんでもできそうな気がしてきた。49万円と高かったが、司法試験に合格すれば十分ペイする額だ。

10月2日
今日は朝からずっと仕事だった。スキマ時間が見つからなかったので、せっかくの教材を活かすことができなかった。夕食後、テレビを見て過ごす。明日こそ、スキマ時間が確保できるように。

10月3日
スキマ時間がなく勉強できず。

10月4日
今日は久しぶりの休みだった。休みの日にはスキマ時間はなさそうなので、お昼まで寝て、午後はスーパー銭湯に行ってビールを飲む。

10月5日
今日も1日仕事。仕事の合間に、カスタマーセンターに問い合わせて、スキマ時間がない場合は返品可能か、聞く。出版社に来れば、直接対応してくれるとのこと。時間の予約をする。

帰宅途中、出版社に立ち寄る。受付に話すと、待合室に通される。約束の時間より15分ほど早くきてしまったので、待たされる。

「スキマ時間ってまるで幻みたいだ」とつくづく思った。

苦い文学

効果のあるガス

「今、日本が危ない! 私たちは美しい日本を取り戻さなければならない!」 そう叫びながら、真の愛国政党が政権を握ったとき、私たちは拍手喝采した。なぜなら、この政党だけが日本を守ってくれると確信したからだ。

愛国政府は、我が国を敵対する勢力を厳しくやり込める政策をどんどん実行していった。私たちは胸がすくような思いで応援した。

愛国首相がこの世界の真実を暴いたときも、私たちは大喜びしたものだった。

「GHQ は日本を破壊しようと数多くの卑劣な企て行った! そのうち最大のものが日本の四季の破壊だ! 反日勢力は気象兵器で温暖化なるものを引き起こし、日本の春と秋をなくそうとしているのだ。なぜなら、桜咲く春と紅葉彩る秋は、日本精神にとってかけがえのない季節であり、これを破壊することによって日本精神を根絶やしにしようとしているのだ!」

首相はこの歴史に残る演説を続けた。

「温暖化など、反日勢力が日本を滅ぼすために捏造した嘘にすぎない! 我々はこれら卑劣な反日勢力を一掃し、気象兵器に対抗しなくてはならない! 日本の四季を取り戻そう!」

私たちはこの演説を聞くや、すぐさま街頭に繰り出して、パレードを始めたものだった。

そして、ある日、政府は反日勢力の弱点が見つかったと発表した。奴らがきらいなのは、なんと温室効果ガスだったのだ。

私たちはこれを聞いたとき「なるほど、それで温暖化などでっち上げ、ガスを減らそうなどとのたまっていたのか」とあきれ、この策略を見抜いた我が政府の慧眼に感心した。

政府はさらに発表した。「反日分子かどうかは、温室効果ガスを吹きかければすぐにわかる」

ただちに日本中に「反日分子判定センター」が建設された。そこには温室効果ガスで満たされた小部屋がいくつもあって、反日分子はその中では生き延びることはできない。

このガスにそんなありがたい効果があったとは!

私たちは歓声を上げながら判定センターに押し寄せ、今、その前で列を作って、入る順番を待っている。

苦い文学

問診票

私たちの町の病院はまるで城みたいだ。10階建てで、広大な敷地に囲まれている。

私たちはこの病院で診察を受けたいとき、受付にいく。すると、初診受付用紙を渡される。これに住所や名前を書かなくてはならない。

用紙を提出してしばらく待つと、ファイルを渡され、次にどこそこに行くように、と指示される。そこに行くと、別の受付がある。ファイルを見せると、問診票をくれる。記入しろというのだ。

問診票には必ず正面と背面の人体図が描かれていて、「症状のある部位に丸をつけよ」とある。どんな病気でもこれに印をつけなくてはいけない。

問診票を書き終わって提出すると、今度は2階のどこそこに行くようにと言われる。

階段を登っていくとやはり受付があって、ファイルと引き換えに別の問診票を渡される。丁寧に答え、人体図にも丸をつける。

これを受付に出すと、別の指示が出される。上の階のどこそこの受付に行け、というのだ。そして、そこでも問診票に記入することになる。

こうやって私たちは病院中を上から下まで移動させられ、そのたびに、問診票を仕上げていく。次第に、私たちは疲労し、目が回ってくる。問診票に記入する手も震えてくる。

そして、人体図がもはや人間に見えなくなってきているのに気がつく。頭が破裂しそうなほど巨大だったり、手足の代わりに無数の触手がついていたり、太ったナメクジのような形だったり、奇怪な生き物の図になっているのだ。だが、私たちは疲れ果てているから、そんなことにお構いなしに、適当な部位に丸をつける。

そのあとも私たちは問診票を書き続ける。描かれる図はますます異様になり、最悪の悪魔のようだ。私たちは怯えながら悪魔の角に丸をつける……

やがて最後の紙を渡されるときが来る。そこには「病院の対応はいかがでしたか」などと書かれていて「よかった、ふつう、よくなかった」のいずれかに丸をつけるようになっている。

この紙を箱に入れると、「もう二度と来ないように」と最後の受付がいう。病院の外に追い出された私たちは、足取りも軽く家に向かう。

苦い文学

AI 教師

「いじめはなかった」でお馴染みの教育委員会が、またおかしなことをはじめた。

教師をすべて AI 教師にするというのだ。噂を聞きつけて教育委員会を訪問すると、関係者は「これで学校から性犯罪を一掃できる」と自信満々に告げた。

もう人間の教師などいらないと、教育委員会が認めてしまったのだ。子どもたちを教師の毒牙から守るためには、なりふりなどかまっていられない、ということだろう。

しかし、AI に教師の役が務まるものだろうか。教育委員会による説明はこうだ。

「私たちには膨大な教育データがあります。教育方法、教材の作り方、児童への対応、ビデオ記録など、これまで蓄積されたデータを AI 教師に学習させるのです。おそらく完全な教師が誕生することでしょう」

私は尋ねた。「ですが、これらのデータは、これまでの先生方の汗と努力の結晶のはず。それを勝手に学習させていいのですか」

「ええ、一部の教員から、『私たちの作り上げたものを勝手に使うな!』と反対の声が上がっているのは確かですが、私たちの組織はそうした一部の声を押しつぶすのには慣れているので、まったく問題ありません」

万全の策が取られている、ということか。私はさらに尋ねた。

「では、その学習はどのように行われているのですか?」

「先ほど申し上げたように、膨大なデータを AI を学習させるのです。特別な教室を AI のために用意し、教師がつきっきりで学習を進めています」

「その教室を見ることはできますか?」

「ええ」と私はその教室に連れていってもらった。

扉を開けると、教師が AI にセクハラをしている最中だった。

苦い文学

隣の空席

いつの頃からかわかりませんが、電車で座る私の隣に人が来ないようになりました。

私の両隣には誰も座らないのです。いや、もちろん、混んでくると誰かが座ってくれます。ですが、それは他の席がすべて埋まってからなのです。

これに気がついたとき、私は自分の身なりや体臭が人を遠ざけているのではないかと思いました。それで、できるだけ小ぎれいな服を着て、体もよく洗うようにしました。歯もしっかり磨いて、うがいもしました。だが、それでも私の隣は空いたままなのでした。

そればかりではありません。私が座ると、隣に座っていた人がすっと立ち上がって、ドアの前や、隣の車両に行くようになったのです。私はショックを受け、怒りすら覚えました。侮辱されたように感じました。

ある時などは、私から逃げた人を隣の車両まで追いかけていったこともあります。わざとその人の隣に座ってやったのです。その人はすぐさま姿を消して、ちょうど停車した駅で降りてしまいました。

とことんまで追い詰める気だったので、本当に腹立たしかったですが、これで良かったのです。というのも、もしそのまま追いかけ続けていたら、どこかで警察に呼び止められていたでしょうから。

今では、私は座りません。電車の中では、どんなに空いていようと、吊り革にぶら下がったり、ドアの脇に寄りかかったりしています。

私は、自分の隣から逃げていく人々に申し訳なさを感じるようになったのです。そのような状況に追いやってしまって、かわいそうなことをした、そんなふうにも思っています。

結局のところ、理由は不明ながら、私は人々を苦しめていたのです。

せめて、というわけではないのですが、みなさんにお願いがあります。電車で席に座るとき、私のような人間がいるということを、ちょっとだけでも思い出してください。それだけで十分です。

苦い文学

思い違い

その男は、愛する女性の面影を抱き続けて、旅を続けていた。

晴れの日も、雨の日も、夏の暑い日も、冬の寒い日も、蒸す日も風の日も、ひとりでてくてく歩き続けていた。

歩きながら男はいくども思った。

「友達以上恋人未満の長い距離を踏破して、恋人の地点に達するまで、まだまだ歩かねば! 晴れて恋人となって、懐かしい故郷に戻り、あの人の傍で安らうまで、どんなに厳しい旅でも諦めないぞ!」

はじめは楽しい話し相手だったその女性が、男にとって不意に愛おしい存在として立ち現れたとき、彼は悟ったのだ。自分はいま、友達を踏み越えて、恋人へと至る過程にいると。

なんとしても辿り着かねばならぬ、そう決心した男は、ある夜、故郷を出て旅を始めた。誰にも、彼女にすら告げずに……。

それから、長い歳月が経った。旅立ったときには輝いていた顔も、いまやシワとシミにくすんでいた。長年の厳しい旅のせいで、男の体は衰弱し、歩幅も徐々に短くなっていった。そして、もはや一歩も足を動かせなくなったとき、彼は倒れた。

死ぬ瞬間、男は自分がとんでもない思い違いをしでかしたような気がしたが、それがどんなのだったか、もうわからなかった。

苦い文学

自殺談義

私の友人が電話してきて「これから自殺をするつもりだ」と言った。

私は「いのちの電話じゃない!」と怒鳴りつけて切った。

しばらくするともう一度電話をかけてきた。私は出て言った。

「もう死んだか」

「まだだ」

「ああ、よかった」と私。「有名人じゃないのに自殺するなんておかしいからな」

「なに? 有名人?」

「それとも、もう有名人になったのか」

「なに? 違うよ、なってないよ」

「じゃあ、自殺なんて無理だあきらめな」

「有名人がどうしたの」

「どうしたって、今や自殺できるのは有名人だけだから」

「えっ知らなかった」

「知らないじゃすまないよ。そんなこともわからずに自殺しようだなんて、呆れたね」

「関係あるの?」

「おおありだ。たとえばお前がその自殺とやらをやったとしよう。だけど、警察はもう自殺といえば有名人だと思い込んでるのだ。だから、警察はワクワクしてやってくる。有名人に会える、とね。

「そんなところにお前の死体が伸びてたとしよう。いやもう警察はがっかりだ。それどころか、腹を立てて3回は蹴りつけるね。むろん、自殺だなんて絶対に認めない。こんなのを自殺に計上したら、日本じゅうの警察署から笑いものだ! 『事故死』と、記入して終わりさ。おまえはそれでいいのか?」

友人は否定のうめきをあげたが、私は容赦なく続けた。

「それに、はっきり言えば、もうお前にできる自殺などはない。自殺はとっくに売り切れ! 有名人と Youtuber がみんな買い占めちゃった。何回もするつもりでいるのだ」

友人は泣きそうな声で「じゃあ、どうすればいい? 外国の自殺はどう? 安いんじゃない?」

「お前のバカさ加減にはあきれたね。外国の自殺はなにが入っているかわからない。下手をすると命の危険もあるぞ! 国産をお勧めするね」

「でも、手に入らないんでしょ」

「まあ、そうがっかりするな」と私は友人を励ました。「気長に待てば、30 年後ぐらいに、有名人のお下がりが手に入らんこともないさ。その前に死なないように、体に気をつけるんだな」

苦い文学

永遠の世界

人は死んだら、魂となって永遠の世界に遊ぶという。

だが、永遠の世界とはどんな世界なのだろうか。一目なりとも見て心の備えをしたいと考えた私は、あらゆる賢者を訪ね、ついに《永遠の世界に片足を突っ込んでいる》と呼ばれる賢者のもとに辿り着いた。

その老人は私の頼みを聞くと、静かに問いかけた。

「お前はどうして永遠の世界を見たがっているのか」

「心の平安を得たいのです。《永遠の世界に片足を突っ込んでいる》お方よ。死後、永遠の世界で安らかに過ごすということがわかれば、私はもっと死を受け入れることができるでしょう」

賢者は無言で上着を脱いだ。胸のあいだ、乳首と乳首の中間点に黒いシミがあった。

「これを見なさい」とそのシミを指差した。「もっと顔を近づけるのだ」

顔を寄せて、その黒いシミを見つめると、不意にそれが穴に変化したように感じられた。

「そこから覗き見るのだ」

私は言われるがままに、老人の乳首のあいだの穴から覗き込んだ。「永遠の世界が見えよう」と老人は言った。「だが、その世界はお前の思っていた通りかね」

ああ、その世界では確かに魂でいっぱいだったが、なんという状態だろうか。すべての魂が、まるでビデオの早送りのようにちょこまかと動き回っているのだった。

私は思わず声を漏らした。「永遠の世界だというのに、なんとせせこましいのでしょう」

「愚かな。永遠の世界で人はゆっくりのんびり過ごしているとでも思っていたのかね。むしろ、時間の基準がないため、知らず知らずのうちに、どんどん加速してとんでもないタイパ世界となってしまったのだ。このままだと、魂の摩擦で発火し、世界は永遠の炎に包まれるであろう。むろん、そうなったとて、魂は死にはしないのだが……」

あんな世界で永遠に焼け死ぬくらいならば、死んだほうがマシだと考えながら、私は賢者のもとを立ち去った。

苦い文学

駅の改修

私たちの駅の改修工事はいったいいつ終わるのだろうか。

私たちはかつて、バルセロナのサグラダ・ファミリアが完成するまでに何百年もかかると聞いて、驚いたものだった。だが、もはや私たちは驚かない。

なぜなら、私たちの駅でもそれ級の大工事が進行しているからだ。私たちが子どものころにはすでに工事が始まっていた。そして、何十年も昔のことなのに、まだ工事は終わっていないのだ。

しかも、私たちは駅がどうなるのか、ホームが増えるのか、コンコースができるのか、駅ビルが立つのか、地下道が張り巡らされるのか、まったくわからない。

わかっているのは、ホームのあちこちに仮囲いが設置されていることと、それが絶えず移動していることだけだ。いったいなにを囲っているのだろうか。これも私たちにはわからない。

なにが原因だったかというと、駅長だ。この駅長、駅長室にこもって、駅の模型と睨めっこしながら、次から次へと素人考えで改修案を出すので、工事業者が振り回されていたのだ。

「やれ、あそこに売店を作れ……いや、売店はやめだ、美しい噴水にしよう……」

もっとも、その駅長は最近死んだ。新しい駅長になったのだ。

これでようやく工事も終わる、と期待を抱いた私たちだったが、その後、その駅長が建築士の資格をとったことを聞かされた。