苦い文学

匂わせ

いま人々をもっとも怒らせているものといえば「匂わせ」以外にない。そして、「匂わせ」るほうからすればこれほど気持ちのいいものもない。つまり、もっとも完璧な自慢なのだ。

普通、あからさまな自慢は、発信者の評価を下げる。だが、「匂わせ」にはその恐れはない。なぜなら、これは証拠を残さず自慢するやり方だからだ。もし自慢していると非難されたとしても、すっとぼければいいだけの話だ。証拠などないのだから。

さらに「匂わせ」は、ただの自慢話よりも聞いている人間にダメージを与える。自慢話は一回してしまえば少なくとも情報としての価値はなくなり、聞き手の関心を繋ぎ止めておくことはできなくなる。だが、「匂わせ」は情報のほんの一部しか提示しないから、かえって相手の好奇心を掻き立てるのだ。

「匂わせ」が多くの人にとって不快なのはこの点だ。「匂わせ」においては情報の主導権はつねに「匂わせ」発信者にあるため、受信者は劣位に置かれるのである。

逆に見れば、「匂わせ」により、発信者は相手に自慢ができるばかりでなく、情報の管理者として相手より優位に立つことができる。この一方的な関係が、「匂わされた」人々を大いに怒らせるのである。

しかも、発信者は、状況次第では「匂わせた」という行為さえ容易に否定することができる。「匂わせ」ほど、巧妙で、受信者に与えるダメージも大きく、それでいてリスクのない自慢はない、と言える。

SNS を通じて広まった「匂わせ」は、現代の科学と人間の知恵が融合した人類最先端の営みと言えるのではないだろうか。

苦い文学

自己肯定感

ダメ、ゼッタイ!

「一回だけなら……」「すぐにやめられる……」 そんな気持ちで自己肯定感に手をだす人々が増加しています。

自己肯定感は、乱用する者を蝕むばかりか、その影響によって引き起こされる幻覚や妄想から、他人に被害を及ぼすことにもつながります。

依存症の危険もあります。自己肯定感の効果が切れると、自己否定感に苛まれるようになるのが依存症です。もっと強い自己肯定感を求めて、高額で無意味なセミナーやコーチング、スピリチュアル・セッションにハマるようになってしまうのです。

自己肯定感乱用者の告白 その1
「仕事のことで悩んでいた時に「自己肯定感を高めると魔法みたいになんでもできるようになるよ」と言われたのがきっかけでした。乱用が続いた結果、中身がスカスカの安っぽい自己啓発本で部屋がいっぱいになってしまい、自己嫌悪の毎日です」

自己肯定感乱用者の告白 その2
「自己肯定感を高めると、急に元気が出てきて、自分がスーパーマンになったような気持ちになりました。いっさいの批判を受け付けなくなったため、気づくと、知性はガタガタになり、幻覚症状が出て、陰謀論やヘイトスピーチを撒き散らすようになりました」

自己肯定感の乱用によりこのような恐ろしい事態が引き起こされますが、防止策としては、自己肯定の反対は自己否定ではなく、他者否定であるということに気づくのが効果的です。

苦い文学

悲しい物語

つい最近、日本での在留を認められた人が、こんな話をしてくれた。


私の国はとてもひどい。政府が国民をいじめる。弱いものいじめね。みんななにも言えない。我慢して頭を引っ込めてる。政府が怖い。でも、私は怒ったよ。いじめるのをやめなきゃだめ。私は政府に反対の活動はじめた。

そしたら、警察に捕まった。刑務所に入った。2年。出たとき、もうこの国あぶないから、逃げた。それで日本に来た。

日本に来たら、私の国の人たちたくさんいる。みんな困ってる。だから、私、助けた。がんばった。みんな難民申請するの助けた。でも、自分はしなかった。準備してたら、捕まって入管に入った。

品川の入管。海の近くにあるでしょ。

はじめの入管は3年。それから仮放免。そのときもみんな助けた。また入管に入って2年。その後は長崎の入管に3年入った。

みんなどんどんビザもらった。けど、私だけくれなかった。どうしてかな?

最近、ビザくれた。15年かかった。あっという間。夢みたい。でも、どうして私だけくれなかった? 理由わからない。みんなはもっと前にビザもらって、仕事して、結婚して、いい生活している。

でも、私なんにもないよ。

もうどこにも私の知っている人いない。あんなに助けたのに、私ひとりだけ。お金も仕事もない。若くもない。

もうおじいさんだよ。


この悲しい物語を、私は「浦島太郎」として語り継いでいきたい。

苦い文学

iPhone 15

新しい iPhone が発表された。iPhone 15 と名づけられ、もうじき発売だ。

私が今使っているのは5年前に買ったもので、バッテリーも劣化して、ひどい時には1時間で20%以下になってしまう。

画面もヒビだらけだ。端の方が粉々に割れているので、セロハンテープで補修を施してある。しかも、この状態で2年以上使い続けている。

そろそろ買い替え時なのはもちろんだ。というか、今年の初めから9月の発表のときを待っていた。なので発表されるとすぐに予約をした。

もっとも、予約が殺到しているのでいつ手に入るかはわからない。だが、こっちは2年間、待ち続けているのだ。数ヶ月伸びても別に気にもならない。

それどころか、予約した今、新しい iPhone を手に入れるのが怖くなってきた。というのも、そのぶん、自分が死に近づいているような気がするのだ。これは私のように長いスパンで買い換える人間が持つ感覚であり、1年や2年で買い替える人にはわからないかもしれない。

棺に収まった私の写真を撮るのは、どんなバージョンの iPhone だろうか。iPhone 50 PLUS だろうか? それとも、iPhone 83 MAX PRO だろうか?

苦い文学

天国への道

私は死に、ありがたいことに天国行きと決まり、天国の門にいたる行列に並んでいた。

しかし、その行列、並大抵のものではないのだ。ずっとずっと先まで続いていて、天国の門など見えやしない。もしかしたら自分は最後尾なのでは、と不安になって(というのも生前、「最後尾の男」という長編小説を読んだことがあったからで)振り向く。いや、そんな心配などないくらい後ろにも行列が続いていた。

こんなに天国行きの人がいるなどとは思いもよらなかった。もし知っていたら、生前たくさんの人とうまくやることができたかもしれない……。

列は順調に進んでいた。だが、やがて私たちの列に並走する別の列が出現した。その列は私たちと同じように前進していた。そして、2つの列が肩を並べるほどに接近したとき、向こうの列の連中が叫んだ。

「おいおい、割り込みするな。俺たちの後ろに並べ!」

私たちも負けじと怒鳴った。「割り込みしようとしているのはお前らだ。間抜けな奴の後ろに並んだのを後悔するがいい!」

私たちは互いに肩で押し合い、小突きあい、突き飛ばしあった。「ここまできて後ろに並べるものか! 地獄に堕ちろ!」 こう私たちの誰かが叫ぶや、双方の怒りが爆発し、殴り合いになった。

もみくちゃになり、あわやと思わせる瞬間もあったが、私たちのほうがより本当に天国にふさわしかったものらしい。連中は蹴散らされ、ついに後ろのほうに潰走した。私たちは勝鬨を上げた。

「俺たちが本物なんだ! 列の本流を死守した!」

そして、再び列は穏やかに順調に進んでいった。ある地点で列は3つに分かれた。私たちは互いに別れを告げ、それぞれ選んだ列に進んでいった。

そして、さらにその列はいくつかに分かれ、さらに分かれ、分かれ……。

気がつくと私はひとりで暗い坂道を下っていた。

苦い文学

流れ去るもの

この歳になってようやく気がついたのですが、すべてのものは変わりゆき、同じものなどなにひとつないのですね。

もしこの真実を早めに悟っていれば、僕の人生ももっとマシなものになっていたかもしれません。

とはいえ、機会はいつだってあったのです。子どもの頃、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず云々」を読んだとき、どうして僕は理解しなかったのでしょうか。

さらに、貴兄の愛してやまないジョージ・ハリスンの「ALL THINGS MUST PASS」を若い頃からあれほど聞いたにもかかかわらず、その真実は僕の心にまったく響かなかったのです。

ですが、今になって後悔しても遅いのです。肝心の僕の人生そのものがすべて過ぎ去ってしまった今となっては。

しかも、お笑いください。このような死を待つばかりの身となっても、僕はすべてが流れ去るという事実から顔を背けていたいのです。

なんと愚かなことか、とお思いでしょうね、きっと。なにしろ僕自身も呆れているくらいなのですから。

ですので、この途方もない愚かさに免じて、貴兄より毎年お誘いいただいている「夏の流しそうめん大会」を、今年のみならず、来年も再来年もずっと固辞させていただくことをお許しください。

苦い文学

閉じ込め

この夏、近くのショッピングモールに車で行った。駐車場に車を止め、降りてドアを閉めたとき、見知らぬ男に声をかけられた。

「ちょっと待って!」

警備員のように見えた。もしかしたら間違ったところに駐車したかと思い、ドギマギしていると、男は「ちょっとドアを開けなさい」と高圧的に言ってきた。

「なんでですか」

「いや、だから早く開けなさい!」

「だから、その理由を聞いているのです」と私はムッとして尋ねた。

「理由も何もない! 危ないんだ!」 男は私を押し退けると、ドアハンドルに手をかけ、ガタガタさせて開けようとした。

「ちょっと何をするんです」 突き飛ばすと、男は怒鳴った。

「今この瞬間にも中で子どもが死ぬかも知れないんだ!」

「子どもなんていない!」

だが男は食い下がった。「いや、いる! この暑いなか、買い物の間に車に中に放置されてたらまちがいなく熱中症で死ぬぞ! 苦しんで、泣きわめいて、だれにも気づかれずに!」

男は叫び始めた。「助けてください! 子どもが車に閉じ込められています! 助けてください!」

通りかかった人々が叫びを聞きつけてこっちにやってくるのが見えた。私はしかたなくドアを開けた。男は車内をじっくり見て、子どもがいないと納得すると「ああ、助かった」と言って立ち去った。

不愉快な気持ちのまま買い物を済ませ、駐車場に戻った。するとなにやら騒然として、人だかりができている。救急車も止まっている。

「車に閉じ込められていたんだそうだ!」「危うく助けられたって!」 人だかりに入り込むとそんな声が聞こえた。

もしや、あの男が救出したのか。自分の感じた不愉快も、これで埋め合わせがついたかのような気がした。

すると、あの男が担架に乗せられて救急車に運び込まれるのが見えた。ぐったりしていた。

勝手に車に入って閉じ込められたと勘違いして卒倒したそうだ。

苦い文学

不徳

私は犬を飼っている。マンション暮らしなので、たまには自由に走らせてやりたくて、車に乗せてドッグランに連れて行った。

その日は日曜の昼だというのに、奇妙にもほかに誰もいなかった。人の吐息のような湿気のある空気が立ち込めていて、私はしきりに汗を拭った。

それでも犬は元気に走り回っていたが、不意に私のところに怯えて逃げ込んできた。ドッグランのスタッフが大きな黒犬を連れて入ってきたのが見えた。

私は、震える犬を撫でながら、自分自身も得体の知れない不安を感じた。そして、スタッフのほうに再び目をやったとき、彼が連れているのが犬ではないことに気がついた。

それはシェパードほどもある黒い軟体動物だった。

スタッフは私に近づいてきた。その生き物も身をくねらせながらその脇を進んできた。私はとっさに犬を抱き上げた。その生き物はおぞましかった。

「すいません。今日はもう閉園です」と彼は言った。

私はうなずき、彼が連れている「もの」について尋ねた。

「ああ、これはフトクです」

「フトク?」

「ええ、急に訓練しなくてはいけなくなりまして、申し訳ありませんが……」

相手の態度に非日常的なところがなかったせいか、私は好奇心が湧いてきた。

「そのフトクとはなんなのですか? はじめて見ました」

「ああ、まともな人なら見ることはありませんよ。これは、不徳の致すところの不徳です」

「不幸の不に徳川の徳の?」

「ええ、ときどき不徳が不始末をしでかすので、飼い主の方が訓練してほしいと」

私は理解した。「つまり、不徳の致さぬようにしてくれと」

スタッフは笑った。私はその笑い声を聞きながら、犬を抱いて足早にドッグランを立ち去った。「私の不徳の致すところ」とは、こう言う人間にとってみれば「私の犬がやったこと」と言うのと変わらないのだ、という事実に驚きながら。

そして、あのおぞましい生き物がいかに哀れかと気がつき、自分の犬をいっそう抱きしめた。

苦い文学

奇跡

先日、映画館に行ったら、観客席で車椅子の人と男の人が言い争っていた。

二人とも興奮しているので事情がよくわからなかったが、どうやらこういうことらしい。

観客席には車椅子の人が鑑賞できるようなスペースが設けられている。それは観客席の中央にあり、その前は通路になっている。

立っている男はチケットを予約するとき、前が通路の席にしたいと考えていた。というのも、前に座席がないし、足を伸ばせるからだ。

だが、その日のその回は通路前の席はいっぱいだった。そこで、彼は車椅子のスペースの後ろの席を取ることにした。車椅子の客が来なければ、少なくとも前は開いていることになるからだ。

だが、劇場に入ってみると、車椅子の客がいるではないか。そこで彼は車椅子の客が車椅子いらずになるようにと念じに念じた。

すると、奇跡が起きた。車椅子の客がいうには不思議な直感に動かされたということだが、気がついた時にはすっくと立ち上がって、歩き出していたのだという。

彼はそのままポップコーンを買いに行き、戻ってくると、当然のことながら車椅子に座った。これが男の気に食わなかった。

「歩けるようになったのに、車椅子にまた座るのはおかしい!」

口論が始まった。「おかしい」「いや、おかしくない」「普通の座席に座れ!」「いや、この席を私は予約したのだから動かない」

業を煮やした男が、車椅子の客を押し除けて自分が車椅子に座ろうとしたところで、警備員に摘み出された。

このできごと以来、私は奇跡を信じるようになったが、同時に奇跡を信じなくもなった。

苦い文学

日本版DBS

【ザンゲー通信 記者の論点】
教師による子どもたちへの性犯罪が後を絶たない。

学校だけではなく、学習塾も性犯罪の舞台となった。被害にあった子どもを思うといたたまれない。

このような状況で、我が国でも「日本版DBS」の論議が活発になっている。「日本版DBS」とは性犯罪歴のある人物が学校などで働けないようにするシステムだ。

だが、「DBS」は性犯罪を完全に抑止するわけではないことも指摘されている。というのも、これから新しく性犯罪を犯そうと教職についた「まだ見ぬ性犯罪者」については防ぎようがないからだ。

また、教師による性犯罪の増加も問題だ。この調子だと、たとえ「日本版DBS」が開始されたとしても、もう登録も追っつかなくるのではと懸念されている。

しかも、増加率を考慮に入れると、やがては教師全員登録という事態にもなりかねない。

もっとも、そのときには子どもに対する性犯罪はゼロになっている可能性が高い。というのも、もはや我が国には子どもはひとりもいなくなっているはずだから。