苦い文学

カッパのクチバシ

【ザンゲー SCIENCE ニュース】
カッパの存在はいまだ確証されていませんが、カッパが言語を話すというのは確実だとされています。なぜなら、カッパが言語を介して日本人と交流していたという記録はおびただしくあるからです。

しかも、両者のコミュニケーションにほぼ問題がなかった点から、その言語は日本語(か日本語にきわめて近い言語)であることはまちがいなく、またその発音もほぼ正確であったろうと考えられています。

この発音について、しばしば取り上げられるのは「カッパは両唇音の発音ができたかどうか」という問題です。両唇音というのは柔らかな上下唇で発音される音で、マ行・パ行・バ行などがこれにあたります。カッパの口は硬いクチバシなので、両唇音はできないと考えられてきました。

ところがこれに異を唱えるような研究が近年続けて公刊され、にわかに状況が変わりました。これらの研究によれば、カッパのクチバシは「鳥とは異なり、ぼってりした肉に覆われていた」か「鳥と同じようだが、厚めの粘膜に覆われていた」のいずれかだといいます。クチバシを覆う肉、もしくは粘膜が、ソフトな唇の代わりとなっていたというのです。

学問的な決着はさておき、キュウリやカッパ巻きを食べるときに、カッパのクチバシのことを考えながら食べると味わいも増す(?)かもしれませんね。

苦い文学

財閥

私はいま風邪で寝込んでいるが、ようやく熱も下がってきた。発熱していると、夢と現実の区別がつかなくなってしまう。夢で起きたことなのか本当に起きたことなのかわからずに、しばらく呆然としていることもある。だが、そうしたこともじょじょに減り、眠れる時間も長くなってきた。

食欲も何日もなかったが、今日ひさしぶりに食べ物らしいものを食べることができた。

とはいえ、立つとフラフラするので、出歩かずに、終日ベッドで過ごしている。動画を見たりしているが、高熱に浮かされていたときは YouTube も見ることができなかった。だが、今は韓国ドラマも見られるようになった。

韓国ドラマには財閥がよく出てくるが、いま私が見ているのもそんな「財閥モノ」のひとつだ。

こうしたドラマは、見る夢に必ず強い影響を及ぼす。夢で私はキムチを漬けている田舎の男性に出会うのだが、よく見ると財閥の会長役の人だ。

キムチを食べたくなった私はその男性に近づく。すると、男は「もう、キムチ作りはやめた」といって姿を消してしまう。私は呆気に取られるが、放置された白菜を見ているうちに、キムチ作りを引き継ごうという気になる。

回復したら、財閥直傳のキムチとして売り出すつもりだ。

苦い文学

雪国

私たちの日本語の先生は、よくない先生だ。話していることが分からないし、厳しいし、意地悪し……

先生は小説が好きだ。だから私たちに小説の言葉教える。これは私たちには意味ないね。使える日本語が欲しい。先生に言うと「小説を学ぶと心が豊かになります」だって。「ジブリとかアニメとか、くだらないものばかりではダメですよ」

でも、小説ばかり勉強してJLPTのN2合格できますか? 私たちはとても不安です。

このまえ授業で「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」を勉強しました。自由に思ったことを言いましょう。先生は言うけど、誰がいつ書いたかも、なんていう小説かもわからない。

私たちは言いました。

「これはある人がトンネルに入って、たくさん歩いてトンネルを出ると雪がたくさんある国だった、という意味です」

「そうかな」と先生が言いました。「歩いてかな。もっと、なにか、乗り物があるでしょう、ほら……」

「わかりました! ネコバスです!」

先生は怒り出して教室から出ていってしまいました。自由に思ったことを言いなさいと言ったのに、おかしくないですか。

苦い文学

フィッシュ

日本の航空会社と外国の航空会社が共同運行するコードシェア便に乗っていると、食事の時間がやってきた。外国人男性の客室乗務員がワゴンを押しながらやってくる。

前の席でこう聞いている。「オムレット・オア・サワー#?%$%#?」

飛行機でのこの食事の選択の英語を聞き取れるかどうかが、旅の成否を決めるといって良い。

「サワーなんとか」とはいったいなんだろうか。酸っぱい肉料理というと、酢豚しか思い浮かばなかった。

客室乗務員が私たちのところにやってきた。私たちというのは、私と年配の夫婦だ。

「オムレット・オア・サワー#?%$%#?」

私たちは聞き取れずポカーンとしている。

「オムレット・オア・サワー#?%$%#?」

すると年配の女性が気がついた。

「さわら信田焼きだ」

日本人の多いコードシェア便だから、この男性客室乗務員は「サワラシノダヤキ」を一生懸命おぼえたのだろう。だが、私たちはそもそも彼が「さわら」という言葉を発すること自体予期していなかったのだ。とはいえ、彼の努力は讃えられてもいいと思う。

「オムレット・オア・サワラシノダヤキ?」ともう一度彼が私に聞いた。

「オムレット」と私は答えた。

苦い文学

人類への祈り

揖保乃糸は一把一把、束になっている、そしてこれが問題なのだ、と彼は思う。最近ではパスタだって束になっているけど、それでも揖保乃糸のほうがだんぜん問題だ、だって、茹で時間が1分半だから。

彼はそのパッケージから4つの束を取り出す。まとめて片手で持ちながら、鍋の湯が沸くのを待つ。そして、人類のことを考える。湯気といっしょに数々の失敗がよみがえってくる。

彼は、ひと束目を投入したのち、ふた束目の薄くてザラザラしたビニールの帯を解こうとしたのだ。だが、どこから剥がせば良いのかわからない。無理やり剥がそうしたため、跳ね上がった素麺は床中に散らばり、その間に1分半が無情にも過ぎ去った……。

それから、彼は揖保乃糸のホームページを見た。そこにはこう買いてあった。

「お湯を沸かしている間に、必要な束数の帯をほどき準備しておきます」

そこでこの教えどおりに彼は4束のテープを取り去り、調理台の上で積んだ。すると、それら2人前分の素麺は一瞬のうちに崩れて広がり、調理台から床にバラバラと落ちていった。

なぜ器が必要なことを言ってくれなかったのだろうか?

彼は食器棚を見たが、そこには素麺を受け入れる準備のととのった皿はなかった。みな、小さな丸い平皿で、素麺の両端が皿の縁からはみ出てしまう。試みに載せてみたら、そのまま崩れて落下してしまった……。

目の前で湯が沸き立った。彼は心を決めた。もうこれしかないんだ。彼は4束の素麺を左手に持ち、そのまま右手でひとつひとつ帯を剥がしていった。これができれば、4本同時投入が実現する。

ひと束目、成功。彼はふた束目に取り掛かる。思わず左手に力が入り、素麺が軋み出す。冷静に! そして無事に2束目、3束目の帯をはずす。最後のひと束! 慎重に! そのとき、思わぬ方向から現れたビニールの帯が指に絡みつく! なんだ? 3本目の切れ端だ! 彼は「あっ」と声をあげ、その瞬間、すべての素麺は彼の左手から床に滑り落ちた。

彼な絶対に諦めない。なんど失敗しても、挑戦し続けるだろう。遠い遠い未来、彼の試みのおかげで、人類の手がこんなことなど難なくできるように進化するかもしれない。いつかそうなりますように! 彼は人類への祈りを胸に、新たな揖保乃糸を買いに走った

苦い文学

成長のタクシー

荒井由美の「卒業写真」ではないが、誰かに叱ってほしいとき、私はよくタクシーに乗ったものだ。

運転手さんたちの受け答えはまるで鋭利なナイフのようで、傲慢な私の精神を削りとってくれた。絶え間ない舌打ちは弛み切った私の精神の姿勢を正した。

そして、近道を決して選ばぬ運転は、人生における遠回りの価値を教えてくれ、かならず水たまりの上で降車させることで、人生には不慮の事態がつきものだと教えてくれるのだった。

だが、最近のタクシーはどうだろうか。運転手たちはすっかりこぢんまりとしてしまい、もはや人生の厳しい教師という役割を忘れてしまったかのようなのだ。

ついこのあいだ乗ったタクシーの運転手もまことに丁寧で礼儀正しく、私は「これも時代か」とひとりさみしくほほえんだのだった。

「お客さん」と運転手が穏やかな口調で、後ろに座る私に声をかけた。「シートベルトお願いいたします」

私はシートベルトを探し、ひっぱり、腰に回して、バックルに入れた。だが、ハマらないのだ。面倒くさいので運転手に聞かずに、つけたふりをしていると、ピーピー鳴りだした。

「お客さん、すいません。ちゃんとしてないと鳴ってしまうんです」

つけたふりをした手前、いまさら聞くこともできず、私はそのまま着くまでずっとシートベルトの金具をバックルに手で押さえ続けた。少しでも気を抜くとすぐにピーピー始まるのだった。

目的地に到着した。私は久しぶりに成長させてもらったことへの感謝として料金の2倍を払いたい、と思いながら降車したのだった。

苦い文学

揺れてませんよ

みなさん。いま、私たちの国、この日本からいなくなったら困る人は誰でしょうか?

政治家、皇室、野球選手、愛国者、迷惑Youtuber……みなさんの心の中にこんな方々が浮かんだかもしれません。ですが、ハズレです。これらの人々がいなくなっても日本はまったく困らないのです。

今の日本から、いなくなったら困るのは外国人、これらの方だけです!

考えてもみてください。私たちの国は今や観光国で、多少なりともモノらしいモノを買えるお金を持っているのは外国人観光客だけです。その経済効果なしには日本はもうありえません!

しかも我が国は少子高齢化ですから、労働力も外国人に頼り切りときています。そのうち、外国人なしには電車一本も動かなくなるでしょう。

そして教育です。子どもがもう生まれないものですから、日本のほとんどすべての学校が留学生なしにはやっていられないのです。私たちはもはや、無知な日本人に代わって外国人が、すべての古典・伝統を受け継いでくれることを期待せざるを得ないのです。

おわかりいただけたでしょうか。今、この日本から外国人がいなくなったら、大変なことになるのです。ひとことで言えば日本は消滅するでしょう。

ですがじつは、私たちはいまある危機に瀕しているのです。どんな危機でしょうか? それは地震です。大きな地震ひとつで、外国人はひとりも日本に来なくなる、いや、それどころか、外国人はこぞって出ていってしまうでしょう!

なので、私たちは外国人に、日本は安全な国で地震などない、ということをどんなときにもアピールしなくてはならないのです。

「YOKOSO」「OMOTENASI」

もはやそんなキャッチフレーズが意味を持つ時代ではなくなりました。これからの日本を守るために、日本人が外国に向けて発信しなくてはいけないのはこれです!

「YURETEMASENYO」

さあ、広めましょう! 揺るぎない心で!

苦い文学

韓国の夜

用事があって9月7日から3泊4日で韓国に来ている。私はこの韓国旅行を非常に楽しみにしていて、着いたら大いに遊ぶつもりだった。

だが、2つの事情から遊べなくなってしまった。

ひとつは行きの飛行機が4時間ぐらい遅れたことだ。これはニュースにもなった。パイロットが体調不良になったのだ。しかたのないことだが、これで午後3時過ぎにはソウルに着いて、遊び歩く予定が台無しになってしまった。ホテルに着いたのが夜の9時で、最初の夜は外で夕食を食べるのがやっとというありさまだった。

もうひとつは、韓国でやらなければいけないことの準備がまったく終わっていなかったこと。要するに、日本で遊びすぎたのだ。それで、2日目の夜はその準備に費やされることになった。

そして今日、私は用事を終え、3日目の夜にしてようやく自由を手にいれた。だが、残念なことに、私は疲れ果ててしまってもいた。しかも、明日の帰国の便は朝だ。もう寝るしかない。

そんなわけでせっかく韓国に来たのに遊びらしいことはなにもできなかった。しかし、よくよく考えてみると、遊びといってもなにをするつもりだったか、さっぱりわからない。

苦い文学

金メダル

私はオリンピックにはあまり関心がないが、メダルの数には大いに関心がある。とはいえ、日本がいくつとったかということではない。私がオリンピックが来るたびに知りたいと思うのは、メダルと国との関係だ。

まず前提として、オリンピックは国別で競うのだから、メダルも国と密接な関係があるといえるだろう。だからこそ、私たちはどの国がメダルたくさんとったか、とか、我が国はメダル獲得数は何位か、ということを気にするのである。

では、その、メダルと国の関係はいったいどのようなものだろうか。つまり、メダルの数から、その国についてどのようなことが言えるだろうか。

メダルをたくさんとった国はとっていない国よりもすばらしいということだろうか。だが、どうもそうでないようだ。では、メダルの数はその国の民主主義の成熟をあらわす、はどうだろうか? いや、そんなわけない。ならば、メダルをたくさん取った国は金持ちということだろうか。これはある程度は当てはまるが、少なくても豊かな国はたくさんある。

要するに、メダルの数からはその国についてなにもいえないのだ。そして、私たちもメダルの数がなにを意味するのか知らない。私たちはわけのわからないものに熱狂していたのだ。

メダル集めたさに一喜一憂したり、誤審だなんだとカリカリしたり、果てはせっせと誹謗中傷に精だすくらいならば、ポケモンスタンプラリーのほうがずっと平和的ではないだろうか。

苦い文学

おぼこい

私が「未通女(おぼこ)」という言葉を知ったのは中学生ごろなにかの小説で読んでだと思う。そのとき私が理解したのは「処女の、性体験のない娘」という意味だった。

それから後、大学に入り、先輩が後輩の女の子に真面目な問題について助言しているときに「あなたみたいなおぼこい人」とか言っているのを聞いて、私は衝撃を受けた。若い女の子に性経験の有無についてこんなあけすけに言うとは!? しかし、先輩の態度はいたって普通なのだった。

その後、私はさまざまな経験を積み、「おぼこい」というのはどうやら西の言葉で、性的な含みなしに「子どもっぽい、世慣れていない」という意味で使われているということがわかってきた。思えば、あのとき会話していた学生は2人とも西の人だった。

しかし、関東では「おぼこい」はあまり聞かない。同じことを言うなら「すれてない」が普通だと思う(「うぶな」もあるが、古臭い印象だ)。さらに、そのもととなった「おぼこ」も日常的な語彙ではない。だから、関東には、私がそうだったように、もっぱら性的な言葉と捉えている人も多いかもしれない。少なくとも「おぼこい」は、私は今も人前では使えないし、使わない。私はどうやら「おぼこい」の「おぼこ」なのだ。

近年は、セクハラの被害をできるだけなくそうという意識が広まっている。なので、西の人がなにげなく発した「おぼこい」が、不愉快なセクハラだと東の人に受け取られる可能性もないわけではない。もはや、私のような「おぼこい」若者を当惑させる程度で済んだ時代ではないということだろう。