苦い文学

未来の教材

日本語教師をしている友人がこんなことを言った。


日本の社会が急激に変化しているのか、それとも日本語教科書の著者の考えが古臭いのか、わからないのだけどね。日本語のテキストはどうにも時代遅れで、使う側が恥ずかしくなるようなものもあるんだ。

たとえば、男女の会話がよく出てくるんだけど、そこでは、海とかデートとか、遊びに連れていってくれとせがむのはきまって女性で、仕事で忙しいからといって断るのはきまって男性なんだ。

けっして古い教科書じゃないんだ。今でも普通に使ってるやつだ。しかも同じことは他の教材にだってある。ようするに、教科書が時代の変化に追いついてないってことだ。それは仕方がない部分もあるのかもしれないけど、「男は働き女は遊ぶ」というような偏見を教える身にもなってほしいんだよね。

それで、もしけっして古びない教科書があったらどうだろうかと考えたんだ。遠い未来の進んだ世界、誰もが自分らしく生きられるようなユートピアで、平等で公平な日本語会話が繰り広げられるんだ。そんな未来の教材だったら、これからさき何十年も、いや何百年も時代遅れになることなどないだろう?


熱意ある友人はさっそくこの「未来の日本語教科書」の実現に向けて動き出した。だが、そう遠くない将来、日本語話者がゼロになるらしいということで、計画は頓挫した。

苦い文学

コロンブス

最近のニュースといえば、日本の人気バンドが、ミュージックビデオでコロンブスを取り上げて、大炎上したことだろう。

良識ある人々はみんな批判したし、良識のない人々も真似する良識はもっていたのでやっぱり批判した。そんなわけでミュージックビデオも削除されたし、タイアップもなくなり、音楽番組の出演も無くなった。

私はこの問題に詳しくないが、やはり批判されて当然だと思う。今の時代は、どんな酷いことでも平気で許された無神経な時代とは違う。さまざまな人の立場や気持ちを尊重しなくてはならない。

だから、コロンブスを持ち出すときも、バンドもミュージックビデオの製作者も、このビデオを見るさまざまな人々に想いを馳せ、想像力を働かせるべきだったのだ。

いったい、いきなり面と向かってブスと言われたら、どう思うだろうか? この言葉はルッキズムを助長するのではないだろうか? ブスなどという言葉の代わりに「個性豊かな」を用いるべきでは?

当時はコロンブスだったかもしれないが、現在の目から見れば、むしろコロン美人であるという可能性はないか? それにあの「ドブスを守る会」が抗議文を送ってきたらどう対応する?……などなど配慮すべき点はもう数えきれない。

「こんな難しいことできるか」とか「息苦しい時代になった」とか、そんなふうに投げ出すのはたやすい。だがむしろ、難しいからこそ、新たな表現のチャレンジへと立ち向かうのだ。これからのクリエイターに必要なのはそんな覚悟ではないだろうか。

苦い文学

ガムのマラソン

私たちの街で今年はじめてエコ・マラソンが開催されることになった。エコな地球を応援する趣旨ではじまったイベントだ。

サステナブルな上に珍しい試みとあって、日本中からエントリーがあり、何万人ものランナーがこの日、私たちの街に集った。

出発地点である大通りに集まったランナーたちは、ガムを1枚渡されると、ヨーイドンのかけ声とともに、口に放り入れた。

走りながら噛んでいると味がなくなってくる。ランナーたちは口からガムを出し、包み紙に包む。このガムのゴミを手に持ちながら走るのが、このエコ・マラソンのルールだ。捨てたりしたら失格なのだ。

しばらく行くと、給水所がある。ランナーたちは水を受け取り、渇きを癒す。給水所にはゴミ箱があり、うっかりガムを捨ててしまうものがいる。これでもう失格だ。こんなふうにコースのあちこちにトラップが仕掛けられている。このマラソンでは、走る速さや持久力ではなく、長時間ゴミを持ち続ける忍耐力と勇気が試されるのだ。

エコ・マラソンのコースは複雑だ。道路では、側溝の蓋がちょうどいい具合に開いていて、かっこうのポイ捨てポイントに見える。また、駅の構内もコースになっていて、その中を走っていると「駅には絶対にゴミ箱なんかないのだから、もうその辺りに捨ててやれ」という気分にさせられる。

また、コースはドブの匂い立ち込める貧民街や、蠅のうるさいゴミ屋敷を通り、ランナーを「ここならいいか」という気にさせずにはおれない。そして、高い壁に囲まれたヤクザの組長の家の前では、「ゴミ野郎め」とガムを放り投げるランナーが続出した。

コースは、山道や森の中や渓流沿いにも設定されていた。もうゴミ捨てにうってつけで、そこで失格となるランナーの多さときたら、SDGsの採択も無駄だと思わせるほどだった。

しかし、エコ・マラソンの最大の難所といえば、太陽の照りつける最後の坂道だ。「ただでさえ登りと暑さできついのに、ゴミなど持っていられない」とランナーはどんどん脱落し、そこで太陽が引き起こした恐ろしい事態に巻き込まれていった。

捨てられたガムが太陽熱でとろけ、恐るべき粘着力でもってランナーたちを捉えはじめたのだ。ガムに足を取られたが最後、もう一歩も進めない。そして、もがけばもがくほど大量のガムに絡め取られていき、ついには身動きが取れなくなった。

この難所を抜けてゴールのあるスタジアムにまでやってこれたのは2人のランナーだけだった。私たちは、目の前で繰り広げられるデッドヒートに大いに熱狂し、声をからすほどに叫んだ。そして、この熱狂は、追う立場にあった2番手がゴール直前で相手を追い抜き、そのまま逃げ切ったときに最高潮に達した。

「最後の最後で逆転した!」「彼が優勝だ!」「ヒーローだ!」

大会委員長が表彰式で、この優勝者の首にメダルをかけようとしたとき、私たち全員は、表彰台に立っているのが、人の形をしたガムの塊であることに気がついた。

苦い文学

Fラン・ザ・ワールド

日本人はバカが勉強するのがきらいだ。すぐ「手に職をつけろ」と言い出す。それは、バカに勉強ができるわけないと思っているからだし、バカに勉強は必要ないと思っているからだ。バカが知識をぐんぐん増やしていると、あたかも環境破壊が起きているような気がするのだ。

だから日本人は、Fラン大学だのなんだのとおかしなことを言い出して、大学を目の敵にするようになった。日本人があまりにもFラン大学を憎むので、政府はFラン大学を潰すことにした。支持率回復のチャンスと見たのだ。

そして、ついに日本からFラン大学がなくなった。政府は完璧を期するため、ついでに早稲田大学も潰してしまった。よくみたらFランだったからだ。

そんなふうにじょじょにFランらしき大学もなくなっていき、残った偏差値 90 の大学に、ほんの一部の天才だけが通うようになった。日本人は「とうとうフランス流のエリート教育が実現した」と喜んだ。

そのいっぽう、日本人はまるで勉強しなくなってしまった。なぜなら勉強しても意味がないからだ。大学で勉強したいと思っても、進学先がなかった。日本人たちは「日本は職人を尊敬する尊い国だから、手に職をつけるべきだ」と誇らしげに勧めたが、じつのところ、みんながみんな手に同じ職をつけたら、それはもはや手に職をつけたとはいえなかった。

そんなわけで、若者たちはもはや手に職をつけるのも諦めて、訪日外国人を騙したり、そのポケットから小銭をくすねることだけに集中するようになった。麻薬の売人と女衒とテロリストが憧れの職業になった。

じつはそのとき、日本の周囲の国でこんな声が聞かれるようになっていた。「民度の低いFラン国家は潰してしまおうではないか」

日本のエリートたちは、こんな声は無視することにした。また、普通の日本人、つまりFラン民族には、自分たちが何を言われているのかまったくわからなかった。というのも外国語を勉強するとスパイだと疑われるようになったので、外国語を解する人などとうの昔にいなくなっていたのだった。

そして、日本を取り巻く外国が、この、日いずるFラン国家とFラン民族を征伐しようと準備を進めていると、宇宙から異星人が飛来し、遠くの空から地球の様子を観察した。

「これはFラン星だ」

といって、宇宙の東大級の武器で地球を吹き飛ばすと、飛び去っていった。

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アラムナイ

私の知り合いのある日本人女性が、アラブ圏の大学を首席で卒業したと主張している。そんなことがあるのだろうか。

私は、博識の友人に尋ねた。その人も外国の大学を卒業したのである。彼はただちに「そのようなことはありえない」と否定した。

「私の経験からいえば、外国語で学んで優秀な成績を上げるというのは大変なことだよ。しかも、全卒業生でトップなどほとんどありえない。調べてみなよ、日本の大学で外国人が首席で卒業したことがあるかどうか。ないとは言えないが、普通にあることではないよ」

「だけど、その女性はそう言い張っているんだ」

「まず嘘だろうね」

「だろう? しかも驚いたことに、学生は自分ひとりしかいなかった、だから首席なんだ、って言ってるんだ」

これを聞くやいなや、私の博識の友人の顔色が変わった。「そ、それは本当か?」

「本当かはわからないが、少なくともそう言ってるよ」

「あぶない! その女性から離れるんだ。どんな災難に巻き込まれるかしれたもんじゃないぞ!」

「え? なんで?」

「アラブ圏のどこかに、アサシン大学という暗殺教団が作った大学が存在する。その学校で学生たちは暗殺の技を学び、無敵の暗殺者となって卒業するのだ。だが、そう簡単には卒業できない。なぜなら、卒業できるのはただひとり。同学年のライバルにうち勝ち、その全員を殺した者だけなのだ。そうなのだ……それがたったひとりの首席なのだ。ああ、その女性がもしこの大学のアラムナイだとしたら……? この非情な暗殺者の前では、命などアラムナイがごとき……」

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不良の改心

不良が真面目になったとき、私たちは大喜びする。不良がまともな仕事に就くと、私たちは我がことのようにうれしくなる。

それはなぜだろうか。私たちの社会は帰順者を常に必要としているからだ。改心した不良たちは、私たちの社会に敵対するのをやめて、服従することを選んだ帰順者なのだ。

私たちの社会は不良との永続的な戦争状態にある。不良が投降して私たちの社会に下るということは、私たちの社会の勝利を意味するのだ。

だから、私たちにとって、シオらしくしている不良を見ることは、自分たちの勝利を実感することだ。そればかりでなく、そのような社会に生きる個々の自分たちも勝者となるのだ。

とはいえ、私たちが不良の改心を称賛すると、こう批判する人がしばしば出てくる。

「そんなことで元不良を褒めるのは間違っている。本当に称賛されるべきは、道を踏み外すことなく地道に頑張っている若者たちではないのか。真面目な人間が損をするような社会であってはならない」

こうした批判が的外れなのはいうまでもない。なぜなら、私たちが不良を持ち上げているとき、本当に持ち上げているのは自分達自身なのだから。

だから、私たちは本当のところ、不良になど関心はない。不良をだしにしていい気持ちになりたいだけなのだ。

それが証拠に、改心した不良のその後など誰も関心がない。私たちの社会に組み込まれて、それで終わりだ。

もっとも、自分が利用されたことにいつか気づき、もう一度改心して、もとの不良に戻る、まともな不良もいないではない。

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銃とクマ

自然と人間の関係が変わってきているのだろうか、クマが人間の住んでいるところに頻繁に現れるようになり、さまざまな問題が生じている。

もっとも大きな問題は、人に危害が及ぶことだ。そして、人間を傷つけたクマは、いっそう危険になる。だから、クマを銃で仕留めて駆除しなくてはならない。とはいえ、これは賛否が分かれる。人間の命を守るためなのだから当然だという意見もあるし、動物を銃殺するのは野蛮だという人もいる。

この批判は、銃でクマを駆除する人々をイラだたせているようだ。報道によれば「撃つなというが、他に方法はあるのか」とか、「外の人間は好きなことが言える」とか怒ったあげく、「そんなことを言うならば、我々はもうやらない」などと逆ギレ気味になったという。

また、自分達への待遇にも怒りを募らせているとも報じられた。「こっちは命をかけてやっているのだから、そのような待遇ではとてもできない」とある自治体の駆除要請を突っぱねたのだそうだ。

銃でクマを駆除する人にはいろいろ事情があるにちがいない。だが、批判されるとすぐに怒ったり、逆ギレしたりするような人々に、果たして銃を持たせていいのだろうか、という気もしないではない。

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日本の解決法

子どもや高齢者、病人に対する虐待が後を絶たない。しかも、加害者は保護者や介護者・教師など、守るべき立場にある人々なのだ。

どうしてこんなことが起きるのだろうか。そしてどうして年を追うごとに増加しているのだろうか。そんなにひどい人間たちが増えているのだろうか。

「そうではありません」と識者は語る。これらはすべて人手不足に起因するのだ、と。つまり、働き手が少なくなり、それにともない仕事量が増えると、ストレスが増大する。そしてこのストレスが一定のリミットを超えると、人々はこう考えるようになる。

「自分はこんなにつらい思いをしているのだから、これくらいしてもいいじゃないか」

そんなふうにして、虐待、盗撮、性暴力がはじまっていくのだ、と。

ならば、人手不足を解消しよう、それが根本解決だ。だが、ことはそう簡単ではない。識者はこう語る。「労働力不足解消のためには、移民を増やすしかありません。ですが、国籍や民族による差別が横行し、さらには経済的に没落しつつある日本で働きたがる外国人などいないのです」

つまり、もう手がないのだ。「だが、道はあります」と、識者は語る。「それは、テクノロジーを活用することです。ロボットが導入されれば、ストレスでギリギリの精神状態の人は救われ、虐待もなくなっていくことでしょう」

そこで、労働力不足解消のため、働くロボットの開発が進められた。だが、仕事を奪ってしまうのではないか、という根強い懸念もあり、結局、虐待専用ロボットが完成した。

丈夫で、よほどの虐待でないかぎり壊れない。

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間違い探し

サイゼリヤにしても、ポポラマーマにしても、どうしてこれらのイタリア・レストランは、私たちに間違い探しをさせたがるのだろうか? そんな疑問が、ある起業家に画期的なレストランを思いつかせた。起業家は、なんでも徹底する持ち前の性格を生かして、イタリア料理と間違い探しのシナジー効果をとことんまで追求したのだ。

店の名前は「Individuare la differenza」、その名も「間違い探し」だ。この店では客たちを、あらゆるところで間違い探しが待ち受けている。もちろん、普通の間違い探しだってある。だが、たたみ一畳ぐらいの大きさだ。間違いも 5000 個ある。しかも、メニューも 2 種類置いてある。客は 2 つのメニューを見比べて、500 の間違いを探し出さねば、水一杯も出てこない。

それだけではない。店員もオーダーをとりにくるときと、料理を運んでくるときとでは微妙に違っている。店員そのままで間違い探しなのだ(調理場にいるシェフも帽子の高さを微妙に変えていた)。しかも、運ばれてきた料理も、メニューと見比べて欲しい。少なくとも 10 個の間違いが見つかるはずだ。エビの大きさ、振りかけられたパセリの位置、パスタの太さ……客たちは間違い探しに夢中のあまり、パスタが伸びてしまってもお構いなしだ。

そして、店の内装も、店員の顔ぶれも、供される料理も、毎日少しずつ変わる。だから、客たちは昨日の店と今日の店の間違い探しを楽しむこともできる。しまいには、常連客も微妙に服などを変え始めた。客みずから間違い探しになったのだ。

このような楽しみに溢れた店が繁盛しないはずはない。全国からイタリア料理と間違い探しファンが詰めかけ、もう予約も取れないありさまだ。

こんなに大成功したレストランがあろうか。連日のようにメディアに取り上げられ、経営方針が新書で出ることにもなった。

ところが、半年もしないうちに閉店してしまった。隣に 2 号店を開店して店ごと間違い探しにしようという計画に着手したばかりだった。我が国の行政がこの店で、脱税・産地偽装・不衛生な調理環境・ハラスメント・不法就労など、さまざまな間違いを見つけたのである。

いまでは、空き店舗が残されているだけだ。街の人々は「間違いひとつ見つけた」とその前を通るときにいつも思う。

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その人

私は最近その人のことばかり考えている。3年前、同じ職場にいた人だ。ほとんど交流はなかったように思うし、あったとしても、どんな機会にどんな話をしたかとか、まったく覚えていない。だけど、いまになって、その人のしなやかな白い指や、陽の光に照らされた頬のみずみずしさや、まるで庭園でも歩くかのような優雅な足の運びが鮮烈に思い出されるのだ。

私はいつしかこの思い出の強烈さに苦しめられるようになった。まるでその人は私の目の前に今もいるかのようであり、その鮮やかな映像はまるで炎のように私の胸を焦がした。

それがもはや耐え難くなったとき、私はその人に会おうと決意した。インターネットで私はその人のかすかな痕跡をたどり、ついに SNS にたどり着いた。その人の投稿と写真を綿密に検討し、私はその人の家を突き止めたように思った。

これは、その人の家に行け、ということでなくてなんであろう? 運命も私とその人を結びつけているのだ。だが、もちろん、私はストーカーなどではなかった。ただ会って、自分の思いを伝えて戻ってくるだけ。その人もわかってくれるはずだ……私は家を出て、電車を乗り継ぎ、その駅にたどり着いた。ゆるやかな坂を降り、大きな橋を渡った。

まるで不思議なことなのだが、近づけば近づくほど、あの強烈な印象が薄れてきているように感じられた。その人の家の近くにまでやってきた、と意識した瞬間はなんとなく覚えているが、その後、どうしたわけか、私は町の名所巡りをした。

そして、駅に戻り、電車に乗って遠ざかるにつれて、私の心の中にその人の輝くような印象が徐々に戻ってきた。それはますます強烈になり、自分の家に戻ってきた私はいま、その人に会いたいという思いに煩悶している。