苦い文学

セマンチック・マジック

その奇術師は、舞台に立つと、小さなホワイトボードを5枚取り出し、5人の観客たちに配るとこう言った。

「お好きなひらがなをひとつお書きください。私に見えてもかまいませんよ」

観客たちが書き終わると、奇術師はそのボードを集め、枠に嵌め込んで、書かれた文字が見えるように並べた。文字列を続けて読むと「ふそけむぜ」となった。

「『ふそけむぜ』! まったく意味のない言葉ができあがりました。ではみなさん、このボードに集中してください」

奇術師は観客の視線を誘うように、ボードの前で手を優雅に動かした。

「そうです、そうです、ジーッとみてください。そして、自分の心から湧き上がるものを感じてください」

観客たちははじめは訝しげな顔つきだったが、次第に何かが浮上してくるのを感じ始めた。

「どうですか。いま、結びつこうとしています。そのイメージです。そう、そう!」と陶然とした声で奇術師が語りかけると、観客たちはうっとりとうなずいた。

「さあ! 結びつきました! シニフィアンとシニフィエがいま結ばれました!」

観客たちは夢から醒めたように奇術師を見つめた。どの顔も、驚きと喜びに照り輝いていた。

「みなさん! もう、おわかりでしょう! 『ふそけむぜ』とはなんですか?」

人々はいっせいに大声で答えた。「右手の中指にできたササクレ!」

「そのとおり! いま、私たちは意味の誕生を目撃したのです! 新たな言葉として、『ふそけむぜ』が産声を上げました! これがセマンチック・マジックです!」

2回目のマジックでは、たまたま文字列が「はたけやま」となり、これに「今にも犬の尻から糞が落ちそうな状態」というシニフィエが結合したため、会場に居合わせた畠山氏が激怒して、大騒ぎになった。

苦い文学

閉じ込めの夏

今年もまた、閉じ込めの夏がやってきました。ちびっこたちが地獄のような暑さの車の中に閉じ込められ、どれだけ泣いても喚いても、どれだけ熱い扉を窓を叩いても、誰ひとり助けに来ず、完全に忘れ去れられて、焼き殺される夏が。

「今年はいったい子どもが何人死ぬか、ズバリ当てましょー!」と、愉快な YouTuber たちが現れて、面白おかしく配信を始めました。

「15人!」「いや8人!」「ゾロ目の22だ!」

遊びとはいえ、みんな真剣です。というのも、みごと当てたら、賞金1億円がもらえるんです。YouTuber のひとりときたら、早くもそのお金をもらった気でいて、ガールズバーで豪遊の皮算用。ニヤニヤしながら「お願い、10人死んで!」だって。

「結果発表は9月31日! それまでにどんどん閉じ込めて!」と YouTuber が呼びかけたら、もう炎上どころの騒ぎじゃありません。日本中が激怒して、罵詈雑言を浴びせかけます。

「吊るせ! 子どもの命を粗末にする虐待 YouTuber どもを締め殺せ!」

YouTuber たちはせせら笑いました。「俺たちに文句言うのは、俺たちぐらい税金を払ってからにしろ、貧乏人が!」

こんなことを言うものですから、日本中がますます怒り狂います。あまりにも頭に血が上ったので、みんなゴジラみたいに口から火を吐きはじめました。

人々は不遜きわまりない YouTuber たちに向かって叫びました。「お前たちの居場所を突き止めて、絶対にぶちのめしてやる!」

それに対して YouTuber たちがまたカッとさせるようなことを言うものですから、炎上に次ぐ炎上で、結局夏じゅう燃え盛ったのでした。

そして、ついに9月31日がきました。この日、人々は2つのことを知りました。ひとつは、みんなが注意深くなったせいで、その夏ひとりも閉じ込められて亡くなる子どもがいなかったこと。そして、もうひとつは、この不埒な YouTuber たちのアジトがついに突き止められたこと。

人々が突入してみると、そこには配信機材に囲まれて小さな観音様の像が立っていたということです。

苦い文学

じつは

私の知人で言語に関する研究をしている人がいる。研究者の仕事は研究をすることだが、それだけでは十分ではない。研究会や学会に出席して、研究発表をしたり、聞いたりするのも大事なのだそうだ。

私の知人によれば、研究発表にはいろいろな危険があるのだという。私がその危険について知りたがると、ひとつだけなら、と教えてくれた。

「学会発表では発表のあと、質疑応答の時間がある。フロアから質問が飛び、それにひとつひとつ発表者が答えていくのだが、その答えに『じつは』を使うのは、非常に危険なのだ。

「というのも、『じつは』とは、それまでに明かされていない裏の事情を明かすときに使う言葉だ。いっぽう、質疑応答というのは、その直前の発表内容にもとづいて行われるものだ。だから、発表者が質問に答えるときに『じつは……』とそれまでに言っていなかった情報や新たなデータを付け加えるのは、ルール違反なんだ。

「もし、その『じつは』のデータがあらかじめ提示されていれば、質問者はそんな質問はしなかったかもしれない。質問した人にしてみれば、ちょっとバカにされた気分だろう。

「それに他の人々だって、無駄な時間につきあわされたわけで、とても不愉快だ。そんなわけで、いつしか、学会出席者たちの心理に、『じつは』という言葉を聞いただけで、激しくイラだってしまう反応が形成されてしまったのだ。たとえ発表とは関係なくてもね。

「そういえば、ある言語系の学会でこんなことがあった。遅れて会場に着くと、ちょうどひとつ発表が終わったときで、人々がゾロゾロ会場から出てきた。だが、そのようすには驚かずにはいられなかった。まるで暴動の後のようだったのだ。みな顔をしかめ、罵りあい、平気で肩をぶつけ合い、苛立たしげに床を踏み鳴らし……学術の場にそぐわない殺伐とした雰囲気だ。だが、プログラムにあるその発表タイトルをみて納得したね。そこにはこう書かれていたのだ。

《現代日本語における「実は」の用法の研究》

不運な発表者は虫の息だったそうだ」

苦い文学

ゴミ箱なき世界

今日はとても暑い日だった。友人と上野駅で電車を待っているときのこと、私は、自動販売機でお茶を買い、ほとんど一気に飲み干してしまった。

空いたペットボトルを捨てようと自販機の隣に行ったが、普通あるはずのペットボトル・缶・ビン専用のゴミ箱がなかった。「これすらなくなるとは!」と私は内心あきれながら、もう駅からはいかなるゴミ箱も消え失せたのだ、と暗澹たる気持ちとなった。そして、ペットボトルは、どこかで捨てようとそのまま持っていたのだった。

そのとき、友人が「あぶない!」と叫ぶや、私の手からペットボトルを奪い取り、まるで爆弾かなにかのように、ホームから放り投げた。

ペットボトルは隣のホームの上に落ち、乾いた音を立てて転がった。

「なにをするんだ!」と私が彼を咎めると、「死ぬところだったぞ!」と彼。そして「ほら!」といまや線路に隔てられたペットボトルを指差した。

ちょうどそのホームには、善良そうな男性がやってきたところだった。その男性は落ちているペットボトルに目を留めると拾い上げ、あたりを見回した。ゴミ箱を探しているのだ。

「なんとすばらしい人物だろう!」と私は、少々友人に対する嫌味を込めてつぶやいた。

そのとき、向こうのホームに電車が入ってきた。電車は私たちとその善良なる男性のあいだに滑り込み、私たちはその姿を見失った。電車が止まり、人々が乗り降りするのが見え、そしてふたたび電車は動き出した。

線路が空になったとき、私たちはなんというものをホームに見つけただろうか。そこには巨大なゴミの山ができあがっていたのだ。空のペットボトル、割れたビン、紙屑、弁当箱、食べかす、新聞紙、雑誌などが作り上げた山だった。

いっしゅんゴミの山が揺れたかと思うと、汚れた液体の飛沫が上がった。山は恐ろしい音を立てながらゆっくりと崩壊し、廃墟の中からあの善良な男性が姿を現した。彼は身体中血まみれになりながら、ゴミの山から抜け出そうと苦しげに歩んだ。だが、数歩で力尽き倒れたのだった。

「あれが!」と友人は叫んだ。「ゴミ箱なき世界で、たったひとりゴミを手にしていた人間の末路だ! この無情な世界ではゴミを持っているところを見られたが最後、ゴミ箱認定されずには決して終わらないのだ!」

苦い文学

山手線の旅人

私の友人の長年の研究が実を結び、ついに異世界への扉が開いた。それは山手線だったのだ。

彼がいうには山手線は螺旋状になっていて、一周まわると違う次元へと少しずつ移行していくのだという。

その移行の程度はほんのわずかだ。上野駅の6両目の停車位置にある黄色い点字ブロックを例にとれば、その角っこのドットの上にひっついた塵が位置を少し変えるぐらいのものだ。だが、これを何周も繰り返すと、それこそ塵も積もれば山となるだ、もしかしたら、点字ブロックなどなくなっているかもしれない。つまり、視覚障害者がもっと自由に移動できるすばらしい手段の存在する次元に移行したのだ。

そして、先日、友人は私たちに別れを告げ、はるか高次の世界へと旅立つことにした。朝早く、山手線で出発するこの友人を、私は上野駅から東京駅まで見送ったのだった。

もう二度と会えないと思うと寂しくはあったが、晴れやかな彼の顔を見ていると、そんなことは言えなかった。もっとも、若干の名残惜しさは彼も感じていたようで「この吊り革とも会えなくなるなあ」とか「高次の世界では脱毛の宣伝などないだろうなあ」とかいって、しげしげと車内を見回していた。

私はふと気になって聞いた。「おい、内回りと外回りは大丈夫かい。うっかりして螺旋状に下位の次元に下っていったりしないでくれよ」

「もちろんさ。ちゃんと調べてあるよ」

私は安心して東京駅で降りた。大きなリュックを背負った彼に手を振っていると、銀と緑のドアが閉まり、電車が動き始めた。

「友よ、君は今、永遠の世界に旅立とうとしているのだ」と、私は電車を見つめながらつぶやいた。そして、次々と過ぎ去っていく山手線の車両に「大崎」と書かれているのを見たような気がした。

苦い文学

くずおれ部

女性アナウンサー「それでは次のニュースです」

男性アナウンサー「桑畑さん、『くずおれる』ってご存知ですか?」

女性アナウンサー「え? 『崩れ折れる』ではないんですか?」

男性アナウンサー「いえ、違うんです。では、映像をご覧ください」

(映像はじまる)
老人たちが会議室に集まっている。ひとりの老人が立ち上がり、みんなの前でグラグラと揺れ、がくりと膝をつき、そのまま尻餅をつき、横になる。

老人たちが倒れた老人を見て声をかける。「うーん、違うなあ!」「ちょっと、ズレているよ」「これは『崩れ折れる』だな!」 倒れた老人は恥ずかしそうに立ち上がる。

アナウンサー「この方々は、『くずおれる』を再現しようと活動を続けてらっしゃるのです」

(老人へのインタビュー)
「『くずおれる(頽れる)』とは、辞書を見ると『くずれるように倒れる。くずれ倒れる。』などと書かれていますが、語源を紐解くと『崩れる』とも『折れる』とも関係がないのです。もともとは『くずほれる』と一語だったのですが、『ほれる』が『おれる』となった結果、『折れる』と勘違いされて、『崩れ折れる』の仲間にされてしまったというわけです。私たちは『くずおれる』本来のくずおれ方を現代に復活させようと毎週活動を続けています」

今度は別の老人が立ち上がって、「くずおれる」の実演を行う。頭からバターンと激しく床に倒れる。老人たちから声が上がる。

「いいかも!」「その調子!」「うーん、ちょっと折れている感じが強かったかな!」「そうそう、これじゃ『折れ崩れる』だ!」

倒れた老人は脳震盪を起こし、立ち上がれずに痙攣している。

(頭に包帯を巻いた老人)
「私たちの体が持つまで、『くずおれる』を探求しますよ!」

女性アナウンサー「はあ、とても勉強になりました。日本語って奥が深いですね」

男性アナウンサー「ええ、日本語の良さを次世代に伝えたいと、みなさん語っておられました。『くずおれる』をきわめたのちは、『倒れる』と『斃れる』のたおれ方の違いを明らかにしたいと意気込んでおられましたよ」

女性アナウンサー「無理をして、くずおれなければいいですね。では次はお天気です……」

苦い文学

神様

エリ・ヴィーゼルは、自伝的小説『夜』で、少年のころのアウシュビッツ収容所での経験を記している。ユダヤ人に対するさまざまな残虐行為が記録されているが、なかでも男の子が絞首刑に処される一節はとりわけ印象深く、よく知られたものだ。

その男の子は、ヴィーゼルたちの目の前で、ふたりの大人と一緒に絞首刑にされるのだ。大人たちはすぐに絶命したが、子どもは体重が軽いため 30 分以上も死ねなかった。

苦しむ子どもを目の当たりにして、「私(ヴィーゼル)」の後ろで男が尋ねる。


 「いったい、神はどこにおられるのだ。」
 そして私は心のなかで、ある声がその男にこう答えているのを感じた。
 「どこだって。ここにおられる——ここに、この絞首台に吊るされておられる……。」
            ヴィーゼル『夜』(みすず書房)


ところで、最近の日本では、飲食店での客のふるまいが問題になっている。店に対する横暴な要求、いわゆるカスタマーハラスメントをめぐって、「お客様は神様です」という考え方についても議論がされている。

議論の内容以前に、私がいつも気になるのは、ここでいう神様とはいったいなんの神のことか、ということだ。なにしろいろいろな神がいるから。神様によっては、私たち客は、店長に吊るされかねないのだ……。

苦い文学

退去強制

外国人だと間違われた日本人が入管に収容されたという、信じがたいニュースを聞いた。

吉田というその男性は、職務質問で外国人だと決めつけられ、不法滞在者として入管に連行されたのだという。吉田さんは免許証や身分証などを見せて日本人であることを訴えたが、偽造だと一蹴され、粛々と手続きが進んだ結果、とうとう退去強制令書が出されたのだという。

しかし、日本人をどこに強制送還できようか。そんなわけで彼は入管の収容所に移されたのだという。

だが、さらに驚くべきは、入管収容所には、吉田さんのほかにもたくさんの日本人がいたということだ。

それらの日本人たちは、入管の職員をはばかって、チャンとかミンとかアリとかヤンとか互いに呼び合っていたのだが、吉田さんが日本人だと知ると、本当の名前をこっそり教えてくれたのだそうだ。

さて、吉田さんは、幸運にも入管から出ることができた。その窮状を知った知人が方々に働きかけてくれたのが功を奏したのだという。

今回の出来事について、ニュースでは弁護士はこう指摘していた。

「日本人を外国人だといって、外国人にのみ出される退去強制令書を使って日本から排除しようとするケースがたびたび起こっています。これは退去強制令書が悪用されているといっていいでしょう。このような悪用がなくなるように、日本人を面倒な手続きなしにそのまま国外退去処分できるような枠組みを作るべきです」

苦い文学

命を守る

その人が颯爽と現れたとき、私たちはついに新しい時代の幕が開いたと感じたものだった。その人は私たちにこう約束したのだった。

「私はみなさんの命を守ります。暮らしを守ります。そして、この国を守ります」

私たちの国はといえば敵ばかりで、私たちの命はまさに脅かされていたのだ。私たちはその人に全面的な信頼を寄せ、自分たちの命と暮らしと国が守れるよう国民の先頭に立ってほしい、と要請したのだった。

そして、ついにその人の時代が訪れた。私たちにとって、その人と同じ空気を吸い、同じ国土をともに歩むことは、なんという誇りであったことだろうか。その時代は30年もの長きにわたり、その人が凶弾に倒れるまで続いたのであった。

その人がこの世界を去ったとき、私たちは改めて感嘆した。「あの人は約束どおり、私たちの命と暮らしと国を完璧に守りとおした!」と。

私たちの命の扱いも、暮らしの程度も、国の在り方も、まったく30年前の姿そのままに守られたのだった。

現在、すっかり痩せ細ってしまった私たちは、ときどき伝わってくる外国の豊かで楽しげな生活を見ながら「守るよりも、ノビノビさせるほうが大事だったのでは?」などと考えている。

苦い文学

薬局の神託

ソクラテスは、毒薬の入った杯を飲むとき、周りの者に医神アスクレピオスに鶏を奉納するようにと語ったそうだ。私は薬局に行くといつもこのことを思い出す。

とはいえ、薬局といっても、処方箋を出せば数分で終わる迅速に薬の出る薬局のことではない。薬が出てくるまでやたらと時間のかかる薬局のことだ。

こうした薬局では、処方箋と引き換えに受付票が渡され、それから呼び出されるまで、少なくとも1時間だ。いやもっとかかる。閉店までに間に合わなくて、翌日にまでかかることもある。

そんなに薬を揃えるのが大変なのだろうか。あるいは、大きな薬局の薬剤師はがんばり屋で、いつも薬の入った箱を何段にも抱えて走り回っているせいで、前が見えなくて、他の薬剤師とぶつかって薬をぶちまけてしまう、ということでもあるのだろうか。

それとも、膨大な薬を収蔵する薬保管室がもうまるで迷宮のようで、一度薬を取りに入ったが最後、二度と出てくることができないのだろうか。それか、大きな薬局は、待つことが自然治癒力と免疫力を高めるという、独自のセルフメディケーションを提供しているのであろうか。

まったく見当もつかないが、薬局でひとり何時間も待たされる私は、これはきっと、お前にはつける薬もなく、匙も投げたぞ、というアスクレピオスからのメッセージではないかという気がしてきて、毒薬をあおりたくなるのだ。

もっとも、その毒薬を出してもらうのにも、そうとう待たねばならないのだが……