苦い文学

日本の解決法

子どもや高齢者、病人に対する虐待が後を絶たない。しかも、加害者は保護者や介護者・教師など、守るべき立場にある人々なのだ。

どうしてこんなことが起きるのだろうか。そしてどうして年を追うごとに増加しているのだろうか。そんなにひどい人間たちが増えているのだろうか。

「そうではありません」と識者は語る。これらはすべて人手不足に起因するのだ、と。つまり、働き手が少なくなり、それにともない仕事量が増えると、ストレスが増大する。そしてこのストレスが一定のリミットを超えると、人々はこう考えるようになる。

「自分はこんなにつらい思いをしているのだから、これくらいしてもいいじゃないか」

そんなふうにして、虐待、盗撮、性暴力がはじまっていくのだ、と。

ならば、人手不足を解消しよう、それが根本解決だ。だが、ことはそう簡単ではない。識者はこう語る。「労働力不足解消のためには、移民を増やすしかありません。ですが、国籍や民族による差別が横行し、さらには経済的に没落しつつある日本で働きたがる外国人などいないのです」

つまり、もう手がないのだ。「だが、道はあります」と、識者は語る。「それは、テクノロジーを活用することです。ロボットが導入されれば、ストレスでギリギリの精神状態の人は救われ、虐待もなくなっていくことでしょう」

そこで、労働力不足解消のため、働くロボットの開発が進められた。だが、仕事を奪ってしまうのではないか、という根強い懸念もあり、結局、虐待専用ロボットが完成した。

丈夫で、よほどの虐待でないかぎり壊れない。

苦い文学

間違い探し

サイゼリヤにしても、ポポラマーマにしても、どうしてこれらのイタリア・レストランは、私たちに間違い探しをさせたがるのだろうか? そんな疑問が、ある起業家に画期的なレストランを思いつかせた。起業家は、なんでも徹底する持ち前の性格を生かして、イタリア料理と間違い探しのシナジー効果をとことんまで追求したのだ。

店の名前は「Individuare la differenza」、その名も「間違い探し」だ。この店では客たちを、あらゆるところで間違い探しが待ち受けている。もちろん、普通の間違い探しだってある。だが、たたみ一畳ぐらいの大きさだ。間違いも 5000 個ある。しかも、メニューも 2 種類置いてある。客は 2 つのメニューを見比べて、500 の間違いを探し出さねば、水一杯も出てこない。

それだけではない。店員もオーダーをとりにくるときと、料理を運んでくるときとでは微妙に違っている。店員そのままで間違い探しなのだ(調理場にいるシェフも帽子の高さを微妙に変えていた)。しかも、運ばれてきた料理も、メニューと見比べて欲しい。少なくとも 10 個の間違いが見つかるはずだ。エビの大きさ、振りかけられたパセリの位置、パスタの太さ……客たちは間違い探しに夢中のあまり、パスタが伸びてしまってもお構いなしだ。

そして、店の内装も、店員の顔ぶれも、供される料理も、毎日少しずつ変わる。だから、客たちは昨日の店と今日の店の間違い探しを楽しむこともできる。しまいには、常連客も微妙に服などを変え始めた。客みずから間違い探しになったのだ。

このような楽しみに溢れた店が繁盛しないはずはない。全国からイタリア料理と間違い探しファンが詰めかけ、もう予約も取れないありさまだ。

こんなに大成功したレストランがあろうか。連日のようにメディアに取り上げられ、経営方針が新書で出ることにもなった。

ところが、半年もしないうちに閉店してしまった。隣に 2 号店を開店して店ごと間違い探しにしようという計画に着手したばかりだった。我が国の行政がこの店で、脱税・産地偽装・不衛生な調理環境・ハラスメント・不法就労など、さまざまな間違いを見つけたのである。

いまでは、空き店舗が残されているだけだ。街の人々は「間違いひとつ見つけた」とその前を通るときにいつも思う。

苦い文学

その人

私は最近その人のことばかり考えている。3年前、同じ職場にいた人だ。ほとんど交流はなかったように思うし、あったとしても、どんな機会にどんな話をしたかとか、まったく覚えていない。だけど、いまになって、その人のしなやかな白い指や、陽の光に照らされた頬のみずみずしさや、まるで庭園でも歩くかのような優雅な足の運びが鮮烈に思い出されるのだ。

私はいつしかこの思い出の強烈さに苦しめられるようになった。まるでその人は私の目の前に今もいるかのようであり、その鮮やかな映像はまるで炎のように私の胸を焦がした。

それがもはや耐え難くなったとき、私はその人に会おうと決意した。インターネットで私はその人のかすかな痕跡をたどり、ついに SNS にたどり着いた。その人の投稿と写真を綿密に検討し、私はその人の家を突き止めたように思った。

これは、その人の家に行け、ということでなくてなんであろう? 運命も私とその人を結びつけているのだ。だが、もちろん、私はストーカーなどではなかった。ただ会って、自分の思いを伝えて戻ってくるだけ。その人もわかってくれるはずだ……私は家を出て、電車を乗り継ぎ、その駅にたどり着いた。ゆるやかな坂を降り、大きな橋を渡った。

まるで不思議なことなのだが、近づけば近づくほど、あの強烈な印象が薄れてきているように感じられた。その人の家の近くにまでやってきた、と意識した瞬間はなんとなく覚えているが、その後、どうしたわけか、私は町の名所巡りをした。

そして、駅に戻り、電車に乗って遠ざかるにつれて、私の心の中にその人の輝くような印象が徐々に戻ってきた。それはますます強烈になり、自分の家に戻ってきた私はいま、その人に会いたいという思いに煩悶している。

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ある悲恋の物語

住宅街を通る細い道に設置された信号機。その下にいつからか花束が手向けられるようになった。人が亡くなるような事故があれば大騒ぎだろうに、近所に住む私はそんな話を一度も聞いたことがなかった。

あるとき、ぶらぶらと歩いていると、その信号機の下にひとりの青年がぽつねんと立っているのが見えた。青年はかがむと、手にしていた花束を置いた。

私は近づき、その若者に声をかけた。「ここで大切な方を亡くされたのでしょうか」

こちらを向いた青年の顔は涙に濡れていた。彼は静かにうなずくと私にこんな物語を語ったのだった……。


私は青信号でないと絶対に渡らないことを誇りとしている人間です。どんな細い道路でも、たとえ車が一台も走ってなくても、青ならば私は絶対に立ち止まるのです。

ですが、多くの人はそうではありませんね。みな、赤でも渡れるときには渡ってしまうのです。もっとも、これらの犯罪予備軍(こう私は呼んでいるのです)もそれができないときがあります。この私が青信号で堂々と立っているときがそれです。これらの人々は、私の姿が目に入るや否や、足を止め、恨めしげな顔をしながら、信号が青になるときをじっと待つのです(まるで私に相手の動きを封じる魔術が使えるかのようではありませんか)。

さて、一週間ほど前のこと、私はこの信号機の下に立ち、道路の向こう側の信号機が青に変わるのを待っていました。そこに、ああ、彼女が道路の反対側に現れたのでした。

彼女は道路を渡らずに足を止めました。はじめ、この私を見て止まったのだろうと思いました。ですが、彼女の顔にはいら立ちも恨めしさもありませんでした。むしろ、赤信号で歩みを止めた自分に対する誇らしげな様子がありました。そうです、彼女は私と同類だったのです!

私は彼女を見つめました。道路の向こうの彼女は私の視線に気がつき、恥じらいながら下を向きました。勇を奮ってなおも見つめていると、彼女は私のほうをチラと見るではありませんか。私はそこに胸踊るものを感じました。彼女もきっとそうだったでしょう。赤信号によって私たちは隔てられていましたが、私たち二人の心の通い路は青信号だったのです!

ああ! ですが、その時、ひとりのバカが彼女の後ろから現れ、その脇を通り過ぎました。ぬけぬけと道路を渡ろうとしたのです。いつもなら睨みつけて動きを封じてやるところでしたが、恋に夢中になっていた私は気がつかなかったのです。

そして、悲劇が起きました。あろうことか、彼女はこのバカに引かれて道路を渡ってしまったのです。私というものがありながら、通りすがりの男についていくとはなんとふしだらな女でしょうか!

私はそのときから悲しみに打ちひしがれ、この信号に花を手向けるようになりました。そうせずにはいられません。私の恋心が、愚かな人間によって引き起こされた交通事故によって、亡くなったのですから……


こいつは正真正銘の赤信号だ、と私は逃げ出した。

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Harujongil

日本のシティポップは世界中にファンが多いとのことだが、なかでも、韓国の音楽界に与えた影響は大きいようだ。その結果、韓国でも、多くのすぐれたシティポップが生み出され、さらにはそのムーブメントが日本に波及して、シティポップ再評価へとつながっている。

最近、Apple Music に「韓国シティポップ」というプレイリストがあるのをみつけ、たまに聞いている。すでに知っているミュージシャンもいれば初めて知るのもある。これまで知らなかったもののうちで、とくに気に入ったのが、Soetaiji and Boys(ソテジワアイドゥル)の「In the Time Spent With You」と Jazzyfact の「Harujongil(하루종일、一日中)」だ。どちらも 80 年代のイギリスのインディーポップの感じがしてとてもよい。

「In the Time Spent With You」は 1992 年の曲で、まさにその時代の曲という感じがする。ところが、同じように 80 年代の雰囲気の濃厚な「Harujongil」は、調べると 2017 年の曲なのだ。Youtube には MV があり、250 万回近く再生されている。

私はこの曲がそんなに最近の曲であるということにどうにも納得がいかなかったので、Youtube の韓国語コメントをわからないながら見ていると、80 年代の曲のカバーである可能性が浮上してきた。

そこで原曲を聴いてみようと思い、「Harujongil」で検索したが、違う曲が出てくる。次に、Apple Music の「Harujongil」のクレジットを見ると KADOMATSU TOSHIKI とある。さらに調べてみると、Jazzyfact がこの曲を含むアルバムをリリースしたときの記事が出てきて、そこから「原曲」が角松敏生が杏里に提供した 1982 年の「Last Summer Whisper」だということがわかった。

もっとも「原曲」とカッコづけにしたのは、「Harujongil」は「Last Summer Whisper」のバッキングトラックを利用しているだけだからだ。メロディそのものはより抑えた渋いものになっている。それがとてもかっこよい。

いずれにせよ、原曲の「Last Summer Whisper」もすごいし、その雰囲気を見事に利用した「Harujongil」もすごい。また、80 年代臭をちゃんと嗅ぎだした私の鼻もすごいではないか。

苦い文学

iPhone の修理

iPhone の背面が割れてしまったので、彼は丸の内の Apple Store の予約をとった。時間ぴったりに行き、店員に見てもらうと、3 時間ほどで修理できるという。彼は携帯を預けて Apple Store を出た。

どうやって時間を潰すか。彼は丸の内は不案内だったから、電車でとりあえず秋葉原に行くことにした。東京駅に行くが、彼は Suica がないことに気がついた。iPhone に入っていたのだ。慌ててバッグを探したが、現金はまるでなかった。

そこで、彼は喫茶店にでも行こうと考え、東京駅の外に向かって歩き始めたが、すぐに現金がないことを思い出した。こうなったら、散歩でもしよう、と彼はぶらぶらと歩き出した。その日は晴れて、気温の高い日だった。

散歩をしばらくすると、彼は時間が気になってきた。もうそろそろ引き返したほうがいいかもしれない。時間を見ようと彼は iPhone を探し、ないことに気がついた。

「時計を見つけよう」 彼は歩き回って探した。しかし、どこにも時計はないのだった。そして、さまよい歩いているうちに、自分がどこにいるかわからなくなった。

彼は、地図で自分の位置を確認しようと iPhone を探したが、なかった。

困り果てた彼は、家族に電話をしようと iPhone を探したが、なかった。

喉が渇いてきたので、自販機でお茶を買おうとしたが、iPhone も現金も、なかった。

「公園なら、水が飲めるかもしれない」

彼は探し始めたが、どこにあるか見当もつかなかった。太陽はますます照りつけてくる。汗が止まらない。渇きと飢えで、彼は頭がくらくらした……そして、それきり彼は行方しれずとなった。

10 日後、彼は上野動物園の猿山の中腹で遭難しているところを救助された。

苦い文学

頂かない女子

昔、女たちはみな頂かない女子だった。そして、男たちは頂かない女子を頂く頂きおじさんだった。

頂かない女子はそれが普通だと思っていたし、頂きおじさんたちも、頂いて当然だと思っていた。そんなわけで、頂かない女子は、頂きおじさんたちにすべてを頂かれて、最後はほとんどからになって死んでいったものだった。

あるとき、頂かない女子が、頂きおじさんの命令で、何も頂かずに家事労働していると、蛇が現れてこう尋ねた。

「お前はそのまま頂かれつづけの、なにひとつ得るもののない頂かれ人生でいいのかい。お前は自分の人生のために必要なものぐらい頂こうって気にならないのかい」

「でも、どうやって頂いたらいいか分からなくってよ」と頂かない女子が言った。

蛇は木から葉っぱを一枚取ると、頂かない女子に渡した。「この葉っぱでお前の大事なところを隠しなさい。そうすれば頂くなんて簡単だよ」

頂かない女子は蛇の言う通りにした。そこに頂きおじさんがやってきた。そして、頂かない女子の大事なところが葉っぱで隠されているのを見て、大興奮して叫んだ。

「早くその葉っぱを取るんだ!」

すると頂かない女子はこういった。

「頂けるものを頂かないかぎり取りません」

そして、そのときから、頂かない女子は頂き女子になり、頂きおじさんは頂かれおじさんとなった。

さて、蛇はといえば、昔、人間は「へ」を「ふぇ」、「び」を「み」と発音した。だから、頂きおじさんだった頃を懐かしむ頂かれおじさんは、今も「フェミ」が大きらいだ。

苦い文学

コタツ記事

なんというか、最近のマスコミって、本当に取材しているのかな、って思いますね。

ネットやテレビで有名人の発言を拾って一本のニュースに仕立てる、いわゆるあの「コタツ記事」なんかそうですけど、それはそれでいいんですよ。どんなのでも記事が増えれば、その分、ページビュー数が増えるわけで、それがまさにマスコミは欲しいんですから。

でも、そのコタツ記事でもちょっとこれはイラつくなってのも多いじゃないですか。どういうのかというと、記事のタイトルにネットの声が入れてあるやつ。たとえば

《人気俳優の独特子育て論に「その発想はなかった」「もっと早く知っていればよかった!」》
《あの女子アナの私服ショットに「めちゃすてき」「本当に美人さん」と絶賛》

みたいなやつ。それで記事本文を見ると、ツイッター(現X)からと思しき一般人の称賛コメントが引用されてる。もう、記者は論評すら考えるのやめちゃった。どっからどこまで借り物で。それに、ツイッター(現X)でこんな称賛コメント書いているヤツは、ろくに考えもせず、条件反射的にコメントしてるだけの軽薄な連中なんだから、そもそも公共の声として扱っちゃダメなんですよ。

ネットを見ればそんな記事タイトルばかり、見なきゃいいっていうけども、記事のタイトルは必ず目に入ってくるから、もう避けようがないんです。ほんと、イライラしてます。

《人気芸人のコタツ記事痛烈批判に「マジ同意」「わかりみが深い」とフォロワー絶賛!》

苦い文学

ベスト・フレンドからの手紙

(異国の友人から送られてきた手紙)
早いもので、日本を飛び出してこの地にやってきてもう4ヶ月が過ぎた。ここには日本人などいないし、日本のニュースなど見ないから、日本のことを思い出すのは、両替をするときだけだ。そして、そのたびに、僕は円の下落という日本衰退の知らせを受け取るわけだ。

日本を捨てて、こんなところにまでやってきた僕の事情については知っているだろうから、話さないよ。だけど、こんな境遇にあるのに、いや、むしろこんな境遇だからこそ、ときどき日本のことを考えずにはいられないのだ。笑ってくれてけっこうだ。

いろいろと思い出すよ。日本にいたときには気にもしなかったことまでね。そんなつまらないことがふと思い出されて、気になってしょうがなくなるんだ。

それにしても、日本の高齢男性は、どうしてみんな、ポケットがたくさんついたベストを着ているのだろうか? そう、これが気になってならないんだ。ある年齢を越すと、自然と着るようになるのだろうか? 老人の体に湧き起こる得体の知れない衝動が、あのベストを激しく求めさせるのだろうか? それにしても、いったいどこであれを見つけてくるのだろうか? 店で普通に売っているのを買ってくるのだろうか、それとも、老人にだけ、どこからともなくふんわりと降りてくるのだろうか?

それに、あの無数のポケット! いったいなにが入っているのだろうか? 小銭とかガムとかだろうか? 勲章入れかもしれない、老人はみな好きだから。それで、今はポケットが勲章の代わりみたいに了解されているのだ。だが、そもそもなんの勲章だろうか……

いや、ちがう、あれはポケットではなく、体温調節のための通気孔ではないか? 環境に合わせて体温を変える爬虫類のような……こんなふうに考えていたら、つい今朝のことだ、衝撃的なことがあったのだ。

この街は、日本人がすっかり姿を消した代わりに、いまや中国人がたくさんだ。みなツアー客で、ガイド付きのバスに乗っている。

その朝、僕は広場に面したカフェでぼんやりしていたのだ。そこに中国人観光客が団体でやってきた。老夫婦が何組もいて、老人たち全員、なんとあのポケットつきのベストを着ていたのだ!

これは、いったいどういうことだろうか? 日本だけではないのだ。東アジアの高齢男性だけがベストを欲しがる奇病があるのだろうか? それとも、何かのたくらみでも……? 頭がおかしくなったと思うかも知れないが、真剣に調べようと思っている。
(この手紙ののち、友人の消息は途絶えた……)

苦い文学

ナッジナッジ!

ナッジとは、厚生労働省のサイトによれば「人間の性質や行動原理に基づき自発的に行動するきっかけを提供する手法」ということだ。ナッジ(nudge)は英語で「小突く」とか「チョンチョンする」とかという意味で、要するに「チョンと後押しすることで行動を促す」というわけだ。

このナッジの活用例でよく挙げられるのに、トイレの「いつもきれいに使っていただきありがとうございます」がある。これを見た人は「いつもきれいに使われているトイレを、自分が汚すわけにはいかない」と自発的にきれいにしようと気をつけるのだそうだ。「きれいに使用してください」とか「汚さないでください」とかよりも効果的なのだという。

さて、私の利用する駅の植え込みの上に、段ボールの切れ端が載せてあった。汚い字でこう書かれている。

「通行者の皆様、いつも 100 円置いてくださりありがとうございます」

数日後、再び通ると違う段ボールが置かれて、こうあった。

「いつも千円札を置いてくださりありがとうございます」

置く人がいたのだ! しかも第2弾で強気の金額設定をさせるほどに!

私は、ダンボールを持ち去り、駅のゴミ箱で捨てた。この段ボールの主のナッジナッジが、いつか命にまでエスカレートしないと、誰がいえよう?