苦い文学

ライブ授業

僕たちの学校に新しい先生が加わった。でも、ロン毛でぴちぴちのジーンズでちょっと変わってるんだ。「先生、どうしてそんなカッコなの」と聞くと先生はサングラスをちょっと下げて答えたんだ。

「なんでって、先生はロックミュージシャンだからさ」

「えー、先生じゃないの」

「どっちも一緒さ」

先生は言うんだ。「授業はライブだ」って。だから先生は毎日授業の前にツイッター(現X)にこんな投稿をするんだ。

ライブの告知でーす。
初めてのワンマン@2-5教室でーす。待ってるゼ!
12月18日 1−6教室 開場08:40、開演08:45 【SOLD OUT】
12月18日 2−5教室 開場09:30、開演09:35 【残席わずか、S席完売】
12月18日 1−6教室 開場09:40、開演09:45 【当日券有】

でも、授業に出席するのはいつだって同じクラスの子ばかりだ。

先生の授業はいつも楽しくて面白い。僕たちはとっても勉強が大好きになったんだ。それに先生はたのもしいんだ。いじめっ子を「お前はステージ裏の開放席行きだ!」と教室から追い出したときは、もう大喝采だった。

だけど、先生にはひとつだけイヤなところがあるんだ。それは、どんな授業の前にも先生にかならず 60 円払わなくてはならないこと。ドリンク代だっていうけど、いつも紙コップに水道の水なんだ。

苦い文学

パーカー

ある若い女性が、おじさんがパーカーを着ることに異議を唱えた。「40歳近くになってパーカーを着ているおじさんはおかしい」というのだ。

これに対して、おじさんたちは「おじさんがパーカーを着てなにが悪い。なにを着ようと自由ではないか」と猛反発をした。さらに「おじさんのパーカーはダメ」と発言した女性のもとに脅迫まがいのメッセージが届くようになった。パーカーおじさんは暇なのだ。女性は法的措置も辞さないと息巻いている。

現在のところ、この論争には決着がついていないように思えるが、私なりにパーカーおじさん論争の行方を予測してみよう。

若い女性たちとパーカーおじさんたちの対立は今後も激化するだろう。そして、若い女性たちは「パーカーを着ていいおじさんと着てはいけないおじさんがいる」と発言し、パーカーおじさんの固い結束に揺さぶりをかけるはずだ。

その結果、パーカーおじさん側の分派闘争に発展する。自分たちこそパーカーが似合うとする、「パーカー着ていいおじさん派」と、パーカーはあらゆるおじさんに開かれているとする「着るときはみんな一緒派」に分裂し、パーカーで血を洗う闘争が繰り広げられる。

そして、「パーカー着ていいおじさん派」が若い女性たちと同盟を結び、共同戦線を張ることが電撃発表される。この発表以後、パーカーを着てはいけないおじさんに対する組織的虐殺が開始される。

苦い文学

猿の手に

ネパールの日本語学校で使っているという教科書を見せてもらった。現地でネパールの日本語教師が出版したもののようだ。表紙を開くと、なにやら偉い人の写真が載っているが、ネパール語が読めないのでだれだかわからない。

教科書は分厚く、かなりの情報量だ。会話と単語と文型がびっしり詰め込まれている。日本語の後に、ネパールの文字で発音が記され、ネパール語と英語でその意味が書いてある。

パラパラと見ていた私は、「ことわざ」と書かれたページに目が止まった。日本のことわざが紹介されている。

最初は「1.てんせきこけ を しょうぜず」。発音、ネパール語訳、英訳が記してある。次は「2.ねこの て も かりたいほど だ」だ。だが、英訳はない。3つ目は「ねこにこうばん」。英訳はないが、「こうばん」は交番ではなく小判のことだろう。

そして、4つ目に「さるの て に ここのつ」とあった。

「猿の手に九つ」? 英訳もないので意味がわからない。日本語の教科書に載るようなことわざに知らないものがあったとは。

私は自分の教養のなさを恥ずかしく思い、「猿の手に九つ」をさっそく検索した。

……いろいろ調べてみてわかったのだが、本当は「猿の手にココナッツ」だった。ネパールのことわざで、意味は「猫に小判」と同じだ。

苦い文学

我が国の将来は明るい

今朝、電車に乗っていたら、急停止して、車両内の電灯が消えた。しばらくしてアナウンスがあった。

「電気の点検を要する箇所に停車したため、すべてのパンタグラフを下げています。そのため、車両内の室内灯、暖房、送風が止まっております。車両内が暗くなっております。スリや置き引きに遭われませんよう、お気をつけください」

このアナウンスを聞いて私は軽く衝撃を受けた。スリだと? 現代の日本にはスリはいない、いるのは外国だけだ、そう教えられてきたのに、スリだと? 私はてっきり、電車の遅延に困り顔の乗客をせめて楽しませようと、車掌がちょっとした冗談を言ったのだと思った。昔、ジャングル・クルーズで、存在しない「首刈族」が私たちに愉快な刺激を与えたように、いもしないスリでイタズラを仕掛けたのだ(乗り物関係者はこういうジョークが好きと見える)。

だが、携帯で調べてみると、これは車掌のおふざけなどではない、ということがわかった。ニュースによれば、最近、日本でもスリが増えているというではないか。

私はこのニュースを見て、日本の将来への不安がすっかり解消した。私たちの素晴らしい与党に日本を任せて大丈夫、と確信した。

ほとんどいないと言われていたスリを増やせた政府にとって、子どもを増やせないわけなどないのだ。それこそ赤子の手をひねるようなものだ。

苦い文学

排便なき未来

「ヒトの意識は大便によって形成された」との自説を語った博士は、聴衆に向かって、「実は、今、ヒトの意識と大便の関係が危機を迎えているのです」とさらなる驚愕の事実を明かした。

「トイレの自動水洗機能によって、私たちの大便が勝手に流されているということはお話ししました。もしトイレが今後さらに進化するとしたらどうなるでしょうか」 博士が会場を見回すと、誰かが「なくなる!」と叫んだ。

「そうです! 私たちは自分の大便をまったく見ることがなくなるでしょう。私たちが大便を見る前に、トイレが自動で流してしまうのです。しかし、と異論を唱える方もおられることでしょう。私たちには自分の大便を見る権利があるはずだ、と。例えば、健康状態を判断するのに、自分の大便を見るのは大切なことです。

「ですが、もしもトイレがそれほどまでに進化したとするならば、便を医学的に検査する機能もまた便器に備わっていると考えるのが普通ではないでしょうか。そうです、私たちは自分の大便を確認する必要すらなくなるのです。なぜなら、高度に進化したトイレは、医者と区別がつかないからです!

「となると、私たちの生活から大便というものがますます切り離されていくということになります。いずれ、大便というものを見たことがない、という新たな世代も出現するに違いありません。そんなことあるものか、とお思いになる方は、ちょっと考えてみてください。現代の私たちもまた死や血から注意深く切り離されているではありませんか。それと同じことが、大便にも生じるのです。

「さて、高度なトイレにはいったいなにが不可欠でしょうか。そうです、AI です。実はこの AI こそが、私たちと便との固い紐帯を切断する張本人なのです。AI が私たちから大便を奪う、そう言っていいでしょう。

「ヒトの意識は大便と一致する、と私は申し上げました。もしも、近い将来、私たちから、AI に大便が奪われたとしたら、いったいなにが起こるでしょうか。大便を失った私たちの意識はどのように変容するでしょうか。私にはどうも恐ろしい未来が待ち受けているようにしか思えません」

博士がこのように警鐘を鳴らして講演を締めくくったとき、会場には誰ひとり声を出すものはいなかった。便器がかくも恐ろしい企みを抱いているとは、誰も思いもしなかったのだ。だがそのとき、聴衆のひとりが急に手を上げた。博士が指名すると、質問者は立ち上がった。

「AI が私たちから大便を奪うだろうという、先生のお言葉を危機感を持って受け止めたものでございます。この流れ、まさしくトイレだけにこの流れに抗するには、私たち一般市民はどうすべきでしょうか」

博士はただこう答えた。「おまるです。おまるだけです!」

苦い文学

流す喜び

太古のヒトは気ままに排便していた。なぜなら、その精神は動物そのものであったから。やがて、ヒトは集まって暮らすようになり、それにともなって排泄物も集まり始めた。

集積した糞尿は、そのままヒトの集団の規模であった。そして、ヒトは集積した糞尿を見て、自分とその集団を確認した。糞尿のあり方がヒトの意識を決定したのだった。

やがて、肥溜めの時代が訪れた。この時代のヒトの精神は、肥溜めの糞のように、ひとつの集合意識に溶け込んでしまっていた。肥溜め意識である。

肥溜め意識の時代は長く、地域によっては現代まで続いている。しかし、いくつかの地域では、水洗式便所が大きな変化がもたらした。水洗式便所によって、ヒトは史上はじめて、自分の大便を確認できるようになったのだ。

便器の下の暗い肥溜めに大便を落としていた肥溜め時代は、自分の便を他人の便と異なるものとして認識することはできなかった。しかし、水洗式便所はそれを可能にした。これにより、大便の個別化が進み、それを通じて、ヒトは個人としての意識というものを持つようになった。

現代においては、大便の個別化はますます進んでいる。私たちが検便のさいに、他でもない自分の便を提出するのも、この個別化のあらわれである。

私たちの意識が自分のものであるように、私たちの大便もまた私たち個人のものである。ここにおいて、私たちの意識は、私たち自身の大便と一致したといえよう。

私たちが水洗式トイレのレバーを捻って大便を流すとき、そして、その行為により、目の前で大便が水流に飲み込まれていくとき、私たちはそこに自分の精神の活発な動きを見る。極めて具体的なものとして目視する。流す喜びは、私たちの心の運動の喜びである。

だからこそ、用を済ませて立ち上がったとたん、勝手に流してしまう自動式水洗トイレほど、私たちをがっかりさせるものはないのだ。

苦い文学

終活は希望

最近は終活のことばかり考えている。

私の人生はなんの価値もなく、侮蔑と嘲弄に満ちていた。だからこそ、終わりだけは、見苦しくないようにしたい、そんなふうに思ったのだ。

とはいえ、私は終活についてなにも知らなかった。人生の最後のための事前準備というが、いったいなにをすればいいのだろうか。私は、ネットで終活アドバイザーというものを見つけた。実際に相談に行くと、終活に関するごく基本的な事柄にも快く答えてくれた。具体的には次のようなことをするらしい。

・所有物の整理、不要なものの処分
・財産の整理
・葬儀と準備
・墓の建立
・遺言、家族へのメッセージ
・エンディングノートの作成

「このうち、時間がかかるのは、お墓とエンディングノートです。どんなお墓を立てたいのか、じっくり考えなくてはいけません。お墓はこの世を去った後に残されるあなたの化身なのですから。そして、エンディングノートには、この世に思い残すことがないように書けるだけ書かねばなりません。これはいわば、お客様が世界に残すメッセージなのです。お墓のご希望と、エンディングノートの内容についてお聞きいたしましょう」

私が、自分はどんな墓の下ならば納骨されたいか、エンディングノートにどんな内容を盛り込みたいか、思うところを語ると、終活アドバイザーはたちまち私の終活プランを立ててくれた。

「お墓の建立とエンディングノートの完成には、ざっと 229 年ぐらいかかりそうですね」

「229 年? それでは就活が終わる前に、私は死んでしまうではないですか」

「心配はご無用です。お客様がご存命のあいだに完成できなかったとしても、お客様の終活を別の者が引き継ぎ、さらに後に続く者たちも受け継ぎ、必ずや完成させることでしょう……」

そして、家路についた私の胸は希望に膨らんでいた。残りの人生を壮大な終活のために捧げよう、と決意したのだ。

苦い文学

背広の日

日本語を教えている平助に背広を着用せよとの命令が下された。学校が催す式典に、留学生とともに出席せよ、というのだ。

平助は背広を着ないように生きてきたので、窮屈な思いをするのは正直なところイヤだったが、しょうがない。その朝、クローゼットの奥からシワだらけの背広を引っ張り出し、ぶつぶつ罵りながら身につけ、慣れないネクタイを締めた。

学校に向かう平助の手には大きなバッグがあった。その中にはいつものシャツとチノパンの着替えが入っていた。式典が終わったら、ただちに背広を脱ぎ捨てて、着替えるつもりだったのだ。こんなもの一瞬たりとも着ていたくない……平助はそれほどまでに、背広を憎んでいた。

なぜこんなみっともないものを着なければならないのか。なんでこんなカバンをわざわざ持っていかねばならないのか。考えるだに腹が立ってきた。すべて背広が悪いのだ。

学校に着くと、すでに数名の留学生がいた。学生たちも式典に参加するので皆、背広姿だ。学生たちは平助を見ると「おはようございます、先生」と挨拶した。

平助も「おはよう」と不機嫌な顔で答える。すると、学生のひとりが言った。

「先生、今日はハンサムみたい」

その日一日中、平助は背広のままで過ごした。着替えにはさわりもしなかった。

苦い文学

飛ぶゴミ

飛行機に搭乗するとは、なんと素敵な体験だろうか。私たちは飛行機に乗り込むときは希望でいっぱいだ。この素晴らしい機内で何をしようか、何を楽しもうか、プランでいっぱいなのだ。

映画を見よう、本を読もう、寝溜めしよう、いや、ちょっとした仕事を片付けるか……飛行機に乗っている時間というのは、究極のスキマ時間のようなもので、私たちは機内に広がる広々とした時間に胸をときめかせるのだ。

そして、私たちは乗り込むやいなや、思い思いのプロジェクトに取りかかる。本を広げたり、パソコンを取り出したり、ヘッドホンを装着したり、じつに気持ちのいいブランケットにくるまったり……だが、私たちはやがて気がつく。シートの座り心地があまり良くないことに。前の人が座席を倒してくると、パソコンなど開けないことにも。本を読もうと思っても、すぐに機内は暗くなることにも……そして、実際に機内にいる私たちにできることといえば、寝て、飲み食いして、排泄することだけなのだ。

私たちが飛行機に乗り込んだとき、座席の前のポケットには美しいPR誌ときらびやかなカタログと、私たちの思い思いの本やら何かでパンパンだった。だが、今やそこに詰まっているのは、ゴミだけだ。

私たちはまた、機内がそれほどキレイでないことにも気がつく。自分の座席の前のポケットがゴミだらけで、足元が食いカスだらけだったとしたら、他の人の座席もそうでないという保証はどこにあろうか? 

あれほどやさしく見えたブランケットも、もうくしゃくしゃで、はじの部分は通路にだらりと広がって、トイレに行き来する乗客たちの靴がいくども踏みつけていく。

それにしても、乗客たちはどれだけトイレに行けば気がすむのだろうか。機内に設置された使用中のランプはいつだって煌々と赤く灯り、いたずらに便意を刺激するばかりだ。飛行機とは燃料が減る分だけ、糞と尿でいっぱいになっていく乗り物なのだ。

私たちはここでようやく気がつく、飛行機は大きなゴミだったのだ。

そんなわけだからこそ、飛行機が着陸すると、私たちはまだ機内が暗いうちから席を立ち、荷物を引きずり下ろし、通路に押し合いへし合いして並ぶのだ。心の中に浮かぶこんな想念にせき立てられてもう我を忘れてしまうのだ。

《一刻も早くこの汚い乗り物から出なくては。もし、出遅れたら、ゴミと一緒に捨てられる!》

苦い文学

ぽい捨て禁止

おい、そこのお前、ゴミを捨てちゃダメだろうが! 外せ外せ! イヤホンを。聞こえないふりするんじゃないよ。ゴミを捨てちゃダメだって言ってんの。

え? 「燃えるゴミ」って書いてあるって? そういう問題じゃないの。これだからバカは困る。その下を見てみろよ。なんて書いてある?

「ぽい捨て禁止」? だから、ちゃんとゴミ箱に捨てたじゃないかって? どうしようもないバカだよ、お前は。ろくに日本語も読めないのか。どういう教育受けてきたんだ。それとも外人か? よくみろよ、「ぽい捨て禁止」じゃないの、「っぽい捨て禁止」! 小さい「つ」が読めないんだから、呆れたね。

お前、音楽聴きながら歩いてたろ、なんだか知らねえが、どうせくだらねえ音楽だろ、リズムとりながら、みっともねえ。それでゴミ捨てる時、俺はちゃあんと見たんだよ。

ミュージシャンっぽい捨てしてた! まるで街中で撮影されたMVのワンシーンっぽい捨てしてた。このバカ野郎。さあ、お前はルールを破ったんだから罰金だ。見ろよ、「っぽい捨て禁止」の下に罰金5万円って書いてあるだろ。

さあ、払え。じゃなきゃお前を通報するぞ! え? なんの権利があって、だと? あのな、ここは俺の土地なの。俺がルールなの。そう警察からも許可取ってんの。だから、つべこべ言わず、5万円払いなさい。

なんだ? お前、その目は? そのゴミを、俺を疑ってるっぽい捨てした! ほんとだぞ! ほら、証明書だってある。あっ、待て、待て、引っ張るな! 俺のカバン! 俺の財布! ダメだ! 怒りっぽい捨てするな! やめろ! みんなが見てるっぽい捨てだぞ。とんだ荒っぽい捨てだ!

わかった、わかった。謝る。その笑いは? あっ、俺のカバンを丸ごと! おい、いたずらっぽい捨てするな!

はっ、どうやら覚悟を決めたっぽい捨てじゃないか。まさか、この俺を殺す気っぽい捨てでは……