苦い文学

神様

エリ・ヴィーゼルは、自伝的小説『夜』で、少年のころのアウシュビッツ収容所での経験を記している。ユダヤ人に対するさまざまな残虐行為が記録されているが、なかでも男の子が絞首刑に処される一節はとりわけ印象深く、よく知られたものだ。

その男の子は、ヴィーゼルたちの目の前で、ふたりの大人と一緒に絞首刑にされるのだ。大人たちはすぐに絶命したが、子どもは体重が軽いため 30 分以上も死ねなかった。

苦しむ子どもを目の当たりにして、「私(ヴィーゼル)」の後ろで男が尋ねる。


 「いったい、神はどこにおられるのだ。」
 そして私は心のなかで、ある声がその男にこう答えているのを感じた。
 「どこだって。ここにおられる——ここに、この絞首台に吊るされておられる……。」
            ヴィーゼル『夜』(みすず書房)


ところで、最近の日本では、飲食店での客のふるまいが問題になっている。店に対する横暴な要求、いわゆるカスタマーハラスメントをめぐって、「お客様は神様です」という考え方についても議論がされている。

議論の内容以前に、私がいつも気になるのは、ここでいう神様とはいったいなんの神のことか、ということだ。なにしろいろいろな神がいるから。神様によっては、私たち客は、店長に吊るされかねないのだ……。

苦い文学

退去強制

外国人だと間違われた日本人が入管に収容されたという、信じがたいニュースを聞いた。

吉田というその男性は、職務質問で外国人だと決めつけられ、不法滞在者として入管に連行されたのだという。吉田さんは免許証や身分証などを見せて日本人であることを訴えたが、偽造だと一蹴され、粛々と手続きが進んだ結果、とうとう退去強制令書が出されたのだという。

しかし、日本人をどこに強制送還できようか。そんなわけで彼は入管の収容所に移されたのだという。

だが、さらに驚くべきは、入管収容所には、吉田さんのほかにもたくさんの日本人がいたということだ。

それらの日本人たちは、入管の職員をはばかって、チャンとかミンとかアリとかヤンとか互いに呼び合っていたのだが、吉田さんが日本人だと知ると、本当の名前をこっそり教えてくれたのだそうだ。

さて、吉田さんは、幸運にも入管から出ることができた。その窮状を知った知人が方々に働きかけてくれたのが功を奏したのだという。

今回の出来事について、ニュースでは弁護士はこう指摘していた。

「日本人を外国人だといって、外国人にのみ出される退去強制令書を使って日本から排除しようとするケースがたびたび起こっています。これは退去強制令書が悪用されているといっていいでしょう。このような悪用がなくなるように、日本人を面倒な手続きなしにそのまま国外退去処分できるような枠組みを作るべきです」

苦い文学

命を守る

その人が颯爽と現れたとき、私たちはついに新しい時代の幕が開いたと感じたものだった。その人は私たちにこう約束したのだった。

「私はみなさんの命を守ります。暮らしを守ります。そして、この国を守ります」

私たちの国はといえば敵ばかりで、私たちの命はまさに脅かされていたのだ。私たちはその人に全面的な信頼を寄せ、自分たちの命と暮らしと国が守れるよう国民の先頭に立ってほしい、と要請したのだった。

そして、ついにその人の時代が訪れた。私たちにとって、その人と同じ空気を吸い、同じ国土をともに歩むことは、なんという誇りであったことだろうか。その時代は30年もの長きにわたり、その人が凶弾に倒れるまで続いたのであった。

その人がこの世界を去ったとき、私たちは改めて感嘆した。「あの人は約束どおり、私たちの命と暮らしと国を完璧に守りとおした!」と。

私たちの命の扱いも、暮らしの程度も、国の在り方も、まったく30年前の姿そのままに守られたのだった。

現在、すっかり痩せ細ってしまった私たちは、ときどき伝わってくる外国の豊かで楽しげな生活を見ながら「守るよりも、ノビノビさせるほうが大事だったのでは?」などと考えている。

苦い文学

薬局の神託

ソクラテスは、毒薬の入った杯を飲むとき、周りの者に医神アスクレピオスに鶏を奉納するようにと語ったそうだ。私は薬局に行くといつもこのことを思い出す。

とはいえ、薬局といっても、処方箋を出せば数分で終わる迅速に薬の出る薬局のことではない。薬が出てくるまでやたらと時間のかかる薬局のことだ。

こうした薬局では、処方箋と引き換えに受付票が渡され、それから呼び出されるまで、少なくとも1時間だ。いやもっとかかる。閉店までに間に合わなくて、翌日にまでかかることもある。

そんなに薬を揃えるのが大変なのだろうか。あるいは、大きな薬局の薬剤師はがんばり屋で、いつも薬の入った箱を何段にも抱えて走り回っているせいで、前が見えなくて、他の薬剤師とぶつかって薬をぶちまけてしまう、ということでもあるのだろうか。

それとも、膨大な薬を収蔵する薬保管室がもうまるで迷宮のようで、一度薬を取りに入ったが最後、二度と出てくることができないのだろうか。それか、大きな薬局は、待つことが自然治癒力と免疫力を高めるという、独自のセルフメディケーションを提供しているのであろうか。

まったく見当もつかないが、薬局でひとり何時間も待たされる私は、これはきっと、お前にはつける薬もなく、匙も投げたぞ、というアスクレピオスからのメッセージではないかという気がしてきて、毒薬をあおりたくなるのだ。

もっとも、その毒薬を出してもらうのにも、そうとう待たねばならないのだが……

苦い文学

記憶とは何か

私たちは自分が寝ていることを覚えているでしょうか。なるほど、寝た、という記憶はおそらく誰にもあるにちがいないでしょう。ですが、寝ている、という記憶はないのではないでしょうか。

寝た、という記憶とは、つまり、私たちが「寝た」という覚醒後の印象についての記憶です。私たちはこの「寝た」と感じた記憶から、それ以前に「寝ていた時間」の存在したことを推論しているのです。ですから、これは寝ている間そのものの記憶ではないのです。

では、その「寝ている記憶」はどうでしょうか。山を登っているとき、私たちは少しずつ山道を登り、少しずつ疲労を感じ、そしてときどき目にする素晴らしい風景にその疲れが吹き飛ぶのを感じます。このプロセスは登山から帰宅した後になっても「登っている間そのものの記憶」として私たちの心の中に残っています。

ところが「寝ている記憶」はこのような「登っている記憶」とはまったく異なるのです。私たちにはプロセスとしての「寝ている記憶」は存在しないのです。

ですから、私はこの国会の場で堂々とお答えするつもりであります。私が審議中に寝ていたかという質問ですが、この件に関してましては、まったく記憶にございません。(「寝ぼけたこと言うな!」というヤジ)

苦い文学

天使の迷惑

混み合う山手線に乗って運ばれてきた男は、池袋で降りるとき、後ろから誰かに強く小突かれたような気がした。ムッとして振り向くと、小柄な女がカバンを盾のようにして彼を押し出そうとしているのだった。

それから、ホームから雪崩のように階段を降りていく人々のなかで、彼はまた誰かに背中を押されたような気がした。サッと後ろを見ると、若く高慢そうなサラリーマンの傘の先が当たったことがわかった。

自動改札口を通過するときも、背後から押されたので、チラと見ると、中年の男が不機嫌そうな顔つきで睨んでいた。また、東武東上線の改札口までのごった返しの中で、これみよがしに刺青を入れた男に彼は背中をどやされた。

そして、東武東上線のホームに降りていく階段で、彼は後ろから誰かに突き飛ばされた。バランスを崩し、倒れまいと身を捩ったその瞬間、彼の目は醜い老人を捉えた。階段を転がり落ち、床面に打ち付けられた頭からは血が流れ出た。すると、光り輝く存在が幻のような翼を広げ、彼の前に降り立った。その存在は告げた。

「男よ、今朝、お前を鞄で押した女は、なにをかくそうこの私だ。傘でつついた若者も私だ。イラついている中年男性も、お前の背後をおびやかした刺青男も、お前を階段から突き落とした老人も、じつはこの私だったのだ」

「天使さま」と男はまばゆさに目を細めながら言った。「事情はわかりませんが、やめてもらえませんか、迷惑なので……」

苦い文学

天国行きのチケット

私たちの神は、旧約聖書の神よりもはるかに優れている。私たちは、この神が私たちの民のことを最優先に考えてくださるということをとても誇りに思っているのだ。

とはいえ、私たちの神は、自分を裏切る者、謗る者、逆らう者にはとてもとても厳しい。旧約聖書の神などお話ならないくらい容赦ないのだ。刃のような残酷な言葉で斬りつけ、雷のごときパワハラで追い詰め、必ず滅ぼさずにはいない。

神は信じる者のためだけに天国を用意してくださった。神に従い、神を裏切らなかった者だけがそこに行けるのだ。だが、裏切り者に対して神はこう言われる。

「天国への出入りをとこしえに禁ずる」

おお、私たちはどんなに天国を乞い願い、すがりついたことだろうか。

「どうか、どうか、私たちを天国に入れてください。そこに建設されるいくつもの壮麗な建物や、この世のものとは思えない木造建築物を見たいのです」

私たちはこの神にすべてを捧げた。財産のある者は財産を。力のある者は労力を。そしてなにもない者はボランティアとして。命も人間の尊厳も税金もすべて巻き上げられた……そして、ついに神は私たちの願いを聞き入れ、こう約束してくれた。

「喜べ。お前たちは天国に行けるだろう」

そして、しばらくして大阪万博のチケットが送られてきた。

苦い文学

未来の教材

日本語教師をしている友人がこんなことを言った。


日本の社会が急激に変化しているのか、それとも日本語教科書の著者の考えが古臭いのか、わからないのだけどね。日本語のテキストはどうにも時代遅れで、使う側が恥ずかしくなるようなものもあるんだ。

たとえば、男女の会話がよく出てくるんだけど、そこでは、海とかデートとか、遊びに連れていってくれとせがむのはきまって女性で、仕事で忙しいからといって断るのはきまって男性なんだ。

けっして古い教科書じゃないんだ。今でも普通に使ってるやつだ。しかも同じことは他の教材にだってある。ようするに、教科書が時代の変化に追いついてないってことだ。それは仕方がない部分もあるのかもしれないけど、「男は働き女は遊ぶ」というような偏見を教える身にもなってほしいんだよね。

それで、もしけっして古びない教科書があったらどうだろうかと考えたんだ。遠い未来の進んだ世界、誰もが自分らしく生きられるようなユートピアで、平等で公平な日本語会話が繰り広げられるんだ。そんな未来の教材だったら、これからさき何十年も、いや何百年も時代遅れになることなどないだろう?


熱意ある友人はさっそくこの「未来の日本語教科書」の実現に向けて動き出した。だが、そう遠くない将来、日本語話者がゼロになるらしいということで、計画は頓挫した。

苦い文学

コロンブス

最近のニュースといえば、日本の人気バンドが、ミュージックビデオでコロンブスを取り上げて、大炎上したことだろう。

良識ある人々はみんな批判したし、良識のない人々も真似する良識はもっていたのでやっぱり批判した。そんなわけでミュージックビデオも削除されたし、タイアップもなくなり、音楽番組の出演も無くなった。

私はこの問題に詳しくないが、やはり批判されて当然だと思う。今の時代は、どんな酷いことでも平気で許された無神経な時代とは違う。さまざまな人の立場や気持ちを尊重しなくてはならない。

だから、コロンブスを持ち出すときも、バンドもミュージックビデオの製作者も、このビデオを見るさまざまな人々に想いを馳せ、想像力を働かせるべきだったのだ。

いったい、いきなり面と向かってブスと言われたら、どう思うだろうか? この言葉はルッキズムを助長するのではないだろうか? ブスなどという言葉の代わりに「個性豊かな」を用いるべきでは?

当時はコロンブスだったかもしれないが、現在の目から見れば、むしろコロン美人であるという可能性はないか? それにあの「ドブスを守る会」が抗議文を送ってきたらどう対応する?……などなど配慮すべき点はもう数えきれない。

「こんな難しいことできるか」とか「息苦しい時代になった」とか、そんなふうに投げ出すのはたやすい。だがむしろ、難しいからこそ、新たな表現のチャレンジへと立ち向かうのだ。これからのクリエイターに必要なのはそんな覚悟ではないだろうか。

苦い文学

ガムのマラソン

私たちの街で今年はじめてエコ・マラソンが開催されることになった。エコな地球を応援する趣旨ではじまったイベントだ。

サステナブルな上に珍しい試みとあって、日本中からエントリーがあり、何万人ものランナーがこの日、私たちの街に集った。

出発地点である大通りに集まったランナーたちは、ガムを1枚渡されると、ヨーイドンのかけ声とともに、口に放り入れた。

走りながら噛んでいると味がなくなってくる。ランナーたちは口からガムを出し、包み紙に包む。このガムのゴミを手に持ちながら走るのが、このエコ・マラソンのルールだ。捨てたりしたら失格なのだ。

しばらく行くと、給水所がある。ランナーたちは水を受け取り、渇きを癒す。給水所にはゴミ箱があり、うっかりガムを捨ててしまうものがいる。これでもう失格だ。こんなふうにコースのあちこちにトラップが仕掛けられている。このマラソンでは、走る速さや持久力ではなく、長時間ゴミを持ち続ける忍耐力と勇気が試されるのだ。

エコ・マラソンのコースは複雑だ。道路では、側溝の蓋がちょうどいい具合に開いていて、かっこうのポイ捨てポイントに見える。また、駅の構内もコースになっていて、その中を走っていると「駅には絶対にゴミ箱なんかないのだから、もうその辺りに捨ててやれ」という気分にさせられる。

また、コースはドブの匂い立ち込める貧民街や、蠅のうるさいゴミ屋敷を通り、ランナーを「ここならいいか」という気にさせずにはおれない。そして、高い壁に囲まれたヤクザの組長の家の前では、「ゴミ野郎め」とガムを放り投げるランナーが続出した。

コースは、山道や森の中や渓流沿いにも設定されていた。もうゴミ捨てにうってつけで、そこで失格となるランナーの多さときたら、SDGsの採択も無駄だと思わせるほどだった。

しかし、エコ・マラソンの最大の難所といえば、太陽の照りつける最後の坂道だ。「ただでさえ登りと暑さできついのに、ゴミなど持っていられない」とランナーはどんどん脱落し、そこで太陽が引き起こした恐ろしい事態に巻き込まれていった。

捨てられたガムが太陽熱でとろけ、恐るべき粘着力でもってランナーたちを捉えはじめたのだ。ガムに足を取られたが最後、もう一歩も進めない。そして、もがけばもがくほど大量のガムに絡め取られていき、ついには身動きが取れなくなった。

この難所を抜けてゴールのあるスタジアムにまでやってこれたのは2人のランナーだけだった。私たちは、目の前で繰り広げられるデッドヒートに大いに熱狂し、声をからすほどに叫んだ。そして、この熱狂は、追う立場にあった2番手がゴール直前で相手を追い抜き、そのまま逃げ切ったときに最高潮に達した。

「最後の最後で逆転した!」「彼が優勝だ!」「ヒーローだ!」

大会委員長が表彰式で、この優勝者の首にメダルをかけようとしたとき、私たち全員は、表彰台に立っているのが、人の形をしたガムの塊であることに気がついた。