旅・観察

ベルベル語への旅(3)

ガベスの夜。ラマダーンのため日中は静かに過ごしていた人々が、日没と同時に食事をし、外に繰り出している。そんな夜の 10 時すぎ、私は、2 人のベルベル人とカフェにいた。ひとりはホテルに挨拶に来てくれた N さん。もうひとりはその友人、医師だ。

「ラマダーンの時期は、救急が増えるんだよ。急に夜たくさん食べるからね」と、医師らしいコメント。そんな時期に私に時間を割いてくれた 2 人には感謝しかない。

2 人ともベルベル語は話せなかったが、チュニジアのベルベル社会についていろいろと教えてくれた。アルジェリアやモロッコでは、ベルベル語による放送、出版、教育が行われているが、チュニジアでは人口が少ないためそうしたものがない。あるいは、ベルベル語は基本的に家でしか使わない。こうしたことは私も知っていたが、政治に関わる話は興味深かった。

ベルベル人の政治活動は禁止されてはいないが、ベルベルを旗印にした政党は結成できないのだという。

「チュニジアの国民を分断してしまうからね」

つまり、チュニジアにはアラブ人もベルベル人もいない。チュニジア人だけがいる。そういうイメージだ。

もうひとつ、重要な話を聞いた。8 月のベルベル・フェスティバルだ。

「ベルベル人の若い人はみんな、チュニスや外国で働いているんだけれど、夏休みだけは故郷に帰ってくる。だから、8 月にはベルベルの伝統を確認するイベントをするんだ。それだけじゃなくて、この時期は結婚式のシーズンでもある。だから、ベルベル語について調べたいなら、8 月がいいよ」

「じゃあ、今は?」

「他の時期は老人と子どもしかいないよ。それにラマダーン中だから、昼間はみんな家から出てこない。バスもないよ」

私はがっかりしたが、それでも N さんは「明日は車で遠出しよう」と提案してくれた。

(写真:ガベスの街)

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ベルベル語への旅(2)

3 月 22 日の朝、私はチュニスからガベスに行く列車に乗った。遅れがあったり、途中で別の列車に移らされたりで、8 時間以上かかったと思う。

この列車の旅は、3 つの点で大変だった。ひとつは指定席を買ったのに、その席に人が座っていて、いくら言っても知らんぷりされたこと。しかし、1 時間ほどすると車掌が検札にきて、座らせてくれた。2 つめはトイレが汚くて使えなかったこと。そして、3 つめはラマダーン中だったことだ。

ラマダーンのあいだ、日中は食事ができない。私のような外国人は断食しなくてもいいが、大っぴらに飲み食いするのは気が引ける。そんなわけで列車の中では最低限の水しか飲まなかったが、そのおかげでトイレに行かずに頑張ることができた。

しかし、ガベスに着き、ホテルにチェックインしたときにはもうクタクタだった。朝から考えると、14 時間、ほとんど飲まず食わず、トイレにも行かずに過ごしたことになる。ホテルの一室で、隠れるようにポテトチップスを貪り食っていると、電話がかかってきた。チュニスの友人が紹介してくれた人がやってきたのだ。

ホテルのロビーに降りると、キャップとサングラスの男性が立っていた。

「ベルベル語について調べたいんだってな」と彼は英語で言って、手を差し出した。「さあ、我々のアドベンチャーの始まりだ」

大袈裟な言葉のように思えたが、旅を終えてみると、まさしくそうだった。もっとも、危険なことなどなにひとつなかったが。

(写真:ガベスに向かう列車の中)

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ベルベル語への旅(1)

私は、いつかチュニジアのベルベル語話者にベルベル語を教わりたいと思っていた。だが、それはなかなか難しかった。チュニジアのベルベル語話者は非常に少なく、チュニスのどこかで偶然出会えるとも思えなかったし、知り合いを辿ってもつながりはなかった。

もっとも、それはベルベル語話者がいなかったということであって、ベルベル人がいなかったということではない。一時期お世話になった人に、先祖がベルベル人だという人がいた。彼は自分の顔を指した。「アラブ人とは違うだろ」

私にはその違いはよくわからなかった。だが、チュニジアには、彼のようにベルベルのルーツを忘れずにいる家族がたくさんいることと思う。それは重要なことで、私にも非常に興味深かったが、ベルベル語を学ぶことにはつながらなかった。

その後、私はチュニスである女性と知り合い、アラビア語を教わる機会を得た。聞けば、彼女もベルベル系の家族の出で、今も南部に一族が暮らしているという。彼女自身はアラビア語しか話せないが、母はベルベル語も話せるとのことだった。

彼女はとても親切な人で、私がチュニジア南部に関心を持っていると知ると、ガベスにいる知人を紹介してくれた。その知人を頼って私がチュニスを出発したのは、2024 年 3 月 22 日のことだった。

(写真:ガベスにある魚のモニュメント)

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チュニジアのベルベル語(5)

近代以降のチュニジアで、ベルベル語の使用が記録されている場所は 4 カ所ある。そのうちのひとつでは、すでに話者がいないとされている。タターウィーンとジェルバは、最近も文献が出ていることから、話者がいることは間違いない。

問題は (b) のガベス西部のマトマータだ。ここにはズラーワ、ターウジュート、タマズラットの 3 つの村があるが、目につくのは 1900 年にドイツで出版されたタマズラットの古い研究ぐらいだ。そのせいか「現在も話者がいるかは不明」などと言われるほどだ。

本当に話者はいないのだろうか?

もちろん、いる。ただ、研究が乏しいか、あっても入手しにくいせいで、あまり知られていないだけのようだ。

ネットを探せば、タマズラットの例文集と語彙集が見つかる。タマズラット出身のベルベル語話者がまとめたものだ。

それに、私自身、2024 年 3 月にマトマータに行ったとき、ベルベル語を話す老人に出会った。もっとも、その人がどこの出身かは聞きそびれた。

そして、2025 年 3 月、私はチュニスでひとりのベルベル人の男性を紹介された。その人は 3 つの村のひとつ、ターウジュートの出身で、私はこの出会いをきっかけに、ようやくチュニジアのベルベル語の世界に足を踏み入れることができたのであった。そのいきさつについては、別のタイトルで書くつもりだ。

(写真:タマズラットの表示。2024 年 3 月撮影)

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チュニジアのベルベル語(4)

ベルベル語の本を手に入れた話のついでにいえば、チュニジアのベルベル語は (a) のガフサ東部では消滅したと考えられている。2 つのベルベル村があり、そのうちのひとつ、セネッドのベルベル語の文法書が 1911 年に出版されている(正式な書名は “Étude sur la Tamazir’t ou Zenatia de Qalât es-Sened”)。著者は Provotelle というフランス人だ。分厚い文法書ではないが、この地域のベルベル語の実態を伝える、ほとんど唯一の文献かもしれない。

私がこの本を手に入れたのも、チュニスの本屋だった。もう 20 年前のことだ。新刊と古書を売っている本屋で、チュニジアで刊行されたフランス語の本が並ぶコーナーで見つけたのだった。製本も緩くなっていて、すぐにもバラバラになりそうだった。もしかしたら 1911 年から買い手を待っていた可能性だってある。私はためらうことなく購入した。そして、その本は私の書架のどこかでさらに長く待たされることとなった。

だが、昨年のこと、その本が急に引っ張り出された。なぜなら、私は運よく、チュニジアのベルベル語を学ぶ機会を手に入れたからだ。この「運よく」を説明するには、まだ触れていなかった (b) のガベス西部マトマータのベルベル語の話に戻らねばならない。

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チュニジアのベルベル語(3)

(d) のジェルバ島は、古代から名の知られた場所で、現在も夏になると観光客でいっぱいだ。私は昔、バスツアーで数時間立ち寄ったことがあるだけだ。また、2023 年の夏に、急にジェルバ行きを思い立って、チュニスの旅行代理店に駆け込んだら、ハイシーズンで航空券はなかった。どうせ、ホテルもレストランもお高いんでしょ、と諦めた。

そんなわけで、私にジェルバでの見聞はないに等しいが、一般には、チュニジアの中でも独自の文化をもつ土地として知られている。ベルベル人がいて、ベルベル語がまだ使われているということだけでなく、ユダヤ人のコミュニティも古くからある。また、あるチュニジア人作家は、ジェルバ人は見栄っ張りなので客間だけを豪華にする、などという話を愉快そうに語っている。

ヨーロッパでもよく知られた観光地なので、ジェルバのベルベル語はチュニジアの他の地域よりも関心を集めてきた。本格的な文法書はないが、論文はそれなりにある。最近でも、ジェルバのガッラーラのベルベル語で物語を記録した本が出版されている(しかも YouTube で音声も聞ける)。

私がこの本を手に入れたのは、チュニスのバルシャローナ広場前の本屋だ。チュニジアのアラビア語方言の本を探していると言ったら、「面白い本があるぞ」と、店主が勧めてくれたのだ。ベルベル語を調べ始める前のことだったが、こういうものは、その時に買わなければ、次に手に入るかどうかわからない。

(写真:ジェルバのベルベル語の物語集の表紙から。上から順にアラビア文字表記ベルベル語、アラビア語、ティフィナグ文字表記ベルベル語)

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チュニジアのベルベル語(2)

チュニジアのベルベル語話者数は正確には不明だ。人口の 1 %にあたる 12 万人とする説もあるが、新しい研究では、その半分ぐらいだとされている。6 万人としても少ないが、もうひとつ重要なのは、チュニジアのベルベル語は、ひとつの言語ではないということだ。いくつもの変種があるため、個々の話者数はもっと少なくなる。

チュニジアのベルベル語は、南部のいくつかの小地域にのみ残っている。だいたい以下の 4 つの地域に分けられる。ガフサ、ガベス、タターウィーンはいずれも南部の都市で、ジェルバ島は有名な観光地だ。

(a) ガフサ東部(トゥマーグルト、セネッドの 2 つの村)
(b) ガベス西部のマトマータ(ズラーワ、ターウジュート、タマズラットの 3 つの村)
(c) タターウィーン(シュニンニー、ドゥウィーラートの 2 つの村)
(d) ジェルバ島(6 つの村)

このうち (a) のベルベル語はすでに消滅してしまったといわれている。もっとも、私自身で確かめたわけではないので、断言はできない。いずれにしろ、現在、ベルベル語が使われているのは (b) 〜 (d) ということになる。(c) のタターウィーンのベルベル語話者は、先行研究を見るかぎり、数百人規模のようだ。私自身、2024 年の 2 月、現地の友人とシュニンニーとドゥウィーラートを旅したとき、ひとりのベルベル語話者に出会ったことがある。

(写真はシュニンニー・ドゥウィーラート間の風景。2024 年 2 月撮影)

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チュニジアのベルベル語(1)

ベルベル語は北アフリカを中心にサハラ砂漠に広がる地域で話されている言語グループだ。使用領域が広大で、交流も限定的なため、各地のベルベル語は独自の発展を遂げてきた。なので、ひとつの言語というよりも、ゆるやかにつながる大きな言語グループといったほうがいい。

もともと北アフリカはベルベル語話者の地域であった。とはいえ、地中海沿岸はフェニキア、ギリシア、ローマと古くから文明が発達した地域だったから、ベルベル人たちはさまざまな民族からの影響を強く受けてきた。

「ベルベル語」というのも、ギリシア語の「バルバロイ」に由来するという。この語は「言葉のわからない野蛮人」のような意味があるため、各地のベルベル人たちはそれぞれもっとふさわしい名称を使用している。

ベルベル人の社会を大きく変えることになったのは、7 世紀のアラブ人の到来と、それにともなうイスラームの受容だ。アラビア語話者であるアラブ人が北アフリカに定住するようになり、アラビア語の使用も広がっていった。アラビア語は、ベルベル語に比べて宗教的にも、文化的にも、経済的にも優位であったから、各地のベルベル人もアラビア語を話すようになり、ベルベル語は徐々に使用領域を減らしていった。

この過程は現在も進行中であるが、さいわいにもモロッコやアルジェリアではまだ大きなベルベル語社会が存続している。また、この 2 つの国ではベルベル語の地位の向上も進み、それぞれのベルベル語が活発に使用されるようになっている。

もっとも、アラブ化が進んだ結果、すでに消滅したベルベル語も多い。また今現在でも、話者数が減少しているベルベル語使用地域もある。そうした地域のひとつが、チュニジアの南部だ。

(写真はチュニジア南部の都市、ガベスの日の出)

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ドイツの移民

Sushi Bar についてこの前書いたが、この異国風寿司屋以上に、ベルリンの街角に溢れているのがケバブ屋で、3 軒くらい並んでいたりする。これらはトルコからの移民が経営しているものと思われる。タイ料理もあるし、インド、ネパール料理もある。夜、街を歩いていて餃子のようなものを出す店があったので、食べてみた。おいしかったが、どこの国の料理かわからなかったので、会計時に尋ねると、お店の女性が「私はチェチェンだ」と誇らしげに答えた。チェチェンを含むコーカサス料理ということだった。

また、街を歩いていると、たくさんの中東系、アジア系の人を見かけた。Uber Eats の自転車で走り回っているのは南アジア系の人のようだった。駅のベンチに座っていると、作業着を着た髭の男性がアラビア語で電話していた。ドイツはシリア難民をたくさん受け入れたことでも知られ、ベルリンにはシリアの人々が住んでいる地区もあるそうだ。

短い滞在の私にはわからなかったが、ドイツではこうした移民に対する反発が高まっているそうだ。これが結局、極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」の躍進につながった。そのため、ドイツ政府も、AfD への対応策として、今年「移民政策の厳格化」を打ち出さざるをえなくなったという。

さて、9 月にドイツに滞在しているあいだ、こんなふうに私は多少は移民のことについて考えさせられはしたものの、自分にはあまり関係のないことのようにも思っていた。だが、まんざらそうでもなかった。

ポツダムの街を歩いているとき、日本のビルマ人から電話がかかってきたのだった。その人は要件のついでに、私がかつて身元保証人をしていたビルマ人の話をしたが、その人は難民と認められず結局帰国したのだった。2021 年の軍のクーデターの前だった。

「それから彼は、なんとかしてビルマを出ようと、ブローカーを使って、トルコに出稼ぎに行ったのです。それで、トルコからドイツに行って難民申請しようとしたのですが、ドイツが厳しくなったので無理だということがわかって……トルコのビザがもうすぐ切れるそうなのですが……大変です!」

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本場の寿司

江戸前寿司というように、寿司の本場といえば江都東京だ。そんなふうに思っていた私だったが、今回、ドイツ、ベルリンに行ってみて、この考えを改めざるをえなくなった。

なにしろあらゆる街角に Sushi Bar という寿司屋があるのだ。私はドイツの民の寿司を愛する気持ちに打たれた。そして、異国のただなかで、Sushi Bar の経営に奮闘し、寿司の伝統とワザを受け継ぎ、ただ人々を喜ばせたいがために、素晴らしい寿司をフォーと一緒に提供しているベトナムの民にも敬意を表せずにはいられなかった。

ひるがえって東京の寿司を見れば、若者の米離れ、それに追い打ちをかける米の高騰、恒常的な不漁とワシントン条約、そしてなによりも我々の財布の中身の乏しさにより、江戸前は衰退の一途を辿るばかりだ。ドイツのほうがはるかに物価が高く豊かな国であることを考えると、寿司に消費する金額はドイツの方が上ではないだろうか。いや、たとえ今そうでなくても、そうなるのは時間の問題なのだ。

こうなると、もはや寿司の本場はベルリンとすべきではないか。私たち東京人はそう認めるのにいささかの躊躇も感じない。寿司を心から愛する私たちはむしろ寿司のためにこれを喜びたい。それに、寿司を失っても、東京はなお、とんこつラーメンとお好み焼きの本場であることは変わらないのだ。