旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その10)

《仮放免手続きについて(1)》
 仮放免手続きは、どこの入管でも同じで、①仮放免についての説明と署名、②保証金の納付の準備、③保証金の納付、④仮放免、という4つの段階からなる。前にも書いたが、2〜3時間かかる。

①仮放免についての説明と署名
 手続きに来た人(身元保証人など)は身元確認をされたのち、入管の職員から、仮放免の条件について説明を受ける。仮放免の条件とは、許可を受けた者が移動できる範囲、就労できないこと、住所の変更には身元保証人の署名と所轄の入管での許可が必要なことなど。

 説明の後、手続きに来た人は仮放免許可書のコピーに、説明を受けた証拠として署名をする。

 大村入管では、この①の過程は最初に行われたが、品川入管の場合は、仮放免許可を受けた人が出てきてから、一緒に説明を受ける。

②保証金の納付
 保証金の納付の準備として、手続きを行う人は、2枚の書類に、住所・署名・捺印しなくてはならない。1枚目は、何というかわからないが、大村で署名したものは仮放免保証金提出書というような名称だった(ちなみに「事件番号:令元大セ退53号」とも書いてあった)。この書類がなんであれ、ここに押したハンコは、保証金を返してもらう時に、押すハンコと照合されるものだ。

 もう1枚が、銀行で保証金を納めるときに必要な紙で、これにも住所、署名、捺印する。写真で示したように左側が保管金振込書、右側が保管金領収証書となっている。保管金というのは、名目が何であれ日本銀行が保管するという意味だろう。

 大村入管では、この納付準備は①に引き続いて行われたが、品川入管では6階で身元確認を済ませた後、4階の会計窓口で②を行う。(つづく)

私の名前と住所は消してある。

旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その9)

 3月26日の朝、私は長崎駅から大村入国管理センターに向かった。万が一、また行くことになったときのために行き方を記す。

《大村入国管理センターへの行き方》

 長崎空港から大村入国管理センターに行く場合は、歩いて行ける。

 長崎駅から行く場合は、長崎空港や大村駅までバスで行ってもいいが、電車もある。その場合、諫早駅で乗り換える。乗り継ぎがうまく行けば大村駅までは40分(特急を利用)。さもなければ1時間以上かかる。

 大村駅から大村入国管理センターまでは、タクシーだと1400円ぐらい。バスだと180円。バスは1時間に2本。駅近くにバスターミナルがある。バスの場合、「消防学校前」で降りる。そこから歩いてすぐ。

 もっとも、私は土地のものではないので、もっと便利で安い行き方もあるかもしれない。

 さて、私が大村入国管理センターに到着したのは8時30分過ぎのことであった。9時に来いということなので、10分前に入るとして、20分ほど時間がある。そんなわけで、入り口や建物の写真を撮って過ごした。

 10分前になったので自動ドアを開けて入る。その先にはもう一つ自動ドアがあって、インターフォンを通して開けてもらう仕組みになっている。

 私がボタンを押して声をかけようとすると、ドアが開いて、職員が出てきた。写真は撮るな、という。おそらく写真を撮っている不審者がいると聞きつけて出てきたのだろう。

 「どうしたご用ですか。入管の中では写真撮影は禁止されています」

 「いえ、仮放免手続きで来ました!」

 私は撮った写真を見せた。どうやら問題なし。で、入れてくれたが、長崎くんだりまで来てこれでつまみ出されたら目も当てられない。

旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その8)

 軍艦島クルーズのガイドの人がこんな話をしてくれた。

 「クルーズには、元島民の方もいらっしゃることもあります。そういう方は、自分からそうおっしゃらないのですが、なんとなくわかるのです。どうしてわかるのかというと、ここまで来ると(と、ガイドは私たちの目の前に広がる廃墟を示した。軍艦島に上陸した私たちはかつての居住区が見渡せる場所に来ていたのだ)、皆さん、写真をお撮りになるのですが、元島民の方は写真を撮らずに見ているだけなんですね。どうしてかというと、ここから見る風景は、元島民の方々には馴染みのないものなのです。それは思い出にはないものなのです。島民の方々は、今、私たちが行けないところで生活されていました。元島民の方々にとって、ふるさととは、そうした今行けないところである、ということも皆さんにぜひ理解していただきたいことです。この島は軍艦島と呼ばれていますが、元島民の方々にとっては、この島は軍艦島でも廃墟でもなく、端島というふるさとなのです」

 これは、こういうことであろう。あなたの友人が宇宙で遭難し、過酷な環境により変貌して帰ってくる。体は白く、皮膚はひび割れだらけ、何よりも奇怪なのは肩が盛り上がって、そこに頭がめり込んだようなその姿だ。人々は恐れ、怪獣だ、怪獣だと言って、水を浴びせかけて倒そうとする(水に弱いのだ)。だが、あなたは複雑な気持ちだ。なぜなら、これは「怪獣」などではないのだから。誰が何と言おうと、あなたのかけがえのない友人なのだから。軍艦島は元島民の方々にとってはちょうどそんな存在ということだろう。

 いや、この最後のたとえは、ちょっといらないかな……。

旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その7)

 長崎についた日の午後は、軍艦島クルーズに参加した。

 赤瀬川原平の『二笑亭綺譚』のような奇怪な廃虚が立ち並ぶ孤島という勝手なイメージを持っていたのだが、実際は、普通の人々がごくごく当たり前の生活を送っていた島であった。

 軍艦島は、日本最古の鉄筋コンクリートのアパートを含む高層建築で覆われていて、それが海上から見ると、軍艦に見えることから、その名がついた。

 海底炭鉱で働く人々とその家族が島の住人で、一時は、5000人以上の人々が暮らし、当時の東京よりも人口密度が高かったという。

 炭鉱の仕事はつらくもあり、危険でもある。また、たびたび台風や高波による災害に見舞われた。島に上陸した時、ガイドの人が「最近、波に破壊されたのです」と巨大なコンクリートの塊を指した。防波堤の残骸だった。そうした厳しい環境でも、これだけ人が集まったのは、当時としては島での暮らしが良かったからなのかもしれない。こぎれいな室内でテレビを囲む住人の白黒写真も展示されていた。

 しかし、今の目から見るととうていそうは思えない。

 クルーズ船で、島を一周回った時、ガイドの人が、ある6階建ての集合住宅を示した。

 「2階のところに大きな穴があるでしょう。あそこにはベルトコンベアーがあって、島の反対側からボタを運んでこっち側の海に捨てていたのです。24時間動き続けていて、止まるのも年に1回、4月のお祭りの1日だけだったそうです。そういう中で、島の人々は暮らしていたということです」

 小さい島にぎゅうぎゅうに押し込まれ、職場ときたら地下何百メートルの海の底だ。しかも、よっぴいて騒音が鳴り続けているときた。

 こんなことができるのはよっぽどのサディストだけだ。炭鉱の所有は三菱財閥で、ここから掘り出された石炭が日本の近代化、戦争、そして高度成長期という日本でもっともサディスティックな時代を裏から支えた。そんなこともあり、近年、世界サディスティック遺産に認定されたという。

 長崎にはもうひとつサディスティックな施設がある。それが明日私が行く予定の大村入国管理センターだ。国家というもののサディスト精神を知るにはもってこいの施設だが、残念ながら、遺産としての認定はまだのもようだ。

ベルトコンベアーのあった穴
軍艦島には中国人と朝鮮人の強制労働もあったという。
いっそのこと、入管の収容施設もここに移したらどうだろうか……
旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その6)

 成田空港から長崎に向けて出発したのは3月25日の朝。LCCなので成田第3ターミナルなのだが、せっかくだから、人のいない空港を見ておこうと、第2ターミナルの出発・到着フロアに行って写真を撮る。

 そうしたら搭乗がギリギリになってしまった。(つづく)

旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その5)

 仮放免の手続きは、大体どこの入管でも2〜3時間かかる。だから、だいたい朝の9時に手続きを開始するようにいわれる。そうすると昼前には終わるのだ。

 9時に大村入国管理センターに確実に着いているためには、当日早朝出るよりも、前乗りしておいたほうが安心だ。ということで行きは25日の朝に成田を出る便、帰りは26日の17時に長崎空港を出る便を予約した。

 保証金の40万円を受け取ったのが、出発前日の24日のこと。中サイズのスーツケースも渡された。これは何のためかというと、長い収容生活を支えた服や本などの私物を詰め込むためのものだ。スーツケースの中には大きなバッグも入れられてあった。

 仮放免されるときに、こうしたバッグがないと、ゴミ袋を抱えて出てくる羽目になる。うっかり置き忘れでもしたら、捨てられること間違いなしだ。いや、見た感じ、ろくなものは入ってやしない。新品らきしものは一切ない。だが、これらが、長期の収容が被収容者を洗い流したのちに残った全財産ということもあるのだ。

 さて、スーツケースの中には、ビルマのお菓子も入っていた。これは私に、というわけで、ありがたくいただいた。(つづく)

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古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その4)

 1週間後の3月26日に仮放免の手続きを行うということが決まった時点で、私は自分が長崎に行くということで準備を始めた。長崎の支援者に頼むのが一番よかったが、急なことなので、うまく調整できるかどうかわからなかった。多分、お願いしたら、何としてでもやってくれただろう。だが、それでも私は自分でいこうと決めた。

 なぜなら、暇だったから。

 コロナが、不要不急の塊のような我が人生から、あらゆる予定を蹴散らしてしまっていたのだ! おお、私はいかに要にして急なる出来事の到来を待ち望んでいたことか。まるで最後の審判を待ち望む死人のようにだ。というのも、死者たちにとっては、最後の裁きこそが要にして急、それ以外のあれやこれやは不要不急、その日が来るまで墓で自粛、というわけなのだ。

 だが、もうひまに飽かして毎日つくる大根の煮物にはうんざりだ。ここで別種の栄養の補給があったっていいのでは? ちゃんぽんやカステーラ方面からの。

 さあ、長崎へ、俺は墓から飛び出すのだ。

 だが、問題は金だ。

 私は保証金を集めてくれている彼の知人に思い切って連絡する。

 「あの、旅費、半分ぐらい出してもらえますか」

 「全部出しますよ!」

 向こうの気が変わらないうちに、行きと帰りの飛行機をただちに予約だ。(つづく)

大村のバスターミナルで。

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古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その3)

 3月19日木曜日の夕方、大村入管に行き方を聞くために電話したのだが、対応した仮放免担当の職員から、驚くべきことが明かされた。

 まず、仮放免の手続きをするには遅くとも予定日の1週間前に電話しておかなくてはならないのだという。なぜなら、今回の場合、仮放免後の住所は東京なので、所轄の品川の入管に連絡するなどの準備があるからだそうだ。そんなに時間かかるかな、とも思うが、まあ、いいだろう。

 私を大いに焦らせたのは、その次に知らされたことだ。職員が言うには、4月の最初の週、すなわち、3月30日から4月5日までは、仮放免手続きはできない、というのだ。「年度始めの人事異動で忙しい」からだそうだ。

 となると、今週中に決めなければ、彼が出てこられるのは早くて4月6日ということになる。それはちょっとかわいそうだ。

 では、今日中に決めて明日電話すれば間に合う、と思ったが、明日は春分の日ではないか。休日だ。

 「あの、今、手続きをお願いしたら、早くていつですか」

 「3月26日木曜日ですね。27日の金曜日は、他の仮放免手続きでいっぱいなので」

 時間を見ると、もう5時だ。かけおなしてる暇はない。今決めるのだ。

 「わ、わかりました。26日でお願いします。絶対行きます」

 かくして、彼の仮放免の日が決まったのであった。

旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その2)

 その翌週、40万円の金策成れりとの報が入ったが、保証金とは別に、彼の仮放免手続きについても考えなくてはならなかった。誰かが、大村入管に行って手続きをしなくてはならない。大村入管では教会関係者などいろいろな人が支援活動を行っていて、頼めば代わりに手続きをしてくれるはずだ。

 連絡があった翌週、彼から早速封書が届いた。そりゃそうだ。一刻も早く釈放されたいのだ。封書には手紙と委任状が入っていた。この委任状に署名して、長崎の支援者に送れば、その人が代わりに仮放免手続きをしてくれるというわけだ。

 もちろん、私が行ったっていい。だが、問題は金だ。いろいろ調べたが、どんなに安くたって3万はかかる。福岡まで飛行機で行って、それからバスで長崎に行くのが安そうだ。前にも一度行ったことがあるので、長崎空港からは歩いて行けることがわかっている。だが、バスで行くとなると、一体どこで降りればいいのか。

 これはもう入管に電話して聞いてみるほかなかった。と、電話したのは3月19日の16時50分。問い合わせのできるギリギリの時間だったが、この電話が他の意味でもギリギリであったとは私は思いもしなかったのだ。(つづく)

旅・観察

古いほうの収容ウイルス、長崎入管訪問(その1)

 2018年4月に品川に収容されて、2019年6月に長崎の大村入国管理センターに移されたビルマ難民に仮放免の許可が出た。保証人である私のところに彼が電話してきたのが3月12日のことだった。

 大村からの電話はいつも聞き取りにくい。まるで他の星からかかってきてるみたいだ。それでいつもイライラするのだが、それでも「奇跡だ、奇跡だ」と世界の果てで彼が叫んでいるのだけはわかった。

 一度入ったら、2年、3年が当たり前の大村入管だ。それが、1年にもならないうちに仮放免許可が出た。私は品川で4回彼のために仮放免申請をしていた。大村なら、最低6回、と覚悟していた。それが、2019年12月の2回目の申請で出たのだ。まさに奇跡、というわけだ。だが、奇跡など信じられるだろうか? 忖度ばかりのこのご時世に。たぶん、誰かがどこかで忖度し間違えたにちがいない。

 そうであっても、許可は許可だ。自由は自由だ!

 もっとも、その自由を手に入れるためには金が要った。40万円の保証金だ。彼の知人が金策に走り回っていると言うので、私はその連絡を待った。(つづく)