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神のみぞ知る(3)

「それは『赤信号はみんなが渡るときがいちばん怖い』という言葉です」とドイツ人は答えた。

「確かに日本と逆ですね。で、どんな意味なのですか」

「ドイツの歴史についてはご存知でしょう。私たちドイツ国民はかつて恐ろしい犯罪を犯したのです。どうしてそんなことが起こったのでしょうか。どうして『殺すな』という聖書の教えをあれほど簡単に破ることができたのでしょうか。それは私たちドイツ国民がみんなでルールを破ったからなのです」 

ドイツ人はしばし沈黙した。「そうなのです。私たちは学んだのです。みんなで赤信号を渡るとき、とても恐ろしいことが起こるのだ、と。ちょっとあれを見てください!」と、彼が指差したその先には歩行者用の赤信号があった。

「あの赤信号の人物が、両手を広げて立っているのは、ああやって、後ろからやってくる人々が赤信号を渡らないように、防いでいるのです。そうやってドイツ国民ひとりびとりが自分の責任においてルールを守ろうとしているのです。歴史を繰り返さない、そういう固い決意があの赤信号に込められているのです!」

これを聞いた日本人は大いに感動したというが、ここで、真偽のホドについては、もろもろひっくるめて、それこそ神のみぞ知る、であるということを注記しておきたい。(おしまい)

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神のみぞ知る(2)

そのとき、ふとある記憶が蘇ってきた。違う、私は知っていた。「通せん坊」ポーズには意味があったのだ。

これはドイツに留学していた人から聞いた話だ。その人はあるドイツ人学生と、ベルリンの街を歩いていたのだ。二人が道を横断しようとしたとき、信号が赤に変わった。彼は立ち止まったが、ドイツ人学生のほうはそのまま彼を置いて渡ろうとした。車通りがなかったからだが、数歩で引き返してきて、謝った。

「これは申し訳ないことをした。赤信号なのに渡ってしまいました」

「いえ」と日本人。「日本でなら私も渡っていましたよ」

「しかし、日本人は誰でもルールを守るというではありませんか」

「そんなことはありませんよ。日本ではなにしろこう言うくらいですから。『赤信号、みんなで渡れば怖くない』って」

その言葉を聞くや、ドイツ人はひどく真面目な顔つきになった。「なるほど……面白い格言ですね。ですが、ドイツにはそれとまったく反対のスローガンがあるのです。だからなおさら私は自分のしたことを恥ずかしく思っているのです」

「というとどんな言葉ですか?」と興味をそそられた日本人は尋ねた。

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神のみぞ知る(1)

ベルリン滞在中に、ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンの訃報を知った。街角のニュース速報で見たのだ。

ビーチボーイズの名曲は数知れないが、後世に与えた影響の大きさでいえばアルバム『ペットサウンズ』がまずあがる。このアルバムにも名曲が多いが、いろいろ好みがあるにしても、代表曲を「神のみぞ知る」とするのに異論はないだろう。

メロディ、コーラス、演奏、アレンジ、どれをとっても完璧で、初めから終わりまでが、まるで小さい宇宙のようにひとつの世界を作っている。歌詞もまたロマンチックだ。

God only knows what I’d be without you(君がいないと僕がどうなるかなんて、神様だけが知っている)

ところが、よくよく考えてみると、ロマンチックどころか、これは脅しではないだろうか。今の時代にこんなことを女性に言ったら、接近禁止命令はまず間違いないところだろう。

それはさておき、「God only knows」は英語の慣用句でもある。「誰にもわからない」という意味で、「自分は知りませんよ、神様にどうぞ聞いてください」という、いわば無責任な態度だ。

そんなことを考えながら、私はベルリンの街を歩き回っていた。そして、信号を何度も渡っているうちに、あることに気がついた。

赤信号では、人の形が赤く光る。これは日本でも同じだが、日本では人が直立しているだけなのに、ドイツでは人が両腕を広げて、まるで通せん坊をしているみたいに立っているのだ。

信号で立ち止まっているだけなら、直立している姿で十分なのだが……これはいったいどういう意味があるのだろうか。

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新しいサービス(終)

もうどれくらい経ったろうか。少なくとも三時間は経った。いや、数日、数週間、数ヶ月……私にはわからない。薬を飲まされるたびに、時間が恐ろしい速さで飛び去って行くようだ。

私はソファでずっと過ごす。ほとんど寝ているが、それでも待ち続けている。iPhone の修理が終わり、自分の名が呼ばれるのを。ああ、こんなことになるのならば、修理などに出さねばよかった。わずかなヒビなど放っておけばよかったのだ。私の家族はどうしていることだろうか。だが、家族などどうでもよい。私はただ iPhone に、ただ iPhone 16 Max Pro に会いたい。一目見て安心したい。

この待合室には、ときどき新しい人がやってくる。私は新入りを見つけるたびに、iPhone のことを聞く。ある者は iPhone 6 の修理待ちだ。またある者は iPhone 87 だと言った。私は気がついたのだ。私の iPhone 16 Max Pro などまったく最新ではないことに。そして、老人は iPhone 87 すら、古い方だと断言して憚らない。

「大きな戦争が終わる。その後に出たやつが私の聞いたうちではもっとも新しい」

私は尋ねる。「87 よりずっと後だというのならば、それは iPhone なになのですか。100 なのですか。どんな名前なのですか」

老人はずっと以前のことなので忘れたと言いながら、答える。「もう iPhone などという名前ではなかったな。サイボーグ? アンドロイド? みたいな……」

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新しいサービス(8)

私は朦朧としたまま、どこか薄暗い場所で目を覚ました。ズキズキと痛む頭を巡らせて、自分が馴染みのない場所にいることに気がついた。立ち上がると、あちこちに黒い大きな物体が転がっているのが浮かび上がってきた。ソファだ。私はすべてを思い出し、エレベーターに向かって走り出し、ソファにつまずき、転んだ。人の唸り声が聞こえた。私はかまわず壁に駆け寄り、叫んだ。

「出してくれ!」

私は誰かに掴まれ、その瞬間、全身の力が抜け、倒れた。

再び目を覚ましたとき、私はあの明るい待合室にいた。飛び起きたかったが、体が動かなかった。老人が現れ、私の体に手を置き、小声で言った。

「静かに! また酷い目に遭うぞ」 老人は私が大人しくしているのを見て続けた。「まずは私の話を聞くんだ。私たちはみな、ここで自分の iPhone の修理が終わるのを待っている。問題は、私たちはあまりにも iPhone のある生活に慣れすぎて、なしでは不安になってしまうことだ。だから、私たちは修理が終わるまでのあいだ、ここに滞在することを選んだのだ。定期的な投薬も、不安を和らげるためだ」

「そんな、同意もなしに……」

「いや、同意したはずだ」と老人はささやいた。「ここに来る前にサインをしたのではないかね」

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新しいサービス(7)

そのとき、待合室の奥の扉が開き、スタッフたちが入ってきた。皆、白い服を着ていて、二人組でソファに座る客たちのところに散っていった。そこで客を囲んで、何やら話している様子だ。

やがて、私たちのところにも、二人組がやってきた。老人は慣れているのか、口をモゴモゴさせて挨拶をした。すると、ひとりのスタッフがカプセルのようなものを差し出した。もうひとりが紙コップに水を注ぎ、老人に渡した。

老人はなにも言わずに、薬を水で流し込んだ。「で、私の修理はまだですか」と老人が尋ねると、スタッフは「もうすぐですよ」と答え、私のほうを向き、薬を差し出した。

「これは、なんですか?」

「薬の時間ですよ」

「いや、薬なんて必要ないですよ」

「そういうわけにはいきませんよ」

「いや、いらない」

「困りましたね。大人しく飲みましょうよ」

私は急に腹が立ってきた。「俺はこんなものはいらない!」 私は別のスタッフが差し出した紙コップを手で払った。水が床に跳ね飛んだ。「もういい、下に行く!」 私が立ち上がったとき、スタッフたちが私の肩を掴んだ。私はさらにカッとなり、その手を外して、スタッフを押し返した。「なんだ! やめろ!」

その次の瞬間、私は急にスタッフたちに組み伏せられた。苦しさに絶叫したことは覚えているが、それだけだ。

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新しいサービス(6)

見ると、白髪の粗末な服を着た男が私のそばに立っているのだった。「戸惑っていらっしゃるようなので」

急に声をかけられて私はなんとなくイヤな気分になったが、平静に答えた。「ええ、ちょっと思っていたのと違うので」

「皆そうなのです。私も初めはそうでした。ですが、もう慣れました」

「そうですね。座って休めるだけ、ありがたいというものです」

「ときに、修理に出されている iPhone はなんですか?」

「16 Max Pro。最新のです」 私は胸を張って答えた。発売日に手に入れたと付け加えてもいいくらいだった。だが、老人はピンときていないようだった。

「ほほう。というと、何年のでしょうか」

「今年、いや、ほんの数ヶ月前のです」

「ええ、そうでしょう。ただ何年か知りたいのです」

「2024 年に決まっているでしょう」 私はこの老人が少しおかしいのだと気づき始めていた。会話を打ち切りたかったが、老人はそうさせなかった。

「2024 年! iPhone 16! なるほど。で、戦争は?」

「戦争? まだ続いていますよ」

「うーむ。これは面白い! なにしろニュースというものがここにはないので。あっても断片的で。ですので、新しく来られた方に聞くしかないのです。ちなみに、私が出しているのは iPhone 4 です」

「え、それはまた! ずいぶん使われたんですね!」

「いえ! いえ! それほどでもないです。あなたが思っていらっしゃるほどでは!」

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新しいサービス(5)

私は近くのソファに駆け寄ると、まるで飢えた人のようにテーブルの上の iPad を手に取った。Safari を開くと、すぐに Apple のサイトが出てきた。

だが、そこからどう操作しても、Apple の商品紹介以外のサイトに行けないのだった。私は手を伸ばして別の iPad も試してみた。しかし、まったく同じだった。iMac のあるデスクにも行ってみたが、やはりApple のロゴ以外の世界に進むことはできなかった。

私は紙コップにコーヒーを入れ、ソファに戻った。周りの人々を見回す。はじめに入ってきたとき、私はこれらの人々がそれぞれ広いネット世界に接続されているように思ったが、実はそうではなかった。よく見ると、ただ目を瞑っているか、ぼんやりと画面のリンゴを見つめているだけなのだった。

私はコーヒーを啜り、ため息をついた。確かに、ここはネットカフェではないのだからしょうがない。だが、いったい今、世界はどうなっているのだろう。この瞬間にどんなニュースが入ってきているのだろう。そして、自分の LINE とメールにどれだけのメッセージが送られてきているだろうか……そのすべてから遮断されていることに私はイラ立ちを感じ、再び大きなため息をついた。

すると、そのとき、背後から誰かが近づき、私に話しかけた。

「まだここに来られて間もないようですな」

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新しいサービス(4)

エレベーターから降りると、目の前にはホテルのラウンジのような空間が広がっていた。白いレースのかかった窓からは穏やかな光が差し込み、ソファに座る人々を包み込んでいた。そこここにデスクが置かれ、人々はその上の iMac の画面を見つめている。ラウンジの中央には円形のテーブルがあり、その上にはコーヒーサーバー、水差し、ジュースの入った大きな瓶、スナックやお菓子が並べられていた。

「なんだ、初めからここにいればよかったのだ。なんであのスタッフは教えてくれなかったのだろう!」

もっとも、この素晴らしい待合室を前にして、私は怒る気も失せたのだった。そのとき、私の目の前に、スティーブ・ジョブズが忽然と現れた。

「お名前を……」 驚きを押し包みながら名乗ると、ジョブズ、いやもちろんジョブズにそっくりなスタッフは細い指で iPad を操り、私の名前を探りあてた。

「では、お荷物、貴重品をお預かりいたします」 彼が iPad を叩くと、小さなテーブルがスッと足元にやってきて止まった。「この上にお載せください」

私がショルダーバッグを置くと、テーブルの表面が輝き、その端からレシートのような長いテープを吐き出した。スタッフは屈んでそのテープをちぎり、私に差し出した。

「これを手首に巻いてください。お荷物お受け取りのさいに必要です」

私が巻きつけようとそれを左手首に当てると、ひとりでに巻きついて紙の腕輪になった。

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新しいサービス(3)

スタッフの指示にしたがい Apple Store の2階に行くと、そこには別のスタッフが立っていた。私を見ると近寄ってきて柔らかい口調で用件を聞いた。

「修理を待っている人専用の待合室に行きたいのですが……」

スタッフは私の名前を聞き、iPad を操作した。「こちらにどうぞ」

ついていくと、エレベーターの前に出た。だが、通常のエレベーターと異なり、ボタンがないのだった。スタッフは「このままお待ちいただければ、自然に降りてきます」と告げて立ち去った。

しばらく待っていると銀色の扉が静かに開いた。私は箱の中に入った。壁は薄い銅色のパネルで覆われていて、まるでホテルのエレベーターのようだった。だが、壁面に手すりがあるだけで、ボタンも緊急停止装置もインターホンも何もなかった。いや、ただ大きな Apple のロゴだけが壁の中央に配されていた。

あちこち見回していると、開いたときと同じように静かに閉まった。そして、機械の囁きと体の感覚の変化から、上昇しはじめたのを知った。上昇は続いたが、扉の脇にも上部にもいかなる表示もないため、いったい何階を通過しようとしているのかわからなかった。閉じこめられ不安が忍び寄ってきた。エレベーターが停止し、扉が開いた。