苦い文学

ハエの王

その小便器は、最先端の技術と周到な心理操作術の結晶であるばかりでなく、この世でもっとも恐ろしい産業製品と言われている。

はじめは、小便器の底に置かれた目皿の少し上あたりに1匹のハエが描かれているだけに見える。だが、私たちが、それに向かって排尿を始めるやいなや、そのハエは翅を振るわせ、便器の表面を動き回るのだ。

私たちがなおも追求をやめないと、そのハエは増殖する。2匹、6匹、15匹、もう数え切れないくらいだ。それらは便器の中をブンブンと飛び回り、私たちはもう排尿で狙い撃ちするのに夢中になる。

尿による攻撃がやまぬと見るや、ハエたちは私たちの唯一無二の「武器」に襲いかかろうとする。ここで怯んではいけない。尿を便器の外にまき散らしてはいけない。その瞬間、私たちはたったひとつの大事な武器を永久に失うことになる。ただ撃ち続けるのだ。

すると、おお、恐ろしいことに、ハエたちは便器の中央に集い、おぞましい顔に転ずるではないか。目はランランと燃え、口からは鋭い牙が突き出ている。

ハエの王、大悪魔ベルゼブブの登場だ。

ベルゼブブは、「ブブブブ」とけたたましいハエの唸り音を立てながら、その真っ赤な口を開け、炎の舌を突き出す。私たちの武器に食らいつこうとするのだ!

だが、恐れるな! 自分の排尿器官を信じるのだ! 私たちが、ひたすら尿を撃ち込めば、この大悪魔は崩壊をはじめ、最後はバラバラになってしまう! 

ついにベルゼブブを倒したのだ。かくして私たちの排尿は終わる。

この小便器が世界でもっとも恐ろしい製品だといわれるのももっともなことだ。この戦いに挑めるのは、人並み優れた勇気と、人並み大きな膀胱をもった者だけだといわれている。

苦い文学

共有アカウントの怪(3)

誰が、どうやって? もちろん、誰かが不正アクセスしているのだ。このとき彼女が真っ先に考えたのは、夫のアカウントを削除することだった。

だが、彼女はためらった。これは夫が残した痕跡のひとつではないか。いつか削除する日がくるとしても、いまそれは彼女にはできなかった。そして、その夫のアカウントを荒らしている「誰か」に怒りを覚えた。なんとしても不正アクセスをやめさせなければならない。

私が彼女から連絡を受けたのは、この時点であった。私が Web 関連の仕事をしているのを思い出しのだ。

私はさっそく調査にとりかかったが、結論からいうと、なにかしらの不正な侵入が行われている形跡はいっさい見当たらなかった。私はため息をついた。

「不思議だ。この異常な挙動はまったく説明つかない。アプリケーションやネット接続の異常だともいえないし、妙だよ」 

彼女は無言で画面を見つめていた。そこでは次々と新しいタイトルが「現在視聴中の動画」に加わっていた。彼女はつぶやくように言った。

「どれもこれも、あの人が好きそうな動画ばかり……」

そう言う彼女の口がわなわなと震えているのに、私は気がついた。「A のやつ、どこかで見ているんじゃないかな」

「そう、きっと楽しんでるんだね。どこかで……」 ここで彼女の言葉は、激しい嗚咽に掻き消された。

……私の物語はもう終わりだが、皆さんがこれを聞いてどう思ったかはわからない。わたしたちの推論が正しいのかもどうかもわからない。なので、なにか結論めいたことは言えないが、もし正しかったとしたら、少なくとも、その「どこか」はとほうもなく暇で、せわしないところなのは確かだろう。

最後につけ加えれば、B は、夫の名残りであるそのアカウントを残しておくことにした。だが、配信サービス事業者が、アカウントの共有は同じ世帯に住んでいる者どうしにかぎるという方針を厳格に適用したせいか、いつのまにか A のアカウントは消滅していた。

苦い文学

共有アカウントの怪(2)

彼女ははじめはなにが起きているのかわからなかった。亡き夫のアカウントで「現在視聴中の動画」に更新がある。これはなにを意味するのか……。

そのとき再び画面が変化した。新たな視聴中のタイトル(リチャード・ボロック主演の映画『悪魔の細胞たち』)が加わったのだ。

もしかしたらなにかのエラーかもしれない、彼女はそう考え、視聴中のタイトルのひとつ(チャン・ボンギル主演のドラマ『犯罪体質』)を開いてみた。

全 16 話のうち、第 8 話まで視聴済みとなっていた。だが、このとき、韓国ドラマのファンでもある彼女は恐ろしい事実に気がついた。『犯罪体質』は新作、つまり、夫の死後に配信されたのだ。だから、絶対に見ているはずはない

そして、彼女に取り憑いた恐れを増幅するかのように、画面が変化した。第 9 話も視聴済みとなったのだ。

彼女は恐ろしくなって再びホーム画面に戻ったが、さらなる恐怖に直面することとなった。視聴中のタイトルが 3 つも加わっていたのだった! そして、『悪魔の細胞たち』も『犯罪体質』もすでに視聴中のリストから消えていた。

ドラマ『さかしらなるゾンビ生活』(独占配信)
映画『悪の不整脈』
リミテッド・シリーズ『デスマッチ 血! 血! 血!』

しかも、彼女はこの時はじめて気がついたのだが『ゾンビ生活』と『デスマッチ』には「いいね」が押してあった。

お気に入りなのだ!

誰かが見ているとしか考えられない。しかも、ものすごい速さで、なおかつ「いいね」もつけながら……。

苦い文学

共有アカウントの怪(1)

死んだのちに、人間はどうなるのだろうか。どこか別の場所に行くのだろうか。それとも、なにもかも消えてしまうのだろうか。

この疑問に関して、古来、人間はさまざまな見解を述べてきた。私がこれからお話しする短い物語も、この古くからの問いにささやかな答えを与えてくれるかもしれない。

先日、私の友人の A が、妻と 2 人の幼い子どもを残して亡くなった。私たちは長いつきあいで、家族同士で交際していた。葬儀もすべて済み、3ヶ月ほど経ったのち、A の妻(B としよう)から相談があると連絡が来た。

どうしても家に来てほしいというので都内某所にある A 宅を訪問すると、B が不安そうな顔で、次のような話をした。

A の家は、動画配信のサブスクに加入しているのだが、奇妙なことが起きているというのだ。動画配信サービスには、複数のアカウントを持つことができる家族向けのプランがある。家族のひとりひとりがそれぞれのアカウントを持ち、自分の好きな作品を見ることができるというものだ。A の家も、このプランに加入し、A、B、子どもたちの 3 つのアカウントを利用していた。

A の死後も、アカウントはそのままだったのだが、B はふとなんの気なく夫のアカウントに入ってみることにした。最初の画面が映し出され、「現在視聴中の動画」のセクションにいくつかのタイトルが並んだ。アクション映画、犯罪ドキュメンタリー、ロボット・アニメ……そこには紛れもなくありし日の夫がいた。

「だけど、どれもこれも、最後まで見ることができなかったんだ」 そう思うと、彼女は切なくなった。

だが、この時、奇妙なことが起きた。彼女の目の前で「現在視聴中の動画」に新たなタイトルが加わったのだった。

苦い文学

現代の魔法使い

魔法などというとファンタジーの世界のものかと思うかもしれないが、現代の日本にも魔法は存在するし、魔法使いやその弟子もたくさんいる。

魔法使いになるためには、魔力を持たなくてはならない。この魔力は、現代魔法学では自己肯定感と呼ばれている。自己肯定感があれば魔法を使える。

魔法にはさまざまなものがあるが、現在おもに用いられているのは「引き寄せの法則」だ。この魔法を使えば、なんでも思うままに実現できる。

また、自在に富を生み出す錬金術も、魔法使いの多用する魔法のひとつだ。

ファンタジーでは魔法使いになるためには、弟子として修行を積んで、ランクを上げていかなくてはならないが、現代でも同じだ。セミナーや講習会、セッションやオンライン・ミーティングにせっせと参加して、師の魔法使いの教えを受け、「資格」や「免許」を取ることが求められる。かなりの出費を覚悟しなくてはならない。

また、書物も重要だ。ファンタジーの世界では、魔法使いになるためには、重厚な魔術の書を読みこなす必要がある。これらの書物は伝説の偉大な魔術師が書き残したのだ。

現代の魔法使いの弟子たちも書物から学ばねばならない。これらの書物は、ファンタジーの世界に比べると、薄くて、字も大きくて、安っぽい。たいていは、書店の「自己啓発書」のコーナーに並んでいる。たいして内容もないので何冊読んでも疲れない。

現代の魔法使いがこれらの本の中で、繰り返し語るのは、自己肯定感も引き寄せの法則も錬金術も実在するということだ。

私は長年の調査の結果、自己肯定感も引き寄せの法則も嘘だと結論づけた。だが、セミナーなどの参加費から判断するかぎり、錬金術だけは本物だと認めざるをえなかった。

苦い文学

恋人のモラハラに困っています

先生、モラハラ癖のある恋人について相談です。

とにかくソトヅラがいいんです。人前にいるときは、やさしくて、落ち着いてて、ニコニコしてて。いつも一緒だね、だなんて感じを出して、まるで最良のパートナーみたいなふりをしてます。

だけど、二人きりになったとたん、豹変するんです。柔和で優しかったのが、鬼みたいになってしまって……そして、パワハラです。しつこいくらいにパワハラを繰り返すんです。あまりの苦しさに、もう身悶えするばかりです。

とくにひどいのが、エレベーターの中。もう家に着くぞって時に、決まって不機嫌・意地悪・残忍になるんです。度を超えてます。今こうやって思い出すだけで、脂汗をかきながら身を捩ってしまいます。

こっちからやり返すなんて無理です。そんなことをしたらもっと手ひどく反撃されるだけです。二度と世間に顔向けできないような辱めを受け、私は立ち直ることなどできないでしょう。

先生、恋人からのモラハラ被害に本当に困っています。どうか、アドバイス、よろしくお願いします。

【先生からのアドバイス】
私は泌尿器科の医師ですので、アドバイスをすることはできませんが、お話を聞くかぎり、あなたの恋人とは、膀胱ではないでしょうか。いっこくも早く病院で治療を受けることをお勧めします。

小説

マスク・パフォーマー(2)

吉田さんはこの「マジック」のために、周到な準備を行う。今回のステージのある都市では、人々の顔つきはどうか、どんな顔が多いか、出身の著名人はどんな顔か、それこそ、駅前の銅像の顔まで徹底的に調べ上げる。さらに、地域の産業、経済状況、政治的傾向、歴史、文化なども重要だ。これらの情報により、この都市とその周辺でどのような顔が期待されているかが浮かび上がってくる。

そして、最後に仕上げが施される。吉田さんは、化粧術、変装術、そして顔の筋肉の調整など、持てる技術を駆使して、最終的な「顔」を作り上げるのだ。

こうしたことのすべては、私がこの稀代のパフォーマーを直接取材して聞くことができたのである。思い出すのだが、ある都市での公演を控えて、楽屋にいる吉田さんを訪ねたことがある。もちろん取材のためだ。

吉田さんはすでにマスクを着用し、準備は万端といったようすで静かに座っておられた。そして、その「芸」についてインタビューする私に、落ち着いた声で丁寧に説明してくださったのだった。

ステージの時間が近づきつつあった。私は立ち去る前に、こんなお願いをしてみた。

「今回のステージでも、徹底的に調査をし、顔を完成させたと伺いましたが、もしよろしければ、そのお顔を今、拝見することはできないでしょうか」

すると吉田さんは、こう柔らかく断られたのであった。

「いえ、このマスクの下の顔は、今、あなたにお見せすることはできません。これは、今夜、このホールで、ここに集まったお客さんのためだけの顔ですから」

インターネットのどのサイトにも、どの SNS にもあげられることのないこの「顔」をライブで体験したい方は、ぜひ吉田六郎さんの公演に足を運んでほしい。

小説

マスク・パフォーマー(1)

コロナのあいだ、私たちは美男美女に囲まれて生活していた。だが、コロナ禍が落ち着いて、人々がマスクを外しはじめたとき、私たちはがっかりしたものだった。というのも、マスクに隠されていた本当の顔は、さほど美しくはなかったからだ。中には「マスク詐欺」などという言葉を吐く人もいた。

だが、そうした失礼な人でも、観客のひとりとして吉田六郎さんがマスクを外す瞬間を見たら、感嘆せずにはいられないだろう。このパフォーマーのマスクに隠されていた顔は、ちょうどその人が思い描いていた顔とまったく同じなのだから。

「まさに思っていた通り!」「想像と同じ!」「そう思っていた!」

吉田さんのパフォーマンスが観客たちに与える満足と喜びを考えれば、日本の各地で行われる彼の公演がどこでも満席なのは容易に納得できる。「マスク詐欺」どころではない、人々は喜んでチケット代を支払っているのだ。

もっとも、これがパフォーマンスだということを忘れてはならない。マスクを外した吉田さんの顔が、人々が想像した通りの顔だというわけではない。そうではない。彼は、マスクを外すと、人々がこれぞ自分たちが想像していた顔だと信じ込ませる技術を持っているのだ。ちょうどマジシャンが、トランプをめくると、観客がもっとも見たいと思っていたカードを見せることができるのと同じように。

苦い文学

メガネVSコンタクト

アナウンサー「では、次のニュースです」

(ニュース映像が始まる)

「メガネって危険だと思う」「メガネはマイナスイメージ」「メガネをかけるのが怖い」 

最近、ネットではこんな不安を語る意見が目立つようになりました。その原因は……

(岸田首相の映像)

なんと岸田首相でした。「増税メガネ」というあだ名が広まったことで、メガネを着用している人たちが、自分もあだ名をつけられるのではと、不安が広がっています。

(ネットの声)「道を歩いていたら『歩行メガネ』呼ばわりされた」「野糞をしただけで『野糞メガネ』とあだ名をつけられて orz」

こうした風潮のなか、活気づいているのがコンタクト業界です。

(関係者)「安心安全なコンタクトを知っていただく良い機会だと思っています」

先日も、コンタクト事業者を代表する団体が岸田首相に面会し、コンタクトをアピール。

(関係者)「首相には『ドーリーなうるうる瞳』のカラコンを提案しました」

これに対してメガネ業界は……

メガネ関係者「いや怒ってます。岸田首相におかしなあだ名をつけたのもコンタクト業界の陰謀ですよ」と憤懣やる方ないようす。

もう黙っていられないと、今後の増税に合わせて、「減税メガネ・キャンペーン」を打ち出して攻勢をかける予定です。

アナウンサー「メガネ業界とコンタクト業界の攻防、メガネだけに目が離せませんね……」

苦い文学

YO LA TENGO

今年の初め、家族に病気の者があって、つきそいで何度も病院に行った。大きな病院で、たくさんの患者がいる。

老人ばかりだ。これらの老人を見ているうちに、私はあることに気がついた。みんな痩せているのだ。

そこで私はこう考えた。「太った老人がいないということは何を意味するか。つまり、太った人は老人になる前に死んでしまうのだ」

決して痩せているほうではない私にとっては大問題だ。

これが偽であることを示すには、ひとり太った老人がいればいい。だが、私にはまったく思い浮かばなかった。いろいろ考えているうちに、アメリカのバンド、NRBQ のギタリストだった Al Anderson のことを思い出した。通称 Big Al Anderson と言われるくらい大柄な人だ。年齢を調べてみると、70 代後半だ。これで一安心だ。が、念のため、YouTube で検索してみて、愕然とした。

もはや big とは言えない健康的な体型だったのだ!

ここで捜査はふりだしに戻った。だが、このことを友人に話したら「太った老人は病院になど来ないのでは」との指摘をいただいた。その可能性もあろう。

ところで、私が NRBQ を知ったのは、Yo La Tengo のカバーした Magnet を聞いたのがきっかけだ。その Yo La Tengo が 11 月 6 日、恵比寿に来るというので、見に行ってきた。

音源を聴いていてはわからなかったが、ライブではとても激しく、それでいて丁寧で誠実さのある演奏だった。

おもにベースを担当している James Mcnew もけっこう大柄で、「これは!」と思ったが、実際は私と歳は変わらないのであった。