苦い文学

洛陽の紙価を低めて

出版物のためのコンテストは世に数あれど、まったく売れない本を選ぶコンテストがあるのはあまり知られていない。

未刊行の原稿を対象に行われるこのコンテストは、出版されてもまったく売れる見込みのないと判定された図書に、出版資金を助成する、というものだ。

まったく売れないのならば出版などしないほうがいいと思うかも知れない。だが、そう簡単にはいかないのが世の中だ。売れなくても出版するのが文化だという考え方もある。

しかし、それでは出版社が倒産してしまう。すると多くの人々が職を失い、家族が路頭に迷うことになる。貧困層の増大は犯罪の増加に直結しており、治安の悪化は政情不安を招来し、ついには国家転覆へといたる。売れない本に助成を出すことはなんとしても必要なのである。

このコンテストは年に1回開催され、我こそは売れない、という書き手たちが、まったく売れる要素のない原稿、いやそれどころか、売れない要素をこれでもかというくらいに盛り込んだ原稿を苦心して仕上げ、こぞって応募する。

売れない、といっても、デタラメを書いて送ってもダメだ。内容がしっかりしていて、しかも誰も手に取らないという、絶妙なバランス感覚がものをいうのだ。

選考する側も、少しでも売れる要素ありと判断すれば、容赦なく落とす。まことに厳しいコンテストなのだ。

応募は秋に行われ、結果が出るのが翌年の4月だ。選考から漏れた人々は、悲しそうだが、少しうれしそうな顔をしている。選ばれて助成の対象となった人々は、うれしそうな顔をしながら、少し悲しそうだ。

苦い文学

恋の魚

殺伐としたドラマは見たくないので、私は最近、韓国のドラマばかり見ている。

今まで見たのは、次の四つだ。

『キム秘書はいったい、なぜ』
『彼女はキレイだった』
『彼女の私生活』
『恋のゴールドメダル〜僕が恋したキム・ボクジュ』

知っている人ならばすぐに分かるが、最近の韓国のラブコメの代表作ばかりだ。

しかし、ラブコメとはどういうことだろうか。私が最後にラブコメに触れたのはいつのことだったろう……たしか小山田いくの『すくらっぷ・ブック』だったような……。私はキム秘書というよりもキム書記のほうであったし、キム・ボクジュよりも金達寿のほうであった。

それでも、人が串刺しにされたり八つ裂きにされたりするのを見るより、美男美女がいちゃいちゃするのを見るほうがはるかにマシだ。だが、慣れないものを一度にたくさん見たせいにちがいない。私の脳に奇怪な反応が生ずるにいたった。

あるテレビの番組を見ていたときのことだ。出演者が「イワシ、サバ、カツオ」と魚の名を列挙していたのだが、「サヨリ」の名が出たとき、私の脳裏に勃然と韓国ドラマの印象が湧き上がったのである。

これはなんだろうか。

しばしの熟考ののち謎は明らかになった。どうやら私に以下のような連想作用が働いたものらしい。

サヨリ>キス>韓国のラブコメ

もうドラマなど見るのを止めて、座禅にでも打ち込むか……

苦い文学

5+7+5は死+死+苦

知性が衰えたのか、それとも、世界の悲惨さに押しつぶされそうになっているのか、人々の苦しみがひとしお骨身に染みるようになってきた。

苦しみにもいろいろあるが、虐待や残虐な行為の犠牲となる苦しみが、もっとも顕著に私の身に堪える。

例えそれがフィクションでもだ。ドラマを見ていても、残虐な場面に遭遇すると、直ちに消してしまう。

こんなとき思い出されるのが、俳句をたしなんでいた祖母のことだ。まだ十代だった私はこんな第二芸術のいったい何が面白いのかまったく見当もつかなかった。

しかし、今になってみると、祖母の気持ちがわかるような気がする。俳句には残虐な要素がいっさいない。季語にはむごたらしさのかけらもないし、五七五の間には飛び散る肉片や、血まみれの子どもや、悲痛な絶叫などが入り込む余地はない。これが老人たちの気弱になった心にちょうどいいのだ。

もちろん、多少はハラハラさせるところもある。「古池や蛙飛びこむ」と聞くと、我々の緊張はいやおうなく高まる。だが、「水の音」ですっかり安心してしまうのだ。「やせ蛙まけるな一茶」でも同じだ。我々は敗北の予感に脅えるが、後に続く「これにあり」で「あってよかった!」とほっと安堵のため息をつくのだ。

だが、もしこれが「古池や蛙飛びこむ虐待で」とか「やせ蛙まけるな一茶を血祭りだ」とかだったらどうだろうか。もちろん俳句としてはこちらのほうが秀句だろうが、おそらく老人たちは筆と短冊を放り投げて、この世に絶望して棺桶に自らもぐり込むにちがいない。

苦い文学

心を開く鍵

チュニジアにいる私の友人の一人は、アルコール依存症と精神病で苦しんでいる。私は心の病気のことはよくわからないが、調子のいいときと悪いときがあるようだ。

彼は日本語を勉強していて、それで知り合った。私にとっては数少ない気の合う友人だ。なので、現在の彼の状態はとても残念だ。

彼は仕事をしていないので、時たま Messenger に、お金を送ってくれと書いてくる。

彼にとても世話になったこともあり、最初のうちは、いくらか送っていた。だが、あるとき、その金が酒に消えていることと、それが彼の家族を苦しめていることを知ってから、送らなくなった。

しかし、彼から金の無心のメッセージは続いた。

「100ユーロ、お願いします」

私が返事をしないと次にこう書いてきた。

「50ユーロ、お願いします」

それでも無視していると、40ユーロになり、30、20、10、5と減額されていった。もちろん5ユーロでは送金料のほうが高くなる。

5ユーロからは、1ユーロずつ減っていき、やがて1ユーロになった。その次は0.5ユーロで、それからは、0.1ユーロずつ減っていった。

彼はどんなつもりで送ってくるのか。そして、どこまで減っていくのか。

ついに0ユーロになった。だがこれで終わりではなかった。-1ユーロ、-2ユーロ、-3ユーロ……

そして、最後にポルノ写真が送られてきた。

彼は、私とコミュニケーションを取りたいのだ。結局のところ、私も彼も孤独な点においてなんの変わりがあろう。だが、これらの写真のあとで返事を書いたら、「おお、この手の写真があいつの頑なな心を開く鍵だったのか」みたいな感じになっちゃうではないか……

風刺・戯文

雨ゾン

ついさっきまで晴れていたのに、急に激しい雨が降り出した。

自分にはどれだけの時間が残されているだろうか。今、この手記を書きながら、私は思う。

なぜなら、この豪雨はやつらからの警告だからだ。やつらは、こうして雨を降らせて、傘を持つことを拒絶した私を脅かしているのだ。

彼らは私を決して許そうとはしないだろう。私の勇気ある告発によって、傘を通じて人類を支配しようとしている恐るべき秘密結社の存在がついに暴かれたのだから。

連中は、今、私を押しつぶそうとしている。秘密結社の権力を傘に着てだ。

連中は私に危害を加えようとしている。傘ばる物を投げつけてだ。

だが、私は屈しない。私たちの世界を邪悪な存在に奪われてはならない。

インターホンが鳴った。誰だ、こんなときに……やつらか、それとも……。私は息を潜める。

再びインターホンが鳴った! 私は意を決する。立ち上がるのだ、玄関に向かうのだ。よしんばそこに邪悪な存在が待ち受けていようとも……。

悪に抗うことはできても、運命には抗えぬ。

私は扉を開けるだろう。そして、命尽きるまで

(奇怪な手記はここで終わっている。玄関には Amazon の空箱が置かれており、中にレインコートの納品書が残されていた……)

苦い文学

雨の日の憂鬱

晴れの日に傘をもって外出してほしい。

あなたはこう言うかもしれない。「そんな日に傘をもって出かけるのは、傘を無くしにいくようなものだ」と。

そうなのだ。必ずあなたは傘を無くすだろう。あなたが傘を持って帰宅することは決してないのだ。

だが、傘を持ったあなたがこう考えたとしたらどうだろうか。

外に出ている間に、この傘をどこかで捨ててやろう、と。

駅のゴミ箱に放り投げてやろう。電車の手すりに掛けたままにして、忘れたふりをして降りてやろう。どこかの公園に立寄って、草むらに不法投棄してやろう……。

はっきりいっておく。あなたは間違いなく傘を持ったまま帰宅することになるだろう。

これはいったいどういうことなのか。無くしたくないと思っているときには無くなるのに、無くしてやろうと思っているときに決して無くならないとは。

もしかしたら、傘に何かその秘密があるのではないだろうか? 我々が傘だと思っているものは、実は傘でも何でもなく、何か別の道具(THE TOOL)だとしたら……?

私は考えに考え抜き、ついに、傘屋の秘密結社が人類に仕掛けた恐ろしいたくらみに辿り着いたのであった。

苦い文学

喉の自慢

最近、映画やドラマで残虐な場面やハラハラさせるような場面を見るのがつらくなってきた。

指を切り落とされたり、目をくりぬかれたりする場面が来ると、私はそのまま消してしまうのだ。

こうした傾向が高じて、最近では、思いも寄らぬものが私を脅えさせるようになった。

例えば、『魔女の宅急便』でトンボが乗る大きなプロペラつきの自転車がそれだ。あのプロペラのそばにうっかり入り込んだらと思うと、もう見ていられない。「私はげんきです」というわけにはいかないのだ。

これは年のせいだろうか。思い出されるのが、『NHKのど自慢』を好んで見ていた祖母のことだ。まだ十代だった私はこんなもののいったい何が面白いのかまったく見当もつかなかった。

しかし、今になってみると、祖母の気持ちがわかるような気がする。『のど自慢』には残虐な場面がいっさいない。ただ出場者が歌って、それに鐘で判定が下されるだけだ。これが老人たちの気弱になった心にちょうどいいのだ。もちろん、多少はハラハラさせるところもある。鐘は1回しか鳴らないのか、それとも合格を告げるのか。しかし、これは、最小限のサスペンスだ。

もしこれが、鐘が1回しか鳴らなかったら手足を切り落とされるとか、音程を外したら煮え湯を飲まされるとか、歌詞を間違えたら目隠しされて銃殺されるとかだったら、どうだろうか。おそらく老人たちは『のど自慢』など見ないに違いない。

苦い文学

宇宙的恐怖

夜、無数の星々が輝く空を見上げて、畏怖の念にとらわれぬ人間がいるだろうか。

この畏怖を突き詰めると、やがて我々は底知れぬ恐怖に直面する。この宇宙の途方もない大きさと冷たさのなかでは、我々人類がどんなに助けを叫ぼうと、ただ虚空に飲み込まれていくだけなのだ。

これがアメリカの怪奇・幻想小説家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトのいう「宇宙的恐怖(Cosmic Horror)」だ。

私の友人の文学者は、ラヴクラフトのこの「宇宙的恐怖」に触発されて、新たな文学的概念を提唱するに至った。

「宇宙的恐怖」があるならば、その対極である「宇宙的滑稽(Cosmic Funny)」もあるはずではないか、というのだ。

彼はさっそくこの概念を実作で示すべく創作に没頭した。その内容について知りたがった私に、彼は「地球は宇宙的滑稽にさらされている」という書き出しの一文を教えてくれたのみだった。

そして、ついに今日、その作品が私のもとに送られてきた。

漁村に住む人は魚に顔が似てくる、という話だった。

苦い文学

ナイショの話

2015年10月、ビルマで総選挙が行われた。この総選挙でアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が勝利し、新しい政権が生まれた。そして、その5年後の総選挙でもNLDは勝利し、これに対し数ヶ月後に軍がクーデターを起こすことになる。

2015年の総選挙の時は、NLDだけが選挙に出たわけではなかった。軍政寄りの政党もあれば、少数民族政党もたくさん立候補者を出していた。

私はこのときビルマにいて、カレン民族の政党の立候補者がエーヤーワディ・デルタを遊説するのに同行していた。

移動は借りた車だった。持ち主がNLD支持者だったため、車にはNLDの旗がついていた。カレン人の立候補者は気がつくと旗を外した。

ボーガレーという町に向って夜道を車で進んでいるときのことだった。カーステレオから、歌が流れてきたのだった。運転する支持者と助手席に座る立候補者は、K-Pop だ、と断言したが、後部座席で聞いていた私は、日本の歌だとすぐにわかった。どうやら、その車は日本から来た中古車で、CDが入ったままだったようだ。

女性アイドルの歌だ。メロディーは少し古い感じだったが、アレンジは Perfume にも似ていた。

気になった私は、耳を澄まして歌詞をいくつか聞き取り、暗い車内でメモしておいた。

日本に帰ってその歌詞を頼りに調べてみると、すぐに ClariS というユニットがひっかかった。曲はといえば、アニメの主題歌ばかりだ。

なんだ、テレビまんがかよ、と思ったが、音楽に罪はない。すぐに全曲を購入し、愛聴した。

苦い文学

傘

朝出かけようとすると、雨が降っている。それで、あなたは傘を差して外に出る。やがて雨が止み、しばらく経つのだが、その時あなたは不意に気がつくのだ。

傘が無くなっていることに。

もしかしたら、電車の中に置き忘れたのかもしれない。いや、立ち寄った店の入り口の傘立てだろうか、それとも、もしやトイレで? しかし、すでに電車は過ぎ去り、店から去ること遠く、トイレは汚れちまっている。

結局、あなたは新たに傘を買うこととなるのだ。再びそれを失うために。

あなたは考えたことがあるだろうか。これはすべて巧妙に仕掛けられたトリックだということに。

連中にとっては天気を操ることなどお手の物なのだ。そして、傘の柄に奇妙な形状を与えて、それを持つ者の意識を朦朧とさせることも。

連中はそのような詭計によって、私たちに常に傘を紛失させて、もっともっと傘を買わそうとしているのだ。それで利益を得るのは誰だろうか。もちろん、傘屋以外にあるだろうか。

この憎むべき傘屋たちは秘密結社を結成し、私たちの傘への欲求を極限まで増幅すべく、世界中で日夜暗躍を続けている。

だが、いったいなんのために? おお、それは問うまでもないことだ。

連中の目的は、人類を傘下に入れることなのだ……