苦い文学

人生はやりなおせる

年老い、もはや死を待つばかりとなった私は、最近、自分の人生について振り返ることが多くなった。

ああ、なんと多くの過ちに満ちていることであろうか。目を覆わんばかりの惨状だ。激しい悔悟に襲われた私は、思わずこう願ったのだ。

「もし人生をやりなおすことができたなら!」と。

だが、さらに自分の人生について検討を加えると、これらのおびただしい過ちのうちには、その原因を私に帰せるものもあれば、そうでないものもあるのに気がついた。

そして、そうでないもののうちにも、はっきりと他人の過ちによるものと、その他人の過ちとすら言えず、もはや運命としか呼びえないものもあることも、明瞭になってきた。

私の心に次第に疑念が形成されてきた。もしも、人生をやりなおすことができても、これらのもろもろの「因縁」を排除することなくしては、もとの木阿弥ではないか、と。

しかも、私はいかに過ちをあまた犯したとはいえ、そのうちには人倫にもとる大罪はひとつとしてないのである。なのに、なぜ私だけが、もう一度やりなおさねばならないのだろうか。

いや、やりなおすべきは私ではない、世界のほうではないか。この世界こそ、もう一度再創造されるべきなのだ……。

私はその旨メールにしたため、再創造の提案について「ご検討のほどよろしくお願い申し上げます」と世界に送信した。

かくして、世界は再創造され、今この瞬間に立ち戻った。だが、いっこうに、やりなおしたい気持ちが消えないのだ……。

苦い文学

アクロス・ザ・ユニバーシズ(ハードSF小説)

我が国の自殺死亡率が上昇しているそうだ。これは自殺に成功した人の数にもとづくものだから、失敗した人は含まれない。

そして、成功者よりも失敗者のほうが多いのが世の常であるから、成否を問わず実際に自殺を企てた自殺関係者はかなりの数にのぼることになろう。

つまり自殺は決して特別な出来事ではないのだ。なので、ここで私が先日、自殺しようとしている人を見かけ、その命を救ったと言っても、信じてもらえるかと思う。

その人は、橋の欄干に立ち今にも飛び込もうとしていたのだった。私は持ち前のジャンプ力で、彼に飛びつき、こちら側、つまり生者の側に引き戻した。ひとしきりもがき、暴れた後、彼は子どものように地べたに座り、涙ながらに言うのだった。

「お願いです……死なせてください……私にはもうこの世では必要とされない人間なのです……」

私はこれを聞くや、彼の頬を平手打ちした。

「莫迦いうな!」

彼は青ざめた顔で私を見つめた。私は怒りに震えながら怒鳴りつけた。

「この世で不要なものがあの世で必要とされるわけがないっ! 言っとくが、あの世はごみ捨て場じゃないんだ。もっとあの世を大切にしろ! この世で役に立たないやつは、そう、あの世でも、どの世でも、どの世界でも、どの次元でも、役に立たないのだ!」

「てことは、どのユニバースでもってことですか」と震える声で彼。

「そうだ、多元宇宙全部! お前の不要さはもはや時空を超えた!」

「亜空間すら……?!」 彼の頬に血の気が差し、表情が輝きだした。「ひょっとして、ハイパースペースも……?」

話のスケールのでかさに、なんだか元気づいたようなのであった。(ハードSF小説完)

苦い文学

たった一度の人生

年老い、もはや死を待つばかりとなった私は、最近、死後の世界について研究をしている。

ついこの間も、書店で『魂の行方と転生の秘訣』という本を見つけた。目が飛び出るほどの値段の本であったが、思い切って買った。

その中に大いなる感銘を私に与えた個所がある。覚えとしてここに引用しておきたい。

(以下引用)人間の魂は、いくども生まれ変わりを繰り返す。そして、いくども異なった人生を送る。そのようにして、魂は人生という場で修練を積み、苦難を経験し、より優れた魂となっていくのである。

……だが、魂の世界には根本的な問題がある。考えてみたまえ、もし、すべての魂が、数知れぬ転生を経た結果、完全に優れた魂となってしまったら、もはや修練の場としての人生そのものは不要となってしまうのではないだろうか。それゆえ、この世界の維持には、いまだ修練を積んでいない新たな魂が絶えず必要とされるのである。

……その結果、やがて魂の世界では、魂の過剰という問題が発生した。この問題の解決策として導入された新システムが、魂の消滅である。そのプロセスはきわめて簡単である。魂自身に、その人生の舞台において、これ以上の転生を望むかどうかを決めさせるのである。

……ゆえに、転生を望む魂は「たった一度の人生だからすきなことをしよう」とか「たった一度の人生だ、思い切って買っちゃえ」などと、人生において口にしていけない。その言葉が口から発せられたと同時に、それはまるでパスワードのようひとつのシステムを発動させるのである。その言葉を口にした魂は、輪廻のプロセスから排除され、死と同時に消滅することが、不可逆的に定められる……(引用ここまで)

ああ、魂に関するこの高価な本を買うか買うまいか大いに迷った私は、「たった一度の人生だから」と独り言を言いながら購入を決意したのであった。

苦い文学

骨のある話

以前、私の友人のビルマ人が亡くなり、葬式も都内で無事済ませたのだが、遺骨をどうするかについてはそうとう困った。

私の印象では、仏教徒のビルマ人は日本人のようには遺骨を尊重しないようだ。

だが、かといって遺骨を問題にしないというのではない。むしろ非常に恐れているのだ。

なので、どのビルマ人も処理したがらず、結局、私が預かることになった。それからが非常に問題で、私はずいぶん悩んだものだった。

その時の話だ。

あるビルマ人の難民認定申請者が入管に収容された。彼はいくどか不認定になっていた。もしかしたら、彼は諦めて帰国するかも、という人もいた。

彼の知り合いで日本語の上手なビルマ人がおり、面会に行った。そして、私に連絡してきてこう言った。

「彼は難民申請を続けるつもりなので、どうか身元保証人になってください。彼はビルマにもう家族もいないので、日本に骨をうずめる気なのです……」

骨の話はもうやめて! 保証人はやるから……

苦い文学

不合格

「合格」は「合格する」と動詞になる。「不合格」は「不合格だ」なのでナ形容詞だ。つまり、合格するときは動詞だが、不合格だとナ形容詞になる。

このように「する」がつくと動詞として使える名詞でも、「不」とか「無」とか「未」がつくと動詞にはならない。例えば「案内する」と「不案内だ」、「漂白する」と「無漂白だ」、「処理する」と「未処理だ」などいろいろある。

しかし、日本語の学習者にはこの違いがわからない人もいて、「不合格だ」を「不合格する」とよく言っている。これは、「不合格」を「合格」と同じように「〜する」と動詞で使えると推測したためだ。

留学のたくさんいる学校で、日々、進路指導している職員がいた。コロナ以前のことで、留学生の進路の問題はとてもシビアだった。

それでその人は、あまりにもたくさんの「不合格しました」に接したため、ついに彼自身も「不合格しましたね」とか言うようになってしまった。

現代日本語に生じた変化といえよう。

苦い文学

過剰すぎる訂正

私には何人かの韓国の友人がいて、せっかくなので韓国語を勉強してみようと思い立った。

そこで、まず、韓国語・朝鮮語を表記するハングルを学ぶ。この文字をおぼえること自体はたいして難しくない。ただ、ハングルには、漢字やカタカナに似た文字も多く、うっかりすると、漢字やカタカナのように書いてしまう。

例えば、ハングルの「ㄹ」は r に当たる子音を表わすが、雑に書くと「己」のようになる。

「チウッ」と呼ばれる子音字「ㅊ」も、厄介だ。私はいつもうっかりカタカナの「ネ」と書いてしまう。なので、この縦棒の「一本足」を書かないように注意している。

私は今年、ハングル能力検定の5級を受けた。この検定で一番低い級だ。はじめの30分は聞き取りのテスト、それから60分の筆記だ。

聞き取りの試験では聞き取れた内容をメモして、それで解答した。木の枝に乗る猫の絵についての問題があった。4つの選択肢が読み上げられ、どれが正しいか当てよ、というものだ。

最初の二つの選択肢では「犬」という単語が聞き取れたので「イヌ」とメモした。残りの二つの選択肢では「猫」という単語が聞き取れた。

試験が終わって、問題用紙を見返した私は驚いた。猫の絵の問題の箇所で「ㅊコ」とメモしてあったのだ。

8割以上が合格するこの5級で不合格となった私であるが、合格するまでは、愛猫家がなんといおうと、ネコは足を切った「ㅊコ」でいくつもりだ。ㅊコ。

苦い文学

即身仏

昔はデパートといえば、単に物を売る場所ではなく、文化の中心だった。都会の新しいファッションがならび、普段では食べられないものが販売され、高尚な芸術が発信された。人々はデパートから豊かな文化的生活というものを学んだのだ。

1974年の後半、某都市のデパートで、いくつかの文化的な催しが開催された。海外の新進画家の絵画展もあったし、日本の仏教芸術の展覧会もあった。

後者の展覧会は、我が国の仏教芸術を幅広く紹介しようと企図されたものであった。密教の曼荼羅図、高僧の真筆、絢爛たる袈裟とともに、即身仏の展示も予定されていた。

即身仏とは、地中で修業しながらなくなった僧のミイラだ。こんなものを展示するなどというのは、現代ならば物議を醸しそうだが、当時ではさして問題にはならなかったようだ。

しかし、即身仏への敬意と保護の関係上、展示は一日だけ、オープニング初日の午後に限定された。即身仏は丁重に包まれ、木箱に入れられて、朝早く搬入されることになった。

「11月14日、東北の古刹より即身仏来訪!」との宣伝が行われ、近隣諸地域の人々の間では期待が高まっていった。デパート側も、あらゆるフロアで特別セールを企画してオープニングを盛り上げることにした。上階にある飲食店フロアには、天ぷら、寿司、洋食、イタリアンなどの料理を提供する複数の店舗があったが、いずれも、来場者を特別な食材でもてなそうと張り切った。

11月14日の朝、デパートの搬入口は、大いにごった返していた。というのも、その日は即身仏だけでなく、レストラン用のさまざまな食材が大量に運び込まれたからであった。そして、その大混雑の中、即身仏と、イタリアン・レストラン用の生ハムが入れ替わってしまったのだった。

それはただの生ハムではなかった。スペインから直送されてきた香り高い生ハム原木であり、当時は東京でなければ目にすることができないものであった。

仏教芸術展の担当者は、会場に運ばれた箱を開けて、生ハムを発見して驚愕した。彼は即身仏の行方を探して走り回ったが、結局、きらびやかな袈裟を生ハム原木にかぶせることでうまくごまかす策に落ち着いた。

かくして仏教芸術展は開かれ、即身仏見たさの人々で満杯になった。人々は即身仏が安置された巨大なガラスケースに我先に向い取り囲んだ。そして、感動とともに生ハムに手を合わせた。法悦のあまり涙ぐむ者も見られた。この有り難き機会に居合わせたある保守系評論家は、ガラス越しにですら高僧の「馥郁たる香気」が感じられたと断言した。

いっぽう、イタリアン・レストランの厨房では、即身仏が、他の生ハム・サラミとともにきれいにスライスされ、皿に盛られていた。その夜のディナーでは、独特のカビ臭さがあるそのサラミに誰もが満足したという。

苦い文学

エスエムエル

スターバックスの飲み物のサイズは、小さい順に Short、Tall、Grande、Venti となり、それぞれがはっきり区別されていて、注文しやすい。

一般的には Small、Medium、Large の頭文字をとって S、M、L とするが、「エス」はともかく「エム」と「エル」は、時として聞き取りにくい。はっきり聞き取ってもらうには「エム」の「ム」と「エル」の「ル」の母音をはっきり発音する必要があるのに、関東ではこの語末や文末の「ウ」の音ははっきり発音しないのだ。

そんなわけで、こんなことがよく生じる。

私 「アイスコーヒーのエルで」
店員「エムでございますね」
わたし「いえエルで……」

そこで、こうしたやり取りが煩わしいので、私はこう注文することにする。

私「えー、アイスコーヒーのラージで」
店員「は、エルでございますね」
私「はい、エルです」

お店の人は確認しただけなのだが、私は自分が間違えたのを訂正されたような気がして、悲しくなる。

しかし、あるとき、今までとは異なる対応をしてくれるお店の人に出会った。

私「アイスコーヒーのエルで」
店員「(ハキハキと)はい、ラージでございますね」

私はうれしくなったが、この気の利く店員さんが私にサッと出してくれたのは、アイスコーヒーのエスであった。

苦い文学

魔法使いの弟子たち

遠い未来、死にかけた地球で、魔法使いが暮らしていた。赤、青、黄の三人の弟子がおり、魔法使いのもとで学ぶこと久しかった。そのため、少年の頃に魔法使いのもとにやってきた弟子たちは、今やいずれも妻子を持つ身となっていた。どの弟子も、まじめに修行に打ち込んでいたが、魔法使いの見るところ、モノになりそうなのは赤い弟子だけだった。

赤い弟子は、頭脳明晰なだけでなく、ハンサムだったので、近くの村の娘と良い仲になった。ある日、彼は妻に「薬草を採りに長い旅に出る」と告げ、さらに青と黄の弟子に口裏を合わせるように頼むと、村娘と二人で熱海の温泉に行ってしまった。

魔法使いが、この不倫旅行について知らされたのは、赤い弟子が帰ってきたあとだった。魔法使いは三人の弟子を集めた。その顔には静かな怒りが浮かんでいた。彼はまず青い弟子に尋ねた。

「青い弟子よ、お前は赤い弟子が熱海に行っている間、何をしていたのだ」

「師よ、私は、不倫旅行に行けない悔しさをバネに、魔法の研究に打ち込み、ついに失われた秘法をつきとめました。これにより魔法科学は大いに発展することでしょう」

魔法使いは片方の眉を上げ、今度は黄色い弟子に尋ねた。

「黄色い弟子よ、お前は赤い弟子が熱海に行っている間、何をしていたのだ」

「師よ、私は、不倫旅行に行けない切なさをバネに、伝説の魔術師リアルトの伝記を完成させました。これで魔法史が大きく書き替えられることでしょう」

魔法使いはもう片方の眉を上げ、最後に赤い弟子に命じた。

「赤い弟子よ、お前が熱海で村の娘としたことをつぶさに報告するのだ」

赤い弟子が語り終えたとき、魔法使いは、青い弟子と黄色い弟子の瞳に、新たな研究意欲がメラメラと燃え盛っているのを見いだした。

魔法使いは弟子たちを去らせると、書斎に座り、太古から伝わる格言を思わずつぶやいた。

「げにげに不倫は文化かな」

苦い文学

偏見

以前、難民関係の集いに参加したときの話だ。その集会に、1人の友人が私が転送した案内を見て来てくれた。難民について彼はあまりよく知らないようだったが、集会後に話すと、とても勉強になったと言ってくれた。

集会が終わると、有志で食事に行くことになった。私は、友人と参加することにした。6人ほどで飲み食いしていたのだが、その中に、自分はいろいろな難民に会ったことがあるという男がいた。そして、彼は私が難民関係の活動をしていることを知ると、妙に絡んできた。

「ひょっとしたら偏見かもしれないんですが、難民はずるいですよ」

「と、そうおっしゃるわけは」

「だって、勝手によその国にやってきて物を貰おうというんですから」

私は、そうとも限らず、多くの難民は自立しようと苦労していることや、そもそも好きこのんで国を離れたわけでないことを説明した。

だが、彼は納得しないようだった。

「ひょっとしたら偏見かもしれないんですが、偽装難民なんて連中もいるそうじゃないですか」

私は「偽装難民」というのはメディアが使用しているレッテルに過ぎず、必ずしも現状を適切に言いあらわしているとは言えない、と話し、「そういう言葉を使うことそのものが、偏見にもとづくものだと思いますよ」と言った。

すると彼は、嘲るような調子でこんなことを言い出すのだった。

「いえ、私は偏見などもってませんよ。本当に偏見をもっている人が、『ひょっとしたら偏見かもしれない』などという前置きをつけるわけがないじゃないですか。だから、私の言ったことは偏見でも何でもなく客観的事実なんです」

私が答えに窮していると、それまで黙っていた友人が「ひょっとしたら暴力かもしれないんですが」といって、そいつをぶちのめした。