苦い文学

ロシア語初級の時間

世界で一番難しい言語はなんだろうか。

ある人は日本語という。ある人はアラビア語だと。また別の人は別の言語を挙げることだろう。

こんなふうに意見が分かれるのは、言語の難しさというものが相対的なものだからだ。

英語話者にとっては確かに日本語は難しいのかもしれないが、逆に日本語に似た言語、例えば韓国語の話者にとっては、日本語はもっとも学びやすい言語のひとつなのである。

だが、逆は必ずしも真ならず。

世界でもっとも易しい言語を決めるのは非常に容易だ。

それは現在のところ、ロシア語だ。

この言語には難しい発音も、動詞の活用も、名詞の格活用もまったくない。なんという楽しさ。

しかも、初級のあなたにとって覚えるべき単語はたったひとつ。

Да(ダー)「はい」

これのみ。これを覚えるだけで、ロシア語の勉強時間が数百時間省ける。

「ドンバスの人民共和国の独立を承認せよ!」
「Да!」

「ウクライナの極右勢力とネオナチグループを撃退せよ!」
「Да!」

「これは戦争ではない。特別な軍事作戦だ!」
「Да!」

「撃て!」
「Да! Да! Да!」

次はロシア語上級の時間にお会いしよう(まだ命があれば)。

苦い文学

キャッシュレス

次のニュースです。

キャッシュレス化が進む中、今日から一部の銀行で硬貨の両替有料化が始まりました。

(都内の銀行の様子)
両替に来た利用客
「小銭をお札にするのに手数料がかかるの? えーっ、困ります」

硬貨によっては両替の手数料のほうが高くなるとあって、利用客は混乱気味です。

いっぽう、有料化の影響は思わぬところに――――

(神社の様子)
賽銭箱を前にした神主
「これまでのようにお賽銭を簡単に(両替を)できないのは……」

両替の手数料は、神社の修繕費用などの減収に繋がるとあって、関係者は困惑を隠しきれません。

銀行のこうした取り組みについて、経済アナリストの円谷嘉平さんは――――

「利便性の点から考えると、硬貨が経済成長の足かせとなっている側面は否定できません。キャッシュレス化の進展とともに、硬貨はますます不要になるのものと考えられます」

円谷さんは「将来的には、小銭を所持していると罰金刑を科されることも」と注意を呼びかけています。

苦い文学

『朕だけの日本語』

日本にはさまざまな目的で学ぶ留学生がいるが、なかには「日本で帝王になりたい!」という夢を抱いて来日する若者もいる。

『朕だけの日本語』は、そんな留学生に特化した教科書だ。

日本語教科書の『みんなの日本語』が『みん日』と略されるのにならって、『朕日(ちんにち)』との愛称で親しまれている。

この『朕日』では、帝王が使うにふさわしい日本語を学ぶことができる。具体的には以下のような表現である。

「この世に朕より優れた者がいようか……」
「勝者が常に正しい!」
「権力のみに人間はひれ伏すのだっ」
「フハハハハ! 弱い者に生きる価値などない」
「学者のいうことなどバカげた理想論に過ぎぬ」
「すべてリベラルどもの陰謀だ!」

この教科書にはまた、2つの特色がある。ひとつは会話がまったく取り上げられていないことだ。そもそも帝王と会話することなどできるものだろうか? 「はい」だけがあればいいのである。

また、同様の理由から文法解説も存在しない。帝王が文法上の誤りを犯すことなど考えられるだろうか? 帝王が文法なのである。

なお、日本語教師への注意点を述べれば、この『朕日』を使用するさいには、細心の注意を払って教案を作り、授業運営を行う必要がある。というのも、命がいくつあっても足りないからである。もっとも、これは帝王の短気さを考えると相当に難しいことだ。

統計によれば、ひとりの帝王がこの教科書を終えるまでに、平均して36人の日本語教師の命が犠牲になっている(縛り首が6人、斬首が8人、八つ裂きが5人、毒殺が10人、行方不明4名、獄死、恩赦としての自決、不審な事故死が各1名)。

帝王には有益だが、庶民には剣呑なこの『朕日』であるが、「ジャパン維新パブリッシング」という大阪の出版社が刊行している。広報によれば、ロシア語版も準備中だとのことだ。

苦い文学

『イエス、マスター』

日本語教科書のスタンダードといえば『みんなの日本語』だが、日本語学習者の多様化につれ、それぞれ独自の特徴をもつ日本語教科書が開発されるようになった。

例えば、『いろどり』(国際交流基金日本語国際センター)は、留学生向けというよりも、日本で生活する人が「できること」を増やすのを目的とする教科書だ。これは無料でダウンロードでき、地域の日本語教室や、ボランティアが自由に活用できる。

最近公刊された教科書『イエス、マスター』もまた独自の特徴を持っている。この教科書は日本に連れてこられた外国人奴隷を対象としたもので、「できること」よりも「しつけ」を重視している。例えば、第4課はこんな具合だ。

第4課 それ、渡せ。(お仕置き場面での会話を学びます。)

田中さん:こら、お前、また愚図愚図しやがって。
奴隷:イエス、マスター
田中さん:はて、どうしようもない奴よ。お前を見ているだけで俺は苛々するのだ。
奴隷:イエス、マスター
田中さん:ここはひとつ懲らしめてくれようか。
奴隷:イエス、マスター
田中さん:おい、棚にスタンガンがあるだろ。
奴隷:イエス、マスター
田中さん:それ、渡せ。
奴隷:イエス、マスター
田中さん:やあ、覚悟しろ。
奴隷:イエス、マスター

このように「奴隷」と「田中さん」との一方向的な会話を通じて、自然な日本語が身につくようになっている。文法的な説明はまったくないが、これは「奴隷に文法は必要ない」という最新の第二言語習得理論に基づくものだ。

興味のある方は、「日本奴隷しつけ基金」のホームページを参照してほしい。無料でダウンロードできるが、国際人権監視団体から若干の制裁が科せられる。

苦い文学

永遠の時刻表の輝き

JR念浜線の傘上駅と青骨駅の間で、電車が停車した。線路内に人が立ち入ったのだという。「安全の確認がとれるまでしばらくお待ちください」とのアナウンスがあった。

木曜日の午後で、暖かい日差しが車窓から差し込んでいた。私の車両には数人の乗客がいたが、アナウンスを聞くと「またか」という顔つきをし、うつむいた。やがて、誰もがまどろみはじめたようだった。

ただ私をのぞいては。

というのも、かねてから感じていた便意が強まりつつあったから。しかも、この電車にはトイレがないのだった。悲惨な事態への予感の中でうたた寝できるほど、私は勇敢ではなかった。

私は線路への侵入者を憎み、空想の銃で何度も狙い撃ちした。しかし、便意がそのような放埒な空想をも許さぬほど差し迫ってくると、私は身もだえしながら、ひたすらに堪えた。やがて、苦しみは最高潮に達し、私は朦朧としだした。

そして、そのおぼろげな意識の中で私は見たのだった。線路の上をゆっくりと移動する異様な存在を。

それは人間の形をしていた。だが、人間なのはそれだけだった。それはただただ光り輝いていた。太陽がその表面で千々に乱れていた。まるでダイヤモンドでできた人間のようだった。

そのとき、車掌や運転手、駅員からなる一群の人々が現れた。彼らはそのダイヤモンド人に飛びかかった。だが、そいつは、閃光を放ちながらすり抜け、彼らの手の届かないところに逃げ去った。人々は騒ぎ立てながらなんどもそいつに掴みかかるのだが、そのたびにするりと逃げられるのだった。

と、不意に私を猛烈な便意が襲い、最後の瞬間へと駆り立てた。崖から落ちまいと思わずうつむいた私の視界の端で、光が激しくほとばしった。

私の記憶はそこから途絶える。青骨駅のトイレで水洗レバーをひねる時までまったく覚えていないのだ。

私は思うのだ。もしかしたら、あのダイヤモンド人は便意が見せた幻だったのかもしれない、と。

しかし、別の解釈もありうる。車掌と運転手たちはあのダイヤモンド人を本当に捕まえようとしていたのだ。おそらくそれは途方もない富をもたらすに違いない。「線路に人が立ち入った」というのは、ダイヤモンド人の出現を意味する暗号であり、電車を停止させ、「狩り」を始める合図となっているのだろう。

しかし、車掌も、運転手も、駅員も、なんと呆れた連中だろうか。乗客のことなどそっちのけで、考えることといえば「ダイヤ」のことばかりなのだから。

苦い文学

宇宙から見れば

ある世界的有名人が、いまこそ地球の平和のためになにかをするべきだと考えた。

さまざまな案が出された。国際的平和団体への寄付、難民支援、平和教育活動への参加……。これらの活動にはもちろん意味があったが、世界的有名人の彼にとっては地味でありきたりに思えた。

すると、ある人が「宇宙に行って世界全体に平和をアピールしたら」と提案した。彼はそれに乗った。

宇宙へ行くための準備が始まった。とんでもない費用がかかったが、協力者やら、スポンサーやら、クラウドファンディングやらでなんとか賄うことができた。

そして、彼を乗せたロケットは宇宙に飛び立ち、宇宙ステーションに無事到着した。

地球は青く輝いていた。世界配信の準備が整い、彼はこの美しい星を前に、全人類に向けて語りかけた。

「みなさん、この地球を見てください。宇宙から見れば国境など見えないのです。ただ美しい地球があるだけです。国境などたいして重要ではありません。ただちに戦争をやめましょう。国境をめぐって争うなど、なんと愚かなことでしょうか」

彼は不意に黙った。地球をしげしげと眺める。その顔に驚きの表情が浮かんだ。

「いや、宇宙から地球を見れば、国境だけでなく、人間も見えませんね……」

苦い文学

基ワン研究 (D)

科研費というのは日本学術振興会による研究費の助成であり、日本の研究を支える重要な事業だ。

科研費をもらうためには、研究計画調書を書いて応募しなくてはならない。その調書を、審査委員が審査し、採否(と金額)が決定される。種目にもよるが、採用されるのは3割弱だ。

今日、2月28日は、その科研費の採否の通知が行われる日で、日本中の研究者が喜んだり、残念がったりしていた。

そして、私はといえば残念がるほうだった。落ちてしまったのだ。

私が応募した研究課題は次のようなものだった。

「生類憐れみの令の史的インパクト:現代の犬たちの証言をもとに」

わかりやすくいえば、犬公方の名で知られる徳川綱吉のことを、現代の犬たちがどう思っているかについての研究だ。

感謝している犬もいるだろうし、批判的な見方をする犬もいるかもしれない。犬それぞれだろう。いずれにせよ、これまでの歴史家たちは、生類憐みの令が人間に与えた影響について研究するばかりで、犬たちの考え・評価についてはまったく無頓着だったのだ。

こうした状況において、犬への大規模なインタビュー調査の実施とその分析には意義があると自負していたが、審査委員に十分伝わらなかったようだ。

もう一度、研究計画を練り直し、しっかり準備をして、来年度の科犬費にチャレンジしたいと思う。

苦い文学

悔しがり屋

私は人間として自分のことはよくわからない。良い人間なのか悪い人間なのかもわからない。私がどんな人間であるにせよ、この世の中には、私の友人・味方となってくれる人もいれば、私をきらい憎む人もいるだろう。そして今、私はこの文章を私を憎んでいる人に向けて書いている。

この2月、私は『アラビア語チュニス方言の文法研究—否定と非現実モダリティ』(ひつじ書房)という本を出版した。

これは、日本学術振興会の「研究成果公開促進費(学術図書)」という助成金によってはじめて可能になったものである。

この「研究成果公開促進費(学術図書)」がいかなるものかはさておき、私を憎み、少しでもイヤな思いをさせたい人にぜひ知っていただきたい事実がひとつある。

それはこの助成を受けたら、印税が入らないということだ。

これは本当だ。公募要領にはこう書いてある。

「本補助金による刊行は無印税とし、著者・編者・著作権者は、一切の利益を受けることができません。」

もう明らかだろう。みなさんは、この本を買うだけでいいのだ。

それだけで、印税が入らなくて歯がみして悔しがっている私を見ることができるのだ。うさ晴らしにうってつけの機会ではなかろうか。

なお、1冊よりも、2冊、3冊とまとめて買われたほうが私にとってはダメージが大きいということも申し添えておきたい。

苦い文学

コップの魔術師

スピリチュアルなコーチングで名高い人物が街にやってくるというので、ある夜、講演を聞きに行った。会場は、その華やかな活躍にそぐわないようなうらぶれた集会場だった。我々は、人生を変える機会を求めてそこに集まったのだった。

講師にはカリスマティックな雰囲気が漂っていた。彼が演台に立つと、我々はたちまち彼に夢中になってしまった。

講師は演壇の上に、水の入ったコップを置いた。そして、深く味わいのある声で語りはじめた。

「ここに半分水の入ったコップがあります。皆さんはこの水を見てどう思いますか。『半分も入っている』と思うでしょうか、『半分しか入っていない』と思うでしょうか」

彼はコップをそっと持ち上げ、水と空気の間の薄く透明な境界を指で示した。不思議なことに、その境界線は、彼がコップを動かしても微塵も揺れなかった。

「この境界をよく見てください。集中して見るのです」

彼の声には催眠効果でもあるようだった。我々はもはやその境界線から目を離すことができなくなっていた。

「『半分も入っている』でしょうか、『半分しか入っていない』でしょうか」

そのとき、境界線に釘付けになった我々に奇怪な想念が湧いてきた。急に空気に悪意が満ち、その境界線をどんどん押し下げて水を圧迫しているように思えてきたのだ。

我々は苦しくなった。恐ろしくなった。すると、空気が揺れ動き、竜巻のように回転し出したではないか。空気は徐々に形をとりはじめ、ミサイルのようなものができあがった。そのミサイルは轟音を立てて水へと突き進み、境界線を破って水の領域に侵入した。恐ろしい爆発が起き、水は泡立ち血の色に濁った。

我々は絶叫した。と、その瞬間、すべての幻影は消え、半分の水の入った例のコップと講師だけが目の前に現れた。講師は、波ひとつたっていない境界を指さし、我々に再び聞いた。

「『半分も入っている』でしょうか、『半分しか入っていない』でしょうか」

我々の答えは明らかだった。半分しか入っていないのだ。そして、その残った半分ですら、いま恐ろしい危機に晒されているのだ。

我々は恐怖と憎悪と怒り、そして焦りを抱きながら帰途についた。我々の人生は変わったのだ。

苦い文学

『ぬ』の行方

私が日本語を教えていたとき、ラオさんという名の留学生がいた。

あるとき授業中のことだ。彼が私語をしていたのだ。教科書のある箇所を隣の学生に示している。

近寄って私が見ると、彼は教科書に記載されている「カラオケ」の文字の「ラオ」の部分にマルをつけて、自慢げに見せていたのだった。

これには大笑いした。

彼にはもうひとつ大笑いした話がある。

授業中、どうした理由でそうなったのか忘れたが、私はある学生にひらがなの「ぬ」をノートに書くように指示した。

隣に座っていたラオさんがその学生のノートをのぞき込んで、私に言った。

「先生、この人、何年も日本語勉強しているのに『ぬ』も書けない。本当に恥ずかしいよ!」

そう言うと彼はしばらく考え込み、急に叫んだ・

「先生、やべえ、俺も『ぬ』忘れた!」

(思うに、これにはひらがなの『ぬ』の使用頻度の低さが関係しているのだ。動詞の「死ぬ」の終止形と連体形、「知らぬが仏」「生さぬ仲」などの否定の『ぬ』を除けば、ひらがなで『ぬ』を書く機会などほとんどぬい。ぬぬで、これらぬ学生ぬ頭からひらがぬぬ『இ』がஇけ落ちていたとしても、無理はஇいஇである。)