風刺・戯文

リュック過激派

日本では電車の中でリュックを背負っている人はいちだん低く見られる。リュック所持者には誰もが命令していいことになっている。周囲のことを考えないならずものだとの評価が決まっている。混んでいる電車の中でリュックを背負っていると、周囲の憎悪の眼差しで、リュックが燃え上がりそうだ。だから、私たちは、リュックがアツアツになる前に慌てて胸で抱える。

ショルダーバッグや手提げカバンだって、リュックと同じくらい邪魔になるのに、誰も文句はいわない。これらのカバンはちゃんとした社会人の象徴だからだろう。いっぽう、リュックはといえば、今や働く大人だって使うのに、あいかわらず、ランドセルの仲間扱いだ。だから電車の中では、ランドセルは、ベビーカーについで居場所がないのだ。

私の友人のリュック愛好家が、こうした電車でのいわれなきリュック差別に腹を立て、過激な行動に出た。ホームで電車が来るのを待ち構えて、ドアが開いたとき、ショルダーバッグを投げ入れて、彼は叫んだ。「乗るのは、人間じゃなくて、このバッグだろ!」 昔のトンチ話に影響を受けたのだろう。

もっとも、うっかり者の彼はそのバッグに携帯と財布も入れていた。それで遠く離れた駅の遺失物係にはるばる行かねばならなかった。

さて、その彼がアフリカやらインドやらを旅して帰ってきた。長い旅をしたせいで、心境が変わったのだろうか。あれほど執着していたリュックも捨てて、今は頭に荷物を乗せて電車に乗っている。

苦い文学

あいみょんと「の」の逆襲

「おいしいのパン」
「強いの力」
「助けるの人」

「これらはすべて、日本語学習者がしがちな誤用、つまり間違いです」と、日本語教師養成講座の教師は、受講生たちにホワイトボードの板書を示しながら説明を始めた。「このように余計な『の』を挿入してしまうことがよくあるのです。どの国の学習者もする誤用ですが、とくに中国人に多いように思います。しかも、上級になっても繰り返す人がいます」

教師はこの助詞「の」について説明を始めた。助詞の「の」の前後には原則的に名詞が来ること。したがって、「おいしい」や「強い」といった形容詞、「助ける」といった動詞の後には続かないこと。「の」は中国語の「的」と似ているため、一説によれば、その影響でよく余計な「の」を入れてしまうということ……。

ひととおり話し終わると、教師は受講生たちに質問がないか尋ねた。すると手が上がった。

「先生、『の』を変なところに挿入してしまうのは外国人特有ですか?」

「特有、というとニュアンスが異なりますが、学習者にわりによく見られる誤用です」

「とすると、あいみょんは外国人ですか?」

「あいみょん? あの歌手の?」

「ええ」

「それが今の話とどうつながっているか、ちょっとわかりませんが……どういうことでしょうか」

「いえ、あの、『マリーゴールド』なんですけど、『麦わらの帽子』の『の』って、あれ要りますか? ……」

苦い文学

旅の続き

さて、私はカナダからやってきたカレン人難民の話を聞き、やがて迎えの車が到着し、私と友人は目的地に向かって出発したのだった。

そして、1週間ののち、私たちはメーソートに帰ってきた。その間のことについては、別の機会に詳しく書きたいと思う。

このブログで毎日毎日書き流すのは簡単だが、このテーマはどうもそれにそぐわないように思えるからだ。

ところで、私が滞在していた地域は、電気もなく、インターネットに接続するのは、とくに最初のころは難しかった。そんなわけで、私はいくつもの記事をあらかじめ書き溜めておいて、接続があるときにまとめて予約設定をして、毎日更新を維持することができた。

この記事「旅の続き」も前もって準備しようとしたひとつである。だが、「そして、1週間ののち、私たちはメーソートに帰ってきた。」と書いたところで私はやめた。なぜなら、不測の事態が起きて予定通りにいかない可能性も大いにあったから。私たちが帰る前にブログでだけ帰っていたらおかしなことではないだろうか。

そしていま、予定通りに帰ってきた私は、この記事を書き終えることができたのである。

苦い文学

自動運転訓練センター

「何やってるんだ。死ぬ気でやらなきゃダメなんだ!」

若者に厳しい声が浴びせかけられます。ここは、日本初の自動運転訓練センター。自動車の自動運転テストのために作られた施設です。

「はい!」

厳しい声に負けずに、若者がもう一度、道路に飛び出します。

「よし! いいぞ! やればできるじゃないか!」

若者の顔に笑みが浮かびます。

(センター長)「自動運転の普及のためには徹底的な事故防止テストが不可欠です。私たちはそのテストの参加者を養成しています」

これまでは自動運転の事故防止テストのためにダミーの人形が使われていました。しかし……

(走行する車の前をダミーの人形が通過する。車はまったく減速せずにダミーに衝突し、ダミーは木っ端微塵となる)

AI 技術の進歩により、AI がダミーと人間を簡単に識別するようになったため、反応しなくなってしまいました。そこで、生身の人間を使った事故防止テストが行われるようになりました。

(センター長)「しかし、AI のさらなる進歩が新たな問題を引き起こしました」

(走行する車の前に、人間がおずおずと飛び出る。車はまったく減速せずに人間をひき殺す)

(センター長) 「AI は事故テストの参加者が本気かどうかも識別するようになったのです。しょせんテストだから、などという軽い気持ちで飛び出すと、車に容赦なくひかれてしまいます」

そこで、本気で道に飛び出す訓練が導入されました。

(若者)「これまで4ヶ月の厳しい訓練を無駄にしないよう、本気で AI に向き合いたいです」

長い訓練を終えて、今日本格的に自動運転テストに参加します。

「スタート!」

テストが始まります。(AI 搭載自動車がコースを走りだす。その前を、若者が決死の形相で横切る。急ブレーキで車が停止する)AI に若者が認められた瞬間です。(どっと歓声が上がる)

(若者)「うれしいです!」

喜んでいるのは人間だけではありません。

(車がヘッドライトをピカピカさせながら、クラクションを鳴らす)

(センター長)「これからも AI がお気に召すような人材を続々と供給したいですね」

自動運転訓練センターでは今日も若者の訓練が行われています。

苦い文学

おじさんの反日プロパガンダ

子育てにおける絵本の読み聞かせの重要性はいくら強調してもしたりないが、それでも注意すべきことがある。

それはどんな絵本でもこどもの心の発達に有益だとは限らないということである。いや、有害ですらあることもあるのだ。ことにその絵本が反日的である場合には。

私が言っているのは『おじさんのかさ』のことだ。

物語は単純そのものだ。

主人公である「おじさん」は傘を大切にしていて雨の日にも傘を使わないのだ。だが、こどもの歌を聞いて楽しくなって傘を差してしまう……そんな物語だ。

結構な物語だ、ほほ笑ましい物語だ。ものは温存せず、人と一緒に使ってこそ意味がある、そんなメッセージを読み取る人もいるだろう。

だが、どうだろうか、もしこの「かさ」の意味するものが領土だとしたら?

もし、おじさん首相が、我が国の領土を大切に守らずに、どうぞ一緒に入りましょうとばかりに、韓国、中国、ロシアに差し出すとしたら、あなたは同じようにほほ笑んでいられるだろうか?

こどもに亡国精神を植え付け、我が国の国益を脅かす、この憎むべき反日プロパガンダの存在を知った今、皆さんはもはや、こどもにこの絵本を読み聞かせることなどできないのではあるまいか。

「あめがふったらピッチャンチャン」などとノンキに歌っていることなどできないのではあるまいか。