ライブ

戸川純@東京キネマ倶楽部

先週行った Todd Rundgren よりも、私にとっては付き合いの長い戸川純のライブ「jun togawa “birthday” live 2026」に行った。

中学生のころの私のアイドルで、これまで一度もライブに行ったことがないのが不思議だが、子どものころと同じ感覚のままで、別世界にいる人のように思っていたからかもしれない。

今回は、64 歳の誕生日を記念するライブであったが、残念なことに、足を悪くしたせいで座ったままの歌唱だった。だが、前半最後の曲で立ち上がって歌ったときは、その声と迫力に思わず震えた。椅子に座っているよりもはるかに大きく見え、存在感がまったく違うのだ。

後半は、彼女の切り抜きを集めていた中学生の私が繰り返し聞いた「蛹化の女」「母子受精」「レーダーマン」、そしてアンコールの締めに「パンク蛹化の女」といううれしい選曲だった。

座っていたせいで最初は精彩を欠くように思えたが、MC で足の診察について医者のことをやたら愚痴ったり、高い声が出なくて「ごめんなさい」と謝ったりするのも、最後には戸川純の存在そのものに吸収されてしまった。サブカルという枠で音楽が聴かれた時代から、その枠そのものが消えたサブスクの現代まで、ステージに立ち続けている人になにをいうことがあろう。

今年もたくさんライブをするということなので、次は彼女がもっとステージを動き回れるようになるときに行くことに決めた。

苦い文学

夫婦別姓の真相

あなたは、ある人が夫婦別姓の賛同者ということを知ったら、その人についてどう思うだろうか?

リベラル、個人を尊重する人、フェミニスト、新しい社会を見据えた人、革新政党支持者……、そうポジティブに捉える人もいるだろう。

だがそのいっぽう、別の人は、家族と伝統を破壊する淫乱な悪魔、反日主義者、日本の敵、とみなすかもしれない。そうした人にとっては、夫婦同姓こそが、日本の揺るぎない伝統なのであり、真の保守ならば命を賭しても守らねばならないものなのだ。

だが、はたして、この問題はそのような思想上の問題、つまり右と左の闘争なのだろうか? 私はそうではないと思う。右にせよ左にせよ、マスコミが作り上げた虚像に過ぎないのだ。

なぜなら、私が独自に行なった調査によれば、夫婦別姓の反対者と賛成者のそれぞれに次のような傾向が見られたからだ。ご覧いただきたい。

夫婦別姓に反対の人の苗字:佐藤、鈴木、高橋、田中、伊藤、渡辺、山本、中村、小林、加藤、山田など

夫婦別姓に賛成の人の苗字:小鳥遊、四月一日、道重、九十九、安蒜、肉丸、興梠、根路銘、武者小路、岩迫、七五三掛、熊切など

そうなのだ。この問題は、思想問題ではなく、苗字の生き残りをかけた戦いだったのだ。

苦い文学

HSPの王国

私は長いあいだ生きづらさに苦しんできたが、これがHSPの特徴にぴたりとはてはまることを知った。HSPとは Highly Sensitive Person の略で、感受性がとても強く、環境や人の心の動きに敏感な人のことだ。思い当たることばかりだ。

現代の社会では5人に1人がこのHSPだ。つまり、5人に4人が鈍感でガサツな人々ということになる。HSPはガサツな人々の中で生きるのにたいへん苦労する。なぜなら、社会は少数派であるHSPに合わせてできていないからだ。

ガサツな人々はPSPと呼ばれる。Poorly Sensitive Person だ。PSPは、人間の感情というものに無頓着だし、つねに自分勝手だ。いつもガハハと大声で笑い、椅子には必ずドサッと腰かけ、足音は建物中に響き渡る。私たちはそのたびに怯えて飛び上がるのだ。

PSPがいるかぎり、私たちHSPの苦しみは続くといってもいい。

ある人がいうには、私たちHSPは自分の国を作るべきなのだという。そこでは私たちを苦しめるものは誰もいない。HSPそれぞれに与えられた特別なギフトを思う存分に生かして暮らすことができるのだ。心のやさしい人々が暮らす心やさしい国だ。

現在、私たちはこのHSPの国づくりに向けて活動をしている。だが、PSPは私たちの活動をじつにガサツなやり方で妨害してきた。そのせいで活動は停滞気味だが、私たちは負けない。

今夜、都内の複数の箇所で決行する無差別テロが大きな突破口となるだろう。

苦い文学

ベビーカー

ベビーカーが乗り込んでくると、決まって電車はイラつき出す。なんとかして外に吐き出そうとする。でも、それは簡単じゃない。ベビーカーには切符があるからだ。

それで、思いっきり急ブレーキをかけて、困らせようとする。けど、それもうまくいかない。ベビーカーにもしっかりブレーキが付いていて、ちょっとやそっとじゃびくともしないのだ。

そこで電車がどうするかというと、陰気な乗客たちを利用する。満員にして乗車拒否したり、乗ったら乗ったで乗客に「チッ」と舌打ちさせたり、「じゃまだ」とか怒鳴らせたり、果ては足で蹴らせたりして、あの手この手で追い出そうとするのだ。

容赦ないのだ。ベビーカーの中の子どもが電車のおもちゃを握りしめていたとしても、いっさい手加減しない。それほど憎んでいるのだ。

いったいどうして電車はベビーカーのことをこんなにきらっているのだろうか。

ぜひ仲良くしてほしいと思う。同じ乗り物なのだから。

苦い文学

向き不向き

人間には向き不向きというものがある、そういったことを考えるたびに私が思いだす出会いがある。

日本語の専門家だが、ちょっと変わった人がいて、ある時、私はその人と話す機会があったのだ。

彼がいうには、これから日本語教育に携わることになったのだという。

彼は、私が日本語を教えているのを知っていたので、こんなふうに聞いてきた。

「留学生ってどんな人たちなんでしょうね」

彼はあくまでも日本語の研究者で教育についてはよく知らないのだ。そして、彼は続けた。

「臭いんでしょうか」

さすがに私は呆れ、否定したのであった。

結局のところ、その人はしばらくして日本語を教えるのはやめにしたようだった。

おそらく向いてなかったのだろう。だが、いったい彼のなにが向いていなかったのか答えるのは容易ではない。

彼の人間性だろうか。

それとも、鼻だろうか。