小説

津波の来ない町

津波の警報が鳴ってからというもの、僕たちは家を出て、ずっと登ったところにある山の上の避難所で暮らしている。そこなら津波は絶対にやってこないから。

僕たちが逃げてから何日も経ったけれど、津波はやってこない。けれどみんな危ないっていうんだ。家に帰るな。帰ったとたん津波が来るぞ。閉じこもってばかりの生活にもううんざりした僕たちはあるときこういったんだ。

「けど、津波が来そうになったらすぐにここまで逃げればいんじゃない」

「お前たちは知らないだろうが」って大人たちは怖い顔をした。「今の町は泥棒ばかりで、戻れば危なくもある。津波が来るまでだめだ」

大人たちは、津波がその悪党どもを飲み込んでくれるのを楽しみにしているかのような口調になったんだ。

「でもさ」と僕たち。「津波っていったいどこからやってくるのさ。いったい今どこまで来てるのさ」

「遠いところからだよ。だから来るのに時間がかかるんだ」

「そんなに遠いところって、どこさ」

大人はカバンの中からポストカードを取り出した。「ずっとずっと海の向こうにある、こんな南の島からやってくるんだ」

その夜、薄暗い避難所で、僕たちは夢を見たんだ。青々とした空と緑色の海の浜辺で、生まれたばかりの津波たちが楽しそうに遊んでいたんだ。

苦い文学

年越しそばの幻影

【相談者より】
いつも楽しく拝見しております。年越しそばのことについて悩んでおり、お便りいたしました。

まず、どうして日本人が年越しそばを食べるかということなんですが、細く長いそばを食べることが長生きに通じ、またそばが切れやすいことが、不幸や災難を切り捨てるという厄払いに通じるからだということです。

ところが、先日インターネットでこんな意見を見かけました。

「年越しそばは絶対に食べるべきではない。なぜなら、細く長いそばを食べることは不幸や災難を長続きさせ、切れやすいそばを食べると、寿命が早く切れるからだ。年越しそばは日本人を滅亡させるために、GHQ が流行らせたのだ」

私はこれを読んで以来、年越しそばを食べていいものかどうか、悩み苦しんでおります。どうかお助けください。

【回答者:そば職人】
さぞかしご心配のことと思いますが、年越しそばを召し上がっても問題ないかと思います。

と言いますのも、年越しそばとは、実現不可能な空想上の食べ物だからです。つまり、年末にみなさまが召しがっている年越しそばは、本当は年越しそばではないのです。ですので、「GHQ が流行らせた云々」以前に、偽の年越しそばなのですから、食べてもいかなる効能も害もございません。

この年越しそば、どうして空想上の食べ物かと言いますと、現実的には「細くて長い」と「切れやすい」の両立は不可能だからです。細くて長いそばは切れやすくてはいけませんし、切れやすいそばは細くて長くあることはできません。ですので、年越しそばは存在しえないのです。

私たち、そば職人はこの実現不可能な年越しそばをなんとかして実現しようと、江戸時代から努力と研究を積み重ねてまいりましたが、完成にはまだまだ数十年要すると考えております。

ですので、どうぞご安心して年越しそばを召し上がってください。そして、お召し上がりになりながら、そば職人が長年思い描いてきた想像上の年越しそばに思いを馳せてください。おそらくそれは、長寿や厄払いよりも、あなたに素敵な効果をもたらすのではないでしょうか。

苦い文学

駅の階段での祈願

駅のホームから改札口に上がる階段は、上り優先部と下り優先部とに手すりで分けられていて、たいていは下りのほうが幅狭になっている。

私たちの乗った電車がホームに止まる。私たちはどっと降り、改札口に上がろうとする。しかし、降りた人が多すぎて、一度に階段に入りきらず、階段の前で列ができる。列はノロノロとしか進まないが、私たちはじっと耐えている。

ところが、私たちのノロい列のとなりで、階段をすいすい上がっていく人々がいる。あろうことか下り優先部を駆けあがっているのだ。

列に並ぶ私たちはじっと堪えながら、これらの無法者が次々と追い抜いていくのを見上げる。憎しみをむき出しにしながらこう呟く。

「なんで駅員たちはこうした連中を取り締まらないのか!」
「奴らにとってルールなどなんの意味もないのだ」
「生来の犯罪者だ!」

そして、駅とホームの神々に祈願する。「どうか降りる人を出現させて、これらの不届き者を懲らしめてください!」 だが、いつまで待ってもだれ一人降りてこない。その間にも、犯罪者どもはどんどん上にいってしまう。私たちがまだ階段の一段目にもたどり着いていないというのに!

私たちはついにこう考え出す。

「あいつらのようにしたってなにが悪い? 駅員どもも何も言わないじゃないか」
「そうだ。こんなところでくすぶっているくらいならば、俺たちだって!」

私たちは意を決して、もはや一歩も進まなくなった上りの列を離脱する。そして、下り優先部の下部に立つや、一気に駈けあがる。

だが、そのとき、突如として降りる人々が出現し、蹴散らされた私たちはホームの下に転落する。

苦い文学

ワレワレ

ある語が「わたし、おれ」などといった話し手を指す場合、それは「1人称」であると言われる。

この1人称にはまた単数と複数の区別がある。つまり「わたし」と「われわれ」だ。英語なら「I」と「We」だ。

言語によっては、この1人称複数をさらに2つに区別する。ひとつは「聞き手を含むわれわれ」であり、これは包括形と呼ばれる。もうひとつは「聞き手を含まないわれわれ」であり、これは除外形と呼ばれる。

「われわれ」を包括形と除外形で区別する言語は少なくないという。調べると満州語などのツングース諸語、アイヌ語、ベトナム語などが出てくる。

日本語について考えてみると、「われわれ、わたしたち、おれたち」は包括的でも除外的でもありうるから、基本的にはこの区別はないといえる。しかし、「私ども」などのように、聞き手を含まない除外的な1人称複数もあることもまた知られている。

こんな知識は、トリビアルで、役に立たないものだと思う人もいるかもしれない。だが、それは大間違いだ。

私は来年は宇宙人がやってくる歴史的な年になるのではないかと予測しているが、この知識があれば地球にやってきた宇宙人の意図がすぐわかるのだ。

人類の前に姿を現した宇宙人はこう言うだろう。

「ワレワレハ宇宙人ダ」

もしこの「ワレワレ」が宇宙人語で包括形ならば安心だ。なぜなら宇宙人は、自分たちも地球人も同じ宇宙人だと、つまり、みんなで仲良くしようと語っているのだ。

だがもし、除外形だったら? 人類はただちに宇宙戦争の準備にとりかかるべきだ。

なぜならその地球外生命体は、自分たちは宇宙人だが、お前ら地球人はそうではない、この虫ケラどもめ、けちらしてくれん、と宣戦布告しているのだから。

苦い文学

地下牢

その昔、都に、山の民が予告なしに攻め入ってきた。この不意打ちに、都を防衛する軍はたちまち敗走した。勢いづいた山の民は城門を破壊し、あちこちに火を放ちながら進軍した。王は将軍たちに反撃を命じたが、死を恐れぬ山の民にたちまちのうちに蹴散らされてしまった。  

山の民が王宮に迫り、吹き鳴らす角笛の音が間近に聞こえたとき、王の心に、夢の中のお告げが蘇った。それは、都が危機に陥ったとき、王宮の地下牢に行くようにというものであった。王は、その地下牢がどこにあるか尋ねようと廷臣たちを呼び集めたが、いつまでたっても誰も来なかった。廷臣たちは我先にと逃げ出していたのである。王自身も諦めて玉座から立ち上がったとき、一人の見知らぬ老人が立っているのに気がついた。

「地下牢に余を連れて行くのだ」

老人は王の言葉を聞くや、玉座の裏に回り込み、持っていた杖で床を三回叩いた。すると、階段が現れた。王がその階段を下っていくと、地下牢があった。王はそこに閉じこめられている人物を見て驚いた。というのも、それはその老人その人だったから。王が牢を開くと、老人はしっかりとした足取りで外に出て、「王よ、私に許しを与えてください」と言った。

王が許しを与えると、老人は王宮のてっぺんに飛び上り、杖を振り上げた。すると、山の民たちはたちまち猿となり、猿の言葉を叫びながら四方に散っていった。

王は、危機が去ると、直ちに二つのことをしたといわれる。ひとつはこの老人に金銀財宝でもって報いたことである。

王がしたもうひとつのこととは、逃げ出した廷臣たちを捕まえて、あの地下牢に全員放り込むことであった。そして、この時以来、都はイキンと呼ばれるようになった。それは「投げ入れる」という意味である。