風刺・戯文

当たる

数年前からか、2月末日は日本の研究者にとって重要な日になった。なぜなら、科研費の審査結果が発表される日だからだ。

科研費というのは、「日本中の愛国者が憎んでいる」でお馴染みの研究資金のことだ。これがもらえるかどうかで、研究計画が大きく変わってくるという。ジャンルにもよるが、応募者のうち3割弱しか選ばれないから、厳しい。

私は研究者ではないが、たまたまこの科研費にかかわる機会があったので、2 月 27 日のことは気になっていた。この日に発表されるとはいえ、何時だかはわからない。なので、元 Twitter(現 X)をチェックしたりしていた。

すると研究者たちが「科研費に当たった」という表現は適切か・不適切という議論をしているのが目に入ってきた。ある人に言わせれば、科研費というものは厳正なる審査の結果によるものであるから「当たる」だの「外れる」だの、クジみたいにいうのは不謹慎だというのだ。

いっぽう、科研費の審査は、どの審査員が担当するかとか、他のどの応募書類と一緒に審査されるかとかはわからないのだから、応募者にとっては運としかいえない要素もある、そうなると「当たる」もまったく的外れではない。

普通は「採択される」とかいうのがいいらしいが、これでは硬すぎるということだろう。ほかにいい言葉はないか、私も考えてみたが「略奪する」とか「もぎ取る」とか「ほじり取る」しか出てこなかった。

しかし、なんでもそうだが、科研費は応募しなければもらえない。犬も歩かなければ、当たりようもなかろう。

苦い文学

The Fly

数日前からチュニジアはラマダーンに入つた。ラマダーンと云ふのは月の名前で、此の一ヶ月、ムスリムは断食することになつてゐる。断食と云ふと厳しいやうに感じるが、日が出ていない間は食べることができる。又、日が沈むと人々は外に出て、深夜までカヘェに集まつたり、遊んだりして過ごす。特別な催し物も彼方此方で開催される。だから、ラマダーンは日本の年末年始のやうな娯しい時期でもある。

そんな中、私は、ホテルを出て、数時間調査をして、ホテルに戻つて記録を纏めると云ふ事を数日、繰り返してゐた。調査の間は人と会ふが、ホテルにゐる間は独りだ。別に作業自体は苦にならなかつたが、日に日に孤独が身に沁みてきた。

そんな時私は一匹の蠅に出会つた。其の蝿は、寝台の上で書き物をしている私の手や顔にぴたりと停まつたり、ノォトの上を這ひ回つたりした。私は殺さうと思つて何か叩く物を探したが、新聞紙も雑誌もなかつた。幾度か手で払ふ内に、やがて其れも面倒臭くなつた。暫して、私は蝿が傍の黒の掛布の襞にじつとしがみ付いてゐるのを見た。私はなんとなく友人がやつてきたやうな心持ちになつた。

ラマダーンの間は、日中は何処のカヘェも食堂も閉まつてゐる。朝早いせゐか、人通りも何時もより少なく静かだ。調査に行く為に大通りを歩いてゐると、普段は賑やかさに紛れていただけなのか、矢鱈と蝿が飛び回つてゐるのに気がついた。

飛び交ふ蠅たちは私の顔に頻りにぶつかつてきた。私は微笑みながら歩き続けた。

苦い文学

真夜中の国会

議員たちは、居眠りにたいする不寛容が広がるにつれ、苦しみはじめた。ある議員は不眠を訴えるようになった。就寝中にも国民の目が向けられているような気がして、もう眠れなくなったのだ。またある議員は居眠りをしないように覚醒剤に依存しだした。密売議員が国会のトイレでヤクを捌くようになったが、不逮捕特権があるので警察は何もできなかった。

議員たちの苦しみが頂点に達したとき、議長は宣言した。私たちは議員であるあいだはもはや寝ない、と。ちょうどそれを可能にする医療技術が生まれ、かくして議員たちは眠らなくなった。

眠らない議員たちは、昼も夜も働いた。日中の国会が終わり、しばしの休憩ののち、深夜に再び国会が開かれた。国民たちは、不眠不休の議員たちの働きぶりに感嘆し、「我が国では政治がついに24時間営業になった」と誇らしげに語った。

政治は激変し、次々と政策が実現していった。「スピード感よりもスピードのほうがよいのだ」と国民たちはあらためて気がつき、喝采を送った。

しかし、次第に奇妙なことが起きはじめた。昼の国会と真夜中の国会にずれが生じてきたのだ。昼に議決されたことを、真夜中の議員たちは覆した。昼の議員たちが穏便に済まそうとしたことを、夜の議員たちは過激な言葉で攻撃した。

昼の議員たちは、真夜中の議員たちが勝手なことをしすぎると批判した。「真夜中に考えたことは朝になってみると歪んで見えるものだ! 夜の議員たちは少しは落ち着いて考えたほうがいい」 これに対して真夜中の議員たちは「昼行燈どもに政治の何がわかる」と嘲笑った。

昼の国会と夜の国会の緊張は高まっていった。そして、ある深夜、真夜中の国会はついに、昼の国会に宣戦布告することを全会一致で承認した。

こうして我が国では昼と夜の戦争が始まった。

苦い文学

ピラミッド時代

私たちが子どもの頃、ピラミッドの本を見ると、たいてい奴隷の姿があった。

奴隷たちは苦悶の顔つきで巨大な石をロープで運んでいた。そして、奴隷たちの傍には、ファラオの安価版みたいな監督が立ち、怠者を鞭でぴしゃりとやるのだった。

その後、研究が進み、ピラミッドの建設作業員は奴隷ではないということがわかった。

彼らにはささやかな家があり、仕事終わりには楽しくビールを飲んでいたというのだ。巨大な石の運搬方法もずっと洗練されたものになった。鞭をふるっていた監督たちは、いまやパピルスを広げて指図していた。

「我々と同じ暮らしをしていたのだ」と私たちは思った。

「きっと作業員たちは誇りをもってピラミッド建設に従事していたことだろう。なにしろ『地図に残る仕事』なのだから」

「時代が変わろうと人間というものは同じなのだ」

こんなふうにさまざまな感慨が述べられた。そのせいで「ピラミッド時代の人々が奴隷ではないというより、今のわれわれも奴隷だということでは」という意見は埋もれてしまった。

その後の研究の進展についてはわからない。というのも、私たちの世界では破滅が進行し、研究どころではなくなったからだ。

私たちの暮らしは徹底的に破壊され、ピラミッド時代の奴隷たちにもとうに追い抜かれてしまった。

苦い文学

『イエス、マスター』

日本語教科書のスタンダードといえば『みんなの日本語』だが、日本語学習者の多様化につれ、それぞれ独自の特徴をもつ日本語教科書が開発されるようになった。

例えば、『いろどり』(国際交流基金日本語国際センター)は、留学生向けというよりも、日本で生活する人が「できること」を増やすのを目的とする教科書だ。これは無料でダウンロードでき、地域の日本語教室や、ボランティアが自由に活用できる。

最近公刊された教科書『イエス、マスター』もまた独自の特徴を持っている。この教科書は日本に連れてこられた外国人奴隷を対象としたもので、「できること」よりも「しつけ」を重視している。例えば、第4課はこんな具合だ。

第4課 それ、渡せ。(お仕置き場面での会話を学びます。)

田中さん:こら、お前、また愚図愚図しやがって。
奴隷:イエス、マスター
田中さん:はて、どうしようもない奴よ。お前を見ているだけで俺は苛々するのだ。
奴隷:イエス、マスター
田中さん:ここはひとつ懲らしめてくれようか。
奴隷:イエス、マスター
田中さん:おい、棚にスタンガンがあるだろ。
奴隷:イエス、マスター
田中さん:それ、渡せ。
奴隷:イエス、マスター
田中さん:やあ、覚悟しろ。
奴隷:イエス、マスター

このように「奴隷」と「田中さん」との一方向的な会話を通じて、自然な日本語が身につくようになっている。文法的な説明はまったくないが、これは「奴隷に文法は必要ない」という最新の第二言語習得理論に基づくものだ。

興味のある方は、「日本奴隷しつけ基金」のホームページを参照してほしい。無料でダウンロードできるが、国際人権監視団体から若干の制裁が科せられる。