ライブ

黙ってお三味を弾いてくれ(終わり)

前にも書いたが、掛け声は難しい。

みんなの音を揃えるためのものだが、鶴澤三寿々先生の掛け声を聞くと、それだけではない。体が三味線と一緒に歌っていて、音と音の間にその声が漏れ出たものが、掛け声になった、という感じだ。「音が鳴っていないときも休みではない」というのは先生の言葉だが、そのあいだも体は演奏を続けているのだ。

もちろん私はそんな境地には至るべくもない。そこで私が案じた作戦はといえば……

とにかく大きい声を出す。もう恥ずかしいだなんていってらんない。

毎日の練習でも、卒業発表会前日の最後の練習でも、私は声を張り上げることに集中した。鋭くもなければ、キレが良いわけでもなかった。ノリを生み出すかも怪しい。掛け声に気を取られて、手が止まる。だが、声のデカいは七難隠すだ。

そして、卒業発表会の日がやってきた。浅草公会堂第 2 集会室、定員 50 名。開場は 11 時半だ。幕が引かれた舞台に、肩衣に袴姿の私たちは並んで正座をする。先生方が私たちの前後を立ち回り、着物の襟や肩衣を直してくれる。「開演 1 分前!」と声が上がる。幕が上手から下手へと引かれていく。私たちは、三味線を棹の付け根に手を添えて、頭をほんの少し下げている。

舞台のいちばん右側にいる私の前を幕が通る。幕が開いたのだ。「とおおざいいい、とおおざいいい」と独特な声が呼ばわり、チョン、と柝が鳴る。

私たちは頭を上げ、姿勢を正し、三味線を構える。私は心を決める。

「ハッ!」

12 分ほどの演奏の後、幕が引かれた。私たちは舞台の裏から外の廊下に出る。「出入り口で三味線をぶつけないように!」と声が飛ぶ。三味線を大事に抱えながら、なかば夢見ごこちで廊下を歩いていく。別の三味線の先生から「掛け声よかったよ!」と褒められた。

苦い文学

ガハハとウヒャヒャのいる店

居酒屋で飲むグループはたいてい二つに分けられる。ガハハ群と、ウヒャヒャ群だ。

どちらの背広を着た人たちが多い。おそらく、ネクタイに締め付けられていた喉を急にアルコールに晒すことによって発生する痙攣を、うまく利用しているのだろう。

このガハハとウヒャヒャにどんな機能があるかというと、ナワバリの誇示だ。「自分たちはこんなにガハハだぞ」「いや俺たちのほうのウヒャヒャにはかなうまい」 居酒屋内では、客のグループがそんなふうに競い合っているのが観察されている。

あるとき、いつも一人での酒を飲む私が、たまたまガハハ群とウヒャヒャ群の間に座ることになった。ガハハとウヒャヒャがずっと私の左右に聳え立っていた。まるで険しい山のようだった。私は酒を味わいながら、自然豊かなその山々を見つめていた。

そうした経験もあり、私もガハハとウヒャヒャをやりたくなった。ガハハとウヒャヒャに守られて、酒を飲んでみたくなったのだ。だが、どうやっても私の喉は痙攣してくれなかった。もしかしたらなにかが自分には欠けているのかもしれない、と悔しくなった。私はガハハとウヒャヒャの世界から締め出されていたのだ。

だが、私のような人はたくさんいるものらしい。「ガハハとウヒャヒャのいる店」という居酒屋では、客が希望すれば、ガハハかウヒャヒャの音声を発するスピーカーを持ってきてくれる。毎晩の酒宴がもう楽しみでしかたがない。

苦い文学

送金者

明け方、まだ寒い時間に街を歩いていたら、なんとも不思議な人を見かけた。

それは垢で汚れた服を着た年老いた男で、ひとりでなにやら楽しげにキャッキャキャッキャ声をあげているのだった。近づくとこんなことを言っているのが聞こえた。

「さあさあ、みんなもうやめなさい。おじさんはみんなが立派な大人になってくれれば、それでもう満足なんだよ!」

はじめは頭のおかしい人かと思ったが、どこか違うのだ。幸せそうで、みている私までが楽しくなった。私は我慢できずに話しかけた。

「失礼ですが、いったいなにをしてらっしゃるのですか? なにがそんなに楽しくていらっしゃるのでしょうか?」

「これはとんだところを見られてしまいました。なに、お金を送金しているだけです」

「送金といいますと?」

「大谷翔平選手の口座にアクセスする権利をいただきまして、そのお金を送金しているのです」

「えっ、あの大谷選手の……。もしかしてあなたが?」

「あっ、ほんとじゃないですよ。もし大谷翔平選手の口座から自由に送金できるとしたら誰に送金しようかと考えて楽しんでいるのです」

「なんとすばらしい趣味をお持ちのことでしょうか」

「ええ、さっきも貧困家庭の子どもたちにいっせいに送金して、喜んだ子どもたちに囲まれていたところです。まったくこのイタズラ小僧たちときたら私を胴上げさせてほしいと言って聞かないのです!」と彼は周りをぐるりと見回して、見えない子どもたちに話しかけた。

「さあ、おじさんは忙しいんだ。行った行った。自由に楽しく生きるんだよ!」

私はすっかり感心してしまった。「うらやましいかぎりです。不躾なお願いで申し訳ありませんが、この私にも送金していただくことなど可能でしょうか」

「もちろんですとも! いかほどあれば?」

「いえ、そんな、いくらでも……」と私は口ごもり、私たちのあいだにしばしの沈黙が訪れた。

そのとき、老人の腹の虫が鳴いた。いや鳴くどころではない。咆哮したのだった。私は失礼を承知で言った。

「ずいぶんと空腹のご様子ですが」

「ええ! 送金するのに忙しくて、ここ数日なにも食べていないのです」

私は千円札を取り出すと、老人に押しつけた。喜びのあまり老人はこう言わずにはおれなかった。

「この千円には一億円の価値がありますよ! さっそく一億円送金させていただきました」

「もう!」

「礼には及びませんよ。さあさあ、銀行に行って残高を確認してください!」

私たちは別れた。世界は実はこんなにもすばらしい場所だったのだ。

苦い文学

昆虫食とトランプ

このまま世界人口が増加すると、深刻な食糧危機が訪れるかもしれない。そのような危機感から、食糧としての昆虫が注目を集めている。

昆虫を食べる文化は日本にもあるが、それでも多くの人々にとっては食べつけないものだ。

そのため、昆虫食に対して嫌悪を示す人もいる。そればかりでなく、「特定の勢力による昆虫食のゴリ押し」だと主張する陰謀論者まで現れている。

陰謀論はともかく、昆虫を美味しくいただけるようなレシピがどんどん開発されれば、嫌悪感もなくなるのではないかと思う。

そのレシピづくりにさいして大きな役割を果たしてくれそうなのは、トランプ前アメリカ大統領の支持者たちだ。

というのも、これらの方々は、周りから見てゲテモノとしか思えないものをじつに美味しそうに、しかも熱狂的に食べているからだ。きっとコオロギを美味しく食べる方法も知っていることだろう。

同様に日本の保守派と陰謀論者も、まともな人なら見向きもしない汚物にむしゃぶりつく習性で知られている。その高度な調理テクニックを我が国の昆虫食の発展に大いに生かしてくれることを期待したい。

苦い文学

ケンカ

「留学生」というとまるで均一の集団のように聞こえるが、当然のことながら異なる国からの出身者から構成されている。

そして、国や文化が違えば、軋轢も生じやすい。これも当然のことだ。

あるとき、授業中に留学生の間でケンカが起きた。教員が収めようとしたが、双方とも頭に血が昇って耳になんか入らない。しかも、ケンカは他の学生にも飛び火して、ますます手がつけられなくなった。

その教員はもはや自分では解決できないと判断し、教室を出て他の教員を呼びに走った。

同じ階では他に授業は行われていなかった。下の階に行くと明かりがついていない。そこで、上の階に行くと、別の教員がいた。その教員に事情を話して二人で下の教室に駆けつけた。

そして、二人の教員は目撃したのだ。

もぬけの殻の教室を。

教員がいなくなったので、みんな授業が終わったと思ってさっさと帰ってしまったのだ。あれほどいがみあっていた学生たちも、帰りたいという気持ちでは一致団結したというわけだ。