散文

カレン・ニューイヤー 2026(1)

今年もカレン・ニューイヤーの時期がやってきた。

これはビルマとタイに住むカレン人が新年を祝うお祭りで、日本でも在日カレン人によって開催されている。私の記憶では1999年にはもう行われていたと思う。

私はほぼ毎年参加しているが、時期も会場も毎年違う。それはカレン人の伝統的な暦が太陰暦を用いているとかで、祭りの日が 12 月の末だったり、1 月の初めだったりするからだ。しかし、在日カレン人の多くは普段は働いているので、その年のニューイヤーにいちばん近い週末に設定されることが多い。今年は、12 月 27 日のお昼からということになった。

会場もいつも違う。以前はカレン人コミュニティも小さかったので、結婚式場のような場所で十分だったが、今はそうはいかない。カレン人も、そのほかのビルマの人々も増えた。だから最低でも、500 人は入れる会場でなくてはならない。

年末にそんな会場を東京で見つけるのはむずかしい。これは在日カレン人コミュニティの大きな悩みで、それもあって、夏前ぐらいから会場選びが始まったりする。

今年の会場は赤羽の赤羽会館で、1階席2階席合わせて 650 人のキャパだ。だがそれももうギリギリというくらいの盛況ぶりであった。

苦い文学

うさぎとかめ

私の人生は、まさに恥辱と侮蔑そのもので、喜びや歓喜とは無縁の寂しいものだ。生きる価値があるものかわからない。だがそれでも生きている。

もっとも、人生を終わらせたいとき、つまり、どこかの高みから身を投げたいときもある。そんなとき、私はいつもある物語を思い出す。その物語には不思議と私に命を捨てさせない力があるのだ。

それは「うさぎとかめ」という物語だ。

うさぎとかめがかけっこの勝負をするのだ。うさぎは足が速いからどんどん先に行ってしまう。かめはノロマでぐずぐず歩いている。うさぎは勝ちを確信して、途中で一休みして眠ってしまう。その間にかめは追い抜き、うさぎより先にゴールしてしまうのだ。

元気が出る。勇気が出る。そして、もう少し踏ん張ってみようという気になる。この物語にはそんな力がある。

うさぎはこの物語のために負け、その結果、この物語が語られるかぎり、敗者という汚名を着せられることとなったのだ。だが、この汚名を苦にして、うさぎが滅びたという話は聞かない。最大の恥辱も、うさぎを打ちのめすことはできなかったのだ。

同じく敗者であるこの私も、打ちのめされぬものであり続けたいと思う。

苦い文学

ゲロの町

ここは豊島区と新宿区と渋谷区に囲まれた「年谷町(としやちょう)」という小さな地区。2023年、暮れも押し迫る12月29日金曜日、それは起きた。

【午後11時15分】
突如として鳴り渡った異常な地響きに、寝支度をしていた住民たちは騒然となった。地震かと慌ててネットを見た人々は、いかなる警報も見つけることはできなかった。

【午後11時20分】
再び恐ろしい地鳴りが街を揺さぶった。家の外に出た住民たちはこう叫ぶ声が聞こえたのを記憶している。

「逃げろ! 逃げろ! ゲロだ!」

そのとき、住人たちは、とろみのある液体が足もとにひたひたと押し寄せているのに気がついた。

【午後11時45分】
住民たちの避難がはじまる。ゲロは徐々にかさを増しつつあったが、十分に歩行可能な状態であった。

【午後11時58分】
ゲロの水位は10センチにまで到達。

【午前0時08分】
ゲロが一瞬のうちに引く。そしてしばしの静寂ののち、住民たちは高さ10メートル以上の黒い壁が迫り来るのを目撃した。

【午前0時09分】
ゲロの高波によって年谷町は壊滅した。

《災害の原因は》
災害後に直ちに調査が実施され、年谷町にゲロが押し寄せるという未曾有の災害が発生したのは、以下の4つの条件が偶然にも重なったためであるとの報告がなされた。

1)新型コロナウイルスが5類に移行して迎える初めての年末であったこと。
2)忘年会や年末の飲み会が最後の金曜日であるこの日、12月29日に集中していたこと。
3)年谷が豊島区・新宿区・渋谷区に囲まれた低地であったこと。
4)これらの各大繁華街で発生した大量の酔っ払いたちが一斉に・盛大に嘔吐を始めたこと。

《住民たちは訴える》
ゲロに足を滑らせて転倒した少数の負傷者を除けば、奇跡的に住民たちは全員無事であった。しかしながら、住居と財産を失った住民たちは、都が災害を予測しうる立場にありながら十分な対策を怠ったとして補償を求めた。都は適切な支援を行うとしながらも、災害の責任については否定した。これを受けて住民側は都を相手どって提訴。

人災か天災か、法廷がどのような判断を下すかが注目される。

苦い文学

国家と社会

「国家と社会は同じものではない、ということは覚えておいたほうがいいな」と先生は言われた。

「どういうことでしょうか」と私。

「つまり、国家は社会の中に存在するのであって、その逆ではないということだ。もちろん、『その逆』を夢想する人々もいる。国家主義者と呼ばれる人々だ。そうした人々によれば、この世に存在するあらゆるものが国家によって意味づけられることになる。だが、これは本質的には矛盾をはらんでいるが、わかるかな?」

「ええ、なぜなら、国家は一つだけではないからです」

「そうだ。そのため、国家どうしがある事柄に対して異なる意味づけをして、対立することもあるのだ。極端な場合には、この対立が戦争の口実となったりもする。それゆえ、こうした対立を無効化する、いや少なくともやわらげるためにも、国家がすべてではない、つまり国家よりも社会のほうが大きいという視点を持つことが大事なのだ」

「社会どうしが対立することもあるのではないでしょうか」

「確かにそうだ。しかし、社会は国家とは異なり、別の社会と必ず繋がっている。いくつもの連鎖する社会が地球上を覆っているのだ。その意味では、社会は一つだ」

「では、社会という視点に立って物事を捉えればよいということでしょうか」

「そうだ、と言いたいところだが、実はそれが簡単ではないのだ。というのも、社会は国家以上に複雑で、わからないことがまだ多いから。だが、なんにせよ、国家がすべてではない、ということを知るのは重要なことだ」

先生はしばらく黙ると、次のように言われた。まるで自分に言い聞かせるような口調だった。

「だから、国家に必要とされないからといって、気を落とすことはない。社会に必要な存在となることのほうがはるかに有意義なのだ」

私はこの言葉に感動し、その後の人生でいくども思い返すこととなった。先生はもはやこの世にはいないが、ただひとつ残念なのは、国家はおろか社会にも必要とされない場合はどうなるのか、聞いておかなかったことだ。

苦い文学

亀の描いた絵

亀が考えた計画はこうである。

海辺の村に行く。計画にうってつけな村人を探す。その村人に近づき、簡単に財宝が手に入るうまい話がある、とことば巧みに誘う。計画を話し、成功すれば財宝は山分けであると請け合う。村人としっかり打ち合わせをし、細かな点でも口裏を合わせておく。

それから、主人のもとに戻り、いじめられているところを村人に助けられたという虚偽の報告をする。感心した主人の命により、村に行き、共謀者の村人を背に乗せて主人のもとに戻る(主人より往復の手間賃を貰うこと)。

村人は亀と事前に打ち合わせたとおり、いじめられている亀を助けたことをつぶさに主人に語り、亀の報告を裏付ける。かくて主人は報告を信じ、村人に金銀財宝を与える。亀は財宝とともに村人を甲羅に乗せて村に戻る。途中の海で村人を振り落とし溺死させる。そして財宝を秘密の場所に隠す。

しばらく待ってから、主人のところに戻り、村人を無事送り届けたと報告する(往復の手間賃をきっと貰うこと)。