旅・観察

わからないままに

私はSさんに二〇二五年の二月に出会い、ベルベル語を教えてもらうことになった。さらに八月にもう一度、そして今回、今年の六月にも引き続き教えてもらった。

Sさんはベルベル語は母語だが、普段はアラビア語を使う。家でもベルベル語をいつも使っているわけではない。そのせいか、教えてもらっていても、言葉が出てこないことがある。そうしたとき、Sさんはお母さんに電話して確認してくれる。

もっとも、電話をして向こうが出る前に、思い出してくれることもよくある。いずれにせよ私は、Sさんに教わる言葉にも、不確かなものが含まれているのではないかと思っていた。

しかし、チュニスに戻ってきたとき、Sさんはこんなことを話してくれた。それは「泥棒」という言葉のことで、以前、私はそのベルベル語の単語を教えてもらったことがあった。

「泥棒をベルベル語でなんていうか、村の人たちは知らなかったよ。忘れてしまったんだ」

もちろん、これは村人全員に当てはまるわけではないと思うが、村の中でもすでに言葉が失われはじめているとしたら、Sさんがときどき思い出せないのも、それ自体が今のこの言語の姿なのかもしれない。

ジェルバ島から、チュニスに帰る長い道中で、Sさんが言った。

「みんな少しずつ言葉を忘れていき、少しずつ失われていく。私たちだって、わからない言葉を母に尋ねるけど、もし母がいなくなったらどうする? わからないことはもうわからないままになってしまうんだ」

私がこれまでに、この言語についてSさんから学んだことはほんのわずかなことだ。しかも、間違いもたくさんあると思う。だが、それでもわからないままになるよりはマシではないだろうか。

苦い文学

きっと

10代の人と話していて、ある約束について確認を求められた。私が「もちろん行く、きっとだよ」と答えると、その人は不審げな顔つきでこう返事をした。「え、絶対じゃないの?」

私は「絶対」のつもりで言ったのだが、ここで「きっと」の意味が違うのだということに気がついた。辞書で「きっと」を見るとこう書いてある。

・確実にそうなるだろうと予測しているさま。
・あることが確実に行われるさま。必ず。

漢字で書くと「屹度」「急度」だ。当て字ということだが、厳しそうな漢字からして「絶対だぞ」という感じがする。

だが、若い人はそうは受けとらなかったのだ。なぜなら、「きっと」はこんなふうに使われることも多いから。

「きっと彼は来るだろう」
「いつかきっと……」

「だろう」とか「いつか」と一緒に使われると、「絶対」よりも確実性が下がり「たぶん」に近くなる。この問題についてはネットでもいくつか意見があり、「たぶん」と感じる人のほうが多いようでもある。

もっとも、キットカットの「きっと勝つ」が「たぶん」では応援にならないから、「絶対」の感覚もまったくなくなってしまったわけではない。

それはさておき、私はこの「きっと」が、どちらともつかない場合があることにも気がついた。まずこれを見てほしい。

きっと君は来ない
ひときりのクリスマス・イブ

山下達郎はどちらの「きっと」で歌ったのだろうか。まず「来ない」と言い切っているからには「絶対」だろう。また山下達郎の世代からいっても「たぶん」ではなさそうだ。つまり、「絶対に来ない」と言っているのだ。

しかし、疑問がないわけではない。絶対に来ないとわかっている人がいったい、「ひとりきり」だの「まだ消え残る」だの未練がましく歌うものだろうか?

苦い文学

薬局の神託

ソクラテスは、毒薬の入った杯を飲むとき、周りの者に医神アスクレピオスに鶏を奉納するようにと語ったそうだ。私は薬局に行くといつもこのことを思い出す。

とはいえ、薬局といっても、処方箋を出せば数分で終わる迅速に薬の出る薬局のことではない。薬が出てくるまでやたらと時間のかかる薬局のことだ。

こうした薬局では、処方箋と引き換えに受付票が渡され、それから呼び出されるまで、少なくとも1時間だ。いやもっとかかる。閉店までに間に合わなくて、翌日にまでかかることもある。

そんなに薬を揃えるのが大変なのだろうか。あるいは、大きな薬局の薬剤師はがんばり屋で、いつも薬の入った箱を何段にも抱えて走り回っているせいで、前が見えなくて、他の薬剤師とぶつかって薬をぶちまけてしまう、ということでもあるのだろうか。

それとも、膨大な薬を収蔵する薬保管室がもうまるで迷宮のようで、一度薬を取りに入ったが最後、二度と出てくることができないのだろうか。それか、大きな薬局は、待つことが自然治癒力と免疫力を高めるという、独自のセルフメディケーションを提供しているのであろうか。

まったく見当もつかないが、薬局でひとり何時間も待たされる私は、これはきっと、お前にはつける薬もなく、匙も投げたぞ、というアスクレピオスからのメッセージではないかという気がしてきて、毒薬をあおりたくなるのだ。

もっとも、その毒薬を出してもらうのにも、そうとう待たねばならないのだが……

苦い文学

AI 時代の隠者(2)

取材も終わりこの現代の隠者の家を去るときがきた。私は帰りぎわにふと思いついて、こう言った。

「これから私は AI の世界に戻りますが、そこであなたのことを記事に書こうと思っています。もちろんネットを通じて配信する予定です」

「どうぞ」

「ですが、記事に書かれたあなたの情報のせいで、あなたが『AI の餌』になってしまうのではないでしょうか」

「ああ、その心配ならいりません」

「といいますと」

「あなたが立ち去ったのちに、何百万ものフェイクニュースが流れるからです。そのニュースはあなたに似た人物が私に似た人物を訪問した記事で、無数のバリエーションがあるのです。あなたの書いた記事はその記事に埋もれてしまうことでしょう」

「ニュースを流すとは? ここにはネットも何もないとおっしゃっていましたが?」

「ここにはありません。ですが、無数に配信される記事の中で訪問された私の小屋のひとつにはあることでしょう。そこでは強力な AI が無限ともいえる数のフェイクニュースをこしらえているはずです」

私は混乱した。すると彼は笑った。

「お気づきでしょうか。あなたもこれらのフェイクニュースの一部なのですよ。あなたも、私も、この小屋も、なにもかも、あなたのお書きになる記事も、それを読んでいる人ですらも」

私には理解できなかったが、ここにありのままを記した。

苦い文学

電車の席

電車には席があり、優先席ではない限り、誰でも座れる。

指定席ではないから、早い者勝ちだ。空いていれば座れるが、空いてなければ立っているしかない。

先に座った人が電車を降りるかなどして退けば、席が空く。この席を取るのも早い者勝ちだ。

不思議なのは、席に座りたい人が、先に座っている人に「おい、お前どけ、俺に座らせろ」と言って座る、といったことがまず起こらないことだ。

こうしたことがまったくないとは言い切れないが、少なくとも私は目にしたことがない。また、今なら、こうしたことが起きれば、ネットでニュースになりそうなものだが、そうした様子もないから、やはり非常に稀なのであろう。

これはどうしてだろうか。私には少なくとも二つの仮説がある。

一つは、我々が、電車の席はそうまでして奪うものではないと考えているから、というものだ。先に座っている人を無理やり動かすのは、ストレスとリスクをともなうが、そうまでしなくても、待っていれば座れる可能性もある。

これがもし、席に座れなければ、つり革に電流が流れてきて殺される、とかならば、我々も必死になって席を奪うだろうが、さいわいにして、そうした状況が生じる可能性は低い。

もう一つの仮説は、席を無理やり奪うような人は、電車などに乗らないから、というものだ。席を奪うような人間ならば、もっと大きなものを奪って、運転手付きの自動車で移動しているか、刑務所にいるかのどちらかであろう。