ライブ

Todd Rundgren @ NHKホール

ここ数年、私は 10,000 円以上のライブには行かないことにしている。ほとんど 5,000 円以下だ。これだけ払えば、東京ではいろいろな音楽を楽しむことができる。

しかし、今回ばかりは私はこのルールを破った。トッド・ラングレンのライブ(Billboard Live presents Todd Rundgren Japan Tour 2026)に、16,800 円という大金を払った。普段のライブ 4 回分だ。

私は 18 の頃からトッド・ラングレンを聴き続けてきた。ライブも初めてではない。トッド・ラングレンもいい歳だし、私もいつ死んでもおかしくない年齢に入った。そう考えると、次はないような気がした。

そして、NHK ホールには、私よりも次はなさそうな年齢の観客が詰めかけていた。私などまだ若手だった。

私の席は、16,800 円にはふさわしからぬ 3 階のひっそりとした隙間にあった。ライブが始まる。音が遠く聞こえる。ステージのトッド・ラングレンも小さい。レジェンドは遠くにありて思うものなのだろうか。16,800 円が頭をよぎった。4,000 円のライブの生々しい音に慣れると、音圧が物足りなかった。

途中で、アコースティック編成に変わり、「cliché」が始まる。音がずっとリアルに届いてきた。私の両の目から涙がこぼれ落ちそうになったが、16,800 円のことを思い出したら引っ込んだ。しかし、この辺りから私は音に慣れた。

「Honest Work」をアカペラで披露したのもよかったし、相変わらず「I saw the light」で奇声を上げたのもうれしい。あまりライブでやらなさそうな「I don’t want to tie you down」にも目頭が熱くなった。

「Bang the drum all day」では、観客の女性をステージに上げ、歌うトッドの横で、ドラムを叩かせた。この楽しい演出には、幸運な女性ばかりでなく、観客の誰もが幸せになった。

そして締めくくりの「Hello, it’s me」は、トッドらしい自由自在の演奏で、数えきれないほど聴いた曲だが、それでも新鮮だった。終わってしまうのが惜しいくらいだったが、それでも 16,800 円はちょっと惜しいと思った。

苦い文学

Apple Music の手(1)

ギリシア神話のミダス王はその手に触れたものを黄金に変え、チェッカーズは触れるものみな傷つけたと、言い伝えは語るが、この現代では、Apple Music が同じことをかねてから行なっているようだ。つまり、触れるものみなカタカナに変えてしまうのだ。

私たち Apple Music ユーザーがずいぶん昔から困っているのは、このサービスが海外の有名ミュージシャンやバンドを、例えば The Rolling Stones は「ザ・ローリング・ストーンズ」というように勝手にカタカナにしてしまうことだ(しかも、いつのまに中グロまで出現しているのだ)。

いや、もちろん、日本だから、カタカナに変えてもいいのだ。だが、それならばなぜ「DREAMS COME TRUE」は「ドリームズ・カム・トゥルー」とならないのだろうか? Ado は「アド」に? 「いや、これは日本でそういう名前だからいいのだ」という人もいるかもしれない。ならばイギリスでは The Rolling Stones は The Rolling Stones なのだから、日本でも The Rolling Stones であるべきではないだろうか?

しかも、私たちのこうした疑念にもかかわらず、この恐ろしき Apple Music の手は日々カタカナ化を推し進めているのだ。去年は原語表記であったミュージシャンもいつの間にかカタカナになり、今、アルファベットのバンドも、来月にはカタカナとなっているかもしれない。

こうして私たちの洋楽ライブラリはカタカナに侵食されていく。そのうちすべてのローマ字が放逐されないとは、誰が言えようか?

苦い文学

働く車たち

私は空港で飛行機に乗る機会があるたびに人生というものを学んでいく。なぜならそこにはおかしな形をした車で溢れているからだ。

頭でっかちで胴体のない車に、ヒラメのように平たい車。短いハシゴを背負った車に、電話ボックスの生き残りのような小さな車。空港以外のどの場所でも見ることのできない車たち。

思うにこれらは、普通の道では一瞬たりとも生きてはいけない車たちなのだ。

その生い立ちはきっと悲しいものにちがいない。なにか非人道的な実験のために無茶な改造を施され、その挙げ句に捨てられたのだ。あるいは、狂気の自動車工学博士がフランケンシュタインみたいに製作したものかもしれない。

これらの車たちが舐めた辛酸と差別を思うと私は苦しくなる。

だが、ここ空港では別なのだ。その普通とは違った形が実に役に立っているのだ。平たい車は航空機の部品を運ぶのにうってつけだし、階段を移植された車はなんとタラップ代わりになることがわかった。

どの車も楽しげに走り回り、立派に働いている。自信と尊厳に満ちたこれらの車を見ていると、私は思う。

「どんな姿形であろうと引け目を感じることなどない。絶対に役に立つ場所、必要とされる場所があるのだから」と。

悩み多き人生を歩む私は励まされたように感じ、心も軽やかに空へと飛び立つ。

苦い文学

墓の見守り

私たち日本人にとって、墓はとても大切なものだ。季節ごとの墓参りは欠かせないし、いつだって墓の状態を最良に保たねばならない。なぜなら、墓の状態の良し悪しは、家族の幸運や健康に直結する大問題だからだ。

そこで、私たち日本人は墓に何かがあるとすぐわかるような仕組みを作り上げた。

たとえば、墓の手入れがしてなくて、草がぼうぼうに伸びている。これは家族の不運を予想させる由々しき事態だが、心配はいらない。すぐに夢のお告げで異常発生の通知が来るようになっているのだ。

あるいは、嵐が過ぎ去った後なんかによくあるが、墓石の上に折れた枝なんかが乗っかっている。

するとただちにご先祖さまが枕元に立つ。何にも言わないが、様子でわかる。苦しそうで、鬱陶しそうだ。起きたらすぐに墓に駆けつけて、枝を取り除く、ということになる。

この墓の見守りは、トゥームセキュリティ(tomb security)と呼ばれる。私たち日本人は、それこそ SECOM とか ALSOK とかの生まれる以前から、墓の安全監視システムを構築してきたのだ。

いや、むしろ SECOM も ALSOK も、墓の見守りからホームセキュリティを思いついた、というべきではなかろうか。

苦い文学

やさしい日本語

「やさしい日本語」とは、普通の日本語よりも簡単で、わかりやすくなるように配慮された日本語を使う活動のことだ。

日本には多くの外国人が暮らし、そのすべてが十分な日本語能力を持つとはかぎらないため、こうした取り組みが進められるようになった。とくに災害時の情報提供や官公庁の通知などで用いられている。

我らが入管でもいつのまにかこの「やさしい日本語」がはじまっていた。次の例は2020年6月9日の入場制限の整理券に書かれていたものだ。

「新しいコロナウイルスの病気を広げないために、建物に入る人の数を15分ごとに決めています。」(ふりがなは省略)

これは普通なら「新型コロナウイルス感染拡大防止のため15分ごとの入場制限を行っています。」とでもなるところだろう。

こうした取り組みは、もちろん重要だと思うが、入管には「やさしい日本語」よりさきに外国人に対する「やさしい心」を導入してもらいたいと思うのは、私だけでなかろう。