散文

コレサワのかぶりもの

昨日 11 月 22 日、私は日帰りで岡山大学に行った。日本言語学会の大会で、ポスター発表をするためだ。題目は「ベルベル語ターウジュート方言(南部チュニジア)の動詞活用」だ。

ベルベル語というのは、北アフリカ・西アフリカで話されている言語だが、チュニジアでは話者は非常に少なく、そのうちなくなるのではといわれている。

私は今年の3月と8月に、チュニジア南部のターウジュートという村の出身の人に協力してもらい、ターウジュート村のベルベル語について教えてもらった。教えてもらったのは合わせて4週間ほどなので、わからないことばかりだが、それでもなにもしないよりはマシだと考えて、発表することにした。

テーマは、動詞の活用だ。基本中の基本だが、動詞活用が複雑なので、全部はわからない。それでも、手持ちのデータでなんとか発表らしき形にすることができた。

ポスター発表は 16 時から 1 時間 15 分の間だ。会場でポスターの前に立ち、聞きに来てくれた人々に説明するというのが発表の形態だ。私は自分の発表が研究のレベルに達しているかどうかわからないので、始まる前までは緊張していた。発表が始まっても、話す順番を取り違え、やたらと早口になった。そんなふうではあったが、関心を持ってくれた多くの人に聞いてもらえたのはありがたかった。

ところで、岡山駅から岡山大学までどうやっていけばいいかわからなかったので、歩いていくことにした。30 分ほどの道のりで、道もわかりやすい。歩きながら、発表のことを考えると気が重くなった。

途中にあったケーキ屋のウィンドーに、見覚えのあるクマのキャラが貼られていた。コレサワのマスクのイラストだ。岡山理科大学の大学祭のイベントでライブが行われるようだ。開催日は 11 月 22 日、つまり今日だ。私はせっかく来たのだから、発表が終わったら行ってみよう、と思ったが、よく見たら開演は 16 時からだった。ちょうどポスター発表の時間だ。

私もコレサワのような大きなクマのマスクをかぶって発表すれば、緊張しないかもしれない。ただ、誰も聞きに来てくれないだろう。

苦い文学

エスカレーターからの転落

今日、私は都会の大きなデパートに買い物に行った。陽気のせいかすごい人出で、出かけたことを後悔するほどだった。駅のデッキからデパートに入ると、エスカレーターの前が混雑している。みな左側に乗るばかりで、誰も右側に立とうとしないため、渋滞しているのだった。エスカレーターの乗り口の上には「混雑時には2列でお乗りください」と赤字で貼ってあった。

私は呆れてしまった。最近になってあちこちで周知されているように、エスカレーターは乗るものであって、階段のように登るものではない。急ぎの人のために片側を空けること自体が間違っているのだ。それなのに、なぜこれらの人々は愚かにも何も考えずに待っているのだろうか。自分で考えることができないのだろうか。私は最近の選挙で有権者たちがなした愚かな選択を想起し、暗澹たる気持ちになった。

だが、社会はたったひとりの行為が変えることもある。私はエスカレーターの前の列を抜けて前に進むと、敢然と空いている右側に立ち、そのまま上昇していった。

しかし、どうして人々は片側を空けてしまうのだろうか。エスカレーターは登るものではない、という注意喚起はあちこちでなされており、知らないはずはないのに。おそらく、と私は考えた。急いで登ってくる「ならずもの」たちに文句を言われたり、小突かれたりするのがイヤなのだろう、と。

だが、間違ったことをしていないのだから、そんな輩など無視すればいいのだ。それができないというのは、不正を許すことだ。誰ひとりいないエスカレーターの右側に立ちながら、私は決意した。私は負けない。ならずものたちから社会を守る防波堤になってやろう、と。

私はエスカレーターの段の右側を踏み締めながら、上の階に上昇していった。相変わらず左側には人がいっぱいで、私はひとりぼっちだった。私は怖くはなかった。

エスカレーターがひとつ上の階に上がるたびに、何人もの人が列から離脱し、その代わり新たな人々が左側の列に加わった。その人の入れ替わりの結果、私ははじめて同志に出会った。それは二人の若い男女で、男が左側に、女がその横、つまり右側を占めていたのだった。そして、私はその後ろの段に立っていた。

「若いのに正義のために戦うとは愉快愉快」と感心している私の前で、男が女の腕を引き寄せた。

「ほら、邪魔になっているよ」 後ろの私に気づいた女は「すいません……」と男の方に身を寄せた。

やがて、若い男女を押しのけて、ひとりのならずものがエスカレーターを一段一段登っていった。

苦い文学

共有アカウントの怪(2)

彼女ははじめはなにが起きているのかわからなかった。亡き夫のアカウントで「現在視聴中の動画」に更新がある。これはなにを意味するのか……。

そのとき再び画面が変化した。新たな視聴中のタイトル(リチャード・ボロック主演の映画『悪魔の細胞たち』)が加わったのだ。

もしかしたらなにかのエラーかもしれない、彼女はそう考え、視聴中のタイトルのひとつ(チャン・ボンギル主演のドラマ『犯罪体質』)を開いてみた。

全 16 話のうち、第 8 話まで視聴済みとなっていた。だが、このとき、韓国ドラマのファンでもある彼女は恐ろしい事実に気がついた。『犯罪体質』は新作、つまり、夫の死後に配信されたのだ。だから、絶対に見ているはずはない

そして、彼女に取り憑いた恐れを増幅するかのように、画面が変化した。第 9 話も視聴済みとなったのだ。

彼女は恐ろしくなって再びホーム画面に戻ったが、さらなる恐怖に直面することとなった。視聴中のタイトルが 3 つも加わっていたのだった! そして、『悪魔の細胞たち』も『犯罪体質』もすでに視聴中のリストから消えていた。

ドラマ『さかしらなるゾンビ生活』(独占配信)
映画『悪の不整脈』
リミテッド・シリーズ『デスマッチ 血! 血! 血!』

しかも、彼女はこの時はじめて気がついたのだが『ゾンビ生活』と『デスマッチ』には「いいね」が押してあった。

お気に入りなのだ!

誰かが見ているとしか考えられない。しかも、ものすごい速さで、なおかつ「いいね」もつけながら……。

苦い文学

六文銭

「死んで、それから、私は三途の川にやってきました」と彼は流暢な日本語で語った。

「渡し賃にと六文銭をあらかじめ持っていたのですが、実はそれでは足りなくて。

というのも、裕福な中国人たちが冥土の土産を爆買いして、船を派手に借り切って運ぶのです。それで、我々にはもう手の届かないくらい値上がりしていました。河原の奪衣婆だって私たちには見向きもしません。あれが奪うのはいまやシャネルやエルメスだけです。

お金が足りなくて川の向こうに行けない亡者がどうなるかというと、鬼たちがやってきます。捕まえて、難民キャンプに放り込むのです。ええ、川から少し離れたところにあって、竹でできた粗末な小屋がひしめいている区域です。

難民キャンプの暮らしは大変です。お金もないですし、配られる食料もわずかです。キャンプの外にこっそり日雇い農作業に出たりして、なんとか現金を手に入れようとするのですが、これは危険ですし、本当に大変でした。

しかも、鬼たちが定期的にキャンプにやってきて、難民たちが立てた家を壊して回るのです。もちろん、粗末な小屋なので建てるのは大変ではありませんが……。

そんな生活がどれくらい続いたかわかりませんが、私はお金を稼ぎ、キャンプ内で商売を始め、それなりの蓄えができました。そのお金をブローカーに支払って、日本のビザと航空券を手に入れ、なんとか日本にたどり着きました。ですが、成田空港で上陸を拒否されて、ここに収容されてしまいました」

「それで、難民申請をしたいということなのですね」と私がいうと、面会室のアクリル板の向こうで、死者はうむとうなずいた。

音楽

【ネタバレ注意】悪魔を憐れむ歌

「悪魔を憐れむ歌」はローリング・ストーンズの代表曲のひとつだ。

ストーンズの活動は長いが、この曲を冒頭に置いた 1968 年のアルバム『ベガーズ・バンケット』から、1972 年の『メイン・ストリートのならず者』までの 5 年間が、このバンドのもっとも創造的な時期であったことに異論を挟む人はそうはいない。「悪魔を憐れむ歌」はそうした時期を象徴する一曲だ。

この曲の英語のタイトルは「Sympathy for the Devil」というもので、sympathy に「憐れむ」などという意味はない。だが、これ以上の邦題はなかなかないだろう。

歌は「自己紹介させてくれ」という男の言葉からはじまる。そして、誰も「どうぞ」とも「ぜひ」とも言っていないのに、自分はイエスの磔刑に居合わせたとか、ロシア革命やケネディ暗殺の現場にいたとかいう自慢話を並べ立てるのだ。そして、そのたびにしつこくこう聞いてくる。

「私の名前を当ててごらん」と。

いや、当てるもなにも、曲名を見れば、誰だかすぐわかる。そんなことも気がつかないウカツな悪魔に私は、憐れみどころか軽蔑すらおぼえるのだ。