風刺・戯文

中国の漢字

最近、私は YouTube などで、日本語の字幕の漢字が中国の漢字になっているのに気がついた。例えば「直」だ。この漢字が、左側の縦棒がなくなり、さらに、下の横棒が上の「目」の下辺と一体化してしまうという中国の漢字なっているのだ。また、糸編もそうだ。下の「小」の部分が3つの点になってしまう。これも中国の書き方だ。

よく考えたら、これは怖いことではないだろうか。なぜなら、中国が日本に侵入してきている紛れもない証拠だからだ。私がこういうと、こんなふうに反論してくる人がいる。

「いえ、それは中国のせいではなく、パソコンや携帯の設定のせいですよ。設定を変えれば日本の漢字が表示されるようになるんじゃないですか」

いや、たとえそうだとしても問題は、そのまま使っている人がたくさんいるということなのだ。こうしたいいかげんな人々のせいで、中国の漢字がもう取り返しのつかないほどまん延してしまっているのだ。

「まさか」と思う人もいるかもしれない、だがまさかどころではない。例えば、「一」をみてほしい。果たしてこれは日本の漢字だろうか。いや、すでに中国の「一」が日本の「一」になりすましているのではないか。こう考えると、私はもうなにもかもが疑わしく思えてくる。もはや「日本人」も、実は中国人なのではないか?

いや、それどころか、この「私」も?

苦い文学

面白くなければ第三者委員会じゃない

フジテレビのバラエティ社長が記者会見で、日本弁護士連合会のガイドラインに基づかない第三者の弁護士を中心とした調査委員会を立ち上げる方針を示したとき、記者たちは激怒した。

「それで真相が明らかになるのか!」

「被害者が納得するか?」

「日弁連に失礼だ!」

激しい批判に慌てたフジテレビは、今日、改めて緊急記者会見を開き、日弁連のガイドラインに則った独立した第三者委員会の設置を明言することにした。

記者会見の会場も前回のようなちっちゃな用具部屋ではない。千葉の奥地の広大な土砂採取場だ。ここなら何百人だって入れるというわけ。オールドメディアも、ニューメディアも、オールドタイプも、ニュータイプも記者という記者がどっと押しかけた。

寒風吹き荒ぶなか、席もなく立たされる記者たちの前に司会が現れ、記者会見の開始を告げる。バラエティ社長の登場だ。なんと、その後には、百人ほどの人々がゾロゾロ歩いてくる。誰もが赤か白のジャージを着ているのが奇妙だ。記者たちはなにごとかといぶかりはじめる。

ここで、バラエティ社長、片手に持った拡声器を口に当てて声をかぎりに叫ぶ!

「面白くなければ第三者委員会じゃない! 紅白対抗! 弁護士だらけの大運動会!」

たちまち水着姿の美女たちが四方から駆け寄ってきて、黄色い声援をあげる!

司会「さあ、始まりました! 全国の面白弁護士たちが第三者委員会をかけて競い合うスポーツと法曹の笑いの祭典! いったい誰に第三者委員会の栄冠が輝くのか楽しみですねえ」

解説者「ええ、競技だけでなく、思わぬ守秘事項のポロリも見逃せませんよ!」

司会「そうそう! なお、勝者には副賞として『過払金の依頼者1年分』が贈呈されます。弁護士たちも熱く燃えております! さあ、選手宣誓です!」

ジャージ姿にゼッケンと弁護士バッジの選手が中央に立つ! 「私たち弁護士は! 日弁連のガイドラインにのっとり! 正々堂々と……!!!」

苦い文学

私の記憶術

傘をなくさないためのいちばんよい方法は、傘を捨てようとすることだ。私はある日、傘を不法投棄しようと思って外出したが、結局どこにも捨てることができずに、家に持ち帰ってしまった。ふだんならば、百パーセント傘を忘れるような状況でも、捨ててやろうという意識がその邪魔をしたのだった(このことについては、このブログのどこかで書いた)。

私は最近、この心理を記憶術にも応用している。つまり、ものごとを忘れないためのいちばんよい方法は、なんとかして忘れようとすることなのだ。

私はもともと記憶力がよくなくて、なんでも忘れてしまう。書いても忘れる、聞いても忘れる、口に出しても忘れる……なにをやっても記憶に定着しないのだ。

そこで、私は傘のエピソードを思い出した。覚えようとするからよくないのだ。忘れようとすればいいのだ。そうすれば、かえって記憶されるのではないだろうか。

もう絶対に覚えるものか! そんな気持ちで私は勉強を始めた。

成果といえば、まったくなかった。私はあいかわらずなにひとつ覚えていなかったのだ。だが、ちっとも残念ではない。なぜなら、そもそも私は絶対に忘れようとしていたのだから。

苦い文学

謎に包まれて

「謎に包まれた素顔」「謎に包まれた生い立ち」「謎に包まれた秘密兵器」などと我々はいう。この「謎に包まれた」というのは、「詳しく明かされていない」とか「はっきりとはその実情がかわからない」ということを意味している。

しかし、この世に「詳しく明かされて」いたり、「実情がすっかりわかって」いたり、「秘密などいっさいない」ような事柄があるだろうか。

実際のところ、自分のことだって、例えば自分の生育過程や本当の性格、あの時どうしてそんな決断をしたのか、とかだって、はっきりとはわからない。突き詰めて考えてると、なんだって「謎に包まれている」ようだ。

はじめは謎に包まれていたのは特定の物だけで、他は包まれていないように思えたのだが、そうではなかった。ぜんぶ個包装だったのだ。

環境への負荷を考えると、はたしてこれは良いことだろうか。過剰包装ではないだろうか。

そもそもすべてが包まれているということであるならば、もういっそ謎で包むのはやめたらどうだろうか。

苦い文学

新しい教科書を作る会

先日、ある方から韓国語の初中級の教科書を何冊もいただいたが、主に大学用の教科書で、会話などの題材も学生生活からとられている。

私はすでに学生時代を終えた身なので、「授業は何限からですか」とかいったフレーズはあまり役に立たなさそうだ。いや、文法を学ぶ上では関係ないので別にいいのだが、ただあまり心に響かない。それどころか、自分の無為なる学生時代が思い出されてくる。

「授業は何限からですか」
「2限からです。でも、寝坊して休みました……」

反省と後悔で、韓国語の勉強どころではないのだ。私の不幸な歴史が、日韓の友好の妨げとなっているとしたら問題ではなかろうか。

そんなわけで、私は自分の状況に適合した未来志向の教科書を作ろうと考えた。以下はその試案である。

第9課 いつあの世に行きますか?

田中さん:朴さん、今年の夏はどこに行きますか?
朴さん:まだ決まっていません。田中さんはどこに行きますか。
田中さん:あの世です。朴さんも一緒に行きませんか。
朴さん:すいません。夏はたぶん仕事が忙しくなりそうです。
田中さん:そうですか。では朴さんは、いつあの世に行きますか?
朴さん:まだ決まっていません。さようなら。

(実際には、韓国語は社会人の学習者も多いので、それにふさわしい教材もたくさん出ている。)