旅・観察

村から帰ってきて

ターウジュート村に行く前、私は村では人々が自分の言葉で活発に話しているさまを想像していた。私はビルマのカレン人やカチン人の村に行ったことがあるが、それと同じだろうと、なんとなく思い込んでいた。そこでは人々は自分の母語で挨拶し、会話し、雑談し、祈っていた。

しかし、ターウジュート村では私は異なる印象を受けた。Sさんのおじの家の集まりで主に使われていたのはアラビア語だった。

それにはいろいろな理由が考えられる。客である私たちに気を遣っていてくれたのかもしれないし、あるいは男たちで話すときはアラビア語を使うのがより自然なだけなのかもしれない。そして、ターウジュートのベルベル語は、もっと家庭的な雰囲気のときに使われるのかもしれない。

それがどんな理由であれ、ベルベル語が使用される場面は、当初の私の想定よりもかぎられているように思えた。もちろん、わずか数時間の滞在でわかるものではない。だから、あくまでも仮定の話に過ぎないが、この仮定にもとづいて私は二つのことを考えた。

ひとつは、この言語が置かれている状況の深刻さだ。もしも、使用されるのがほとんど家庭にかぎられるとしたら、さらに縮小していくこともありそうだ。Sさんはチュニスで暮らしているが、子どもはベルベル語を話すことはできない。村でも同じような状況がいずれ起きるかもしれない。私は実のところ、これとは逆の事態、つまり村では言語が十分に維持されていると想定していたのだった。

もうひとつは、もしベルベル語が私的な領域でだけ使用されるのだとしたら、そこに私が近づいて、そこで直接学ぶのは、少なくとも今の私には不可能だということだ。

これは私の力不足であるかもしれない。だが、単に実力の問題だけでもないように思う。誰かの暮らしの中に入ろうとすることが、何かを壊してしまう可能性もある。

ともあれ、今回の訪問は、Sさんがいてはじめて可能になった。もしいなかったら、私は村を外から眺めるしかなかっただろうし、こうした感想を抱くこともできなかったろう。それは大きな違いだ。そうした違いを積み重ねていくうちに、もしかしたら、もう少し深く理解できる場所に立てる日が来るかもしれない。

苦い文学

AKI’O NAKANO

ベルリン自由大学で開催されたセム語方言学会議(Semitic Dialectology Conference)の口頭発表のうち、特筆すべきは、シリア語・アラム語の碩学、Werner Arnold 先生によるものだろう。それは 「中野暁雄のジュッブアディーンからの現代西アラム語による薪についてのテキスト(“Aki’o Nakano’s Western Neo-Aramaic Text from Ǧubbʿadīn about Firewood”)」と題されたものだ。

タイトルだけだとなんのことかわからないが、中野暁雄という研究者が現地で採取し、出版した現代西アラム語のジュッブアディーン方言の民族誌的テキスト集( “Ethnographical Texts in Modern Western Aramaic (1) (Dialect of Jubb’adin)” 1994)があり、そのテキストの「薪(firewood, p63)」と題されたセクションについての発表だ。

その発表の理由であるが、これはこのテキストのもつ大きな「問題」に起因している。このテキストはアラム語(の音韻表記)のみで、英語の語釈も訳もないので、ごく少数の研究者にしかわからないのだ。そこで Werner Arnold 先生が専門家として注釈と訳を試みたというわけだ(ちなみに同書では Arnold 先生の研究も参考文献として挙げられている)。

Arnold 先生によれば、このテキストは、他のアラム語資料には出てこない語彙が現れる貴重な資料ということであった。こういったものを出版した中野暁雄は実にすごい人であったのだ。

中野暁雄は 2008 年に亡くなったが、それまでにアラビア語方言、現代南アラビア語、現代アラム語、エチオピア諸語、ベルベル語などの言語の現地調査を行い、数々のテキストや語彙資料を出版した。そのため、これらの諸言語の研究者の集まる今回の会議では、その名前を知らぬものはないというほどであった。

日本から来た私はこの傑出した学者についていくども尋ねられた。そのたびに私は「中野先生の学生であった者です」と少しえばって答えた。

苦い文学

天使の迷惑

混み合う山手線に乗って運ばれてきた男は、池袋で降りるとき、後ろから誰かに強く小突かれたような気がした。ムッとして振り向くと、小柄な女がカバンを盾のようにして彼を押し出そうとしているのだった。

それから、ホームから雪崩のように階段を降りていく人々のなかで、彼はまた誰かに背中を押されたような気がした。サッと後ろを見ると、若く高慢そうなサラリーマンの傘の先が当たったことがわかった。

自動改札口を通過するときも、背後から押されたので、チラと見ると、中年の男が不機嫌そうな顔つきで睨んでいた。また、東武東上線の改札口までのごった返しの中で、これみよがしに刺青を入れた男に彼は背中をどやされた。

そして、東武東上線のホームに降りていく階段で、彼は後ろから誰かに突き飛ばされた。バランスを崩し、倒れまいと身を捩ったその瞬間、彼の目は醜い老人を捉えた。階段を転がり落ち、床面に打ち付けられた頭からは血が流れ出た。すると、光り輝く存在が幻のような翼を広げ、彼の前に降り立った。その存在は告げた。

「男よ、今朝、お前を鞄で押した女は、なにをかくそうこの私だ。傘でつついた若者も私だ。イラついている中年男性も、お前の背後をおびやかした刺青男も、お前を階段から突き落とした老人も、じつはこの私だったのだ」

「天使さま」と男はまばゆさに目を細めながら言った。「事情はわかりませんが、やめてもらえませんか、迷惑なので……」

苦い文学

乗客を救え!

庶民の生活を見るために電車に乗っていた大富豪は、ある光景に目をとめた。

座席に座っている乗客が隣で居眠りしている人に寄りかかられているのだった。その人はいかにも迷惑という表情だったが、肘で突き飛ばすわけにもいかずじっと我慢していた。

この様子に心を痛めた大富豪は、財団の研究員たちに対策を練るように命じた。

研究員たちは寝ずに研究に打ち込み、数ヶ月後、大富豪のもとに2枚のシートを持ってやってきた。

「このシートを肩に貼れば、寄りかかってくる人はいなくなります」

大富豪はなんでも自分が一番でないと気が済まなかったから、誰よりも先にそのシートを試したくなった。そこで、早速両肩にシートを貼り付け、研究員たちを率いて電車に乗り込んだ。

大富豪は7人掛けのシートに腰掛け、その両脇に研究員が座った。電車が走り出し、こぎみよく揺れ出すと、徹夜続きだった研究員はたちまち居眠りを始めた。

ふたりの研究員は頭を揺らし、ゆっくりと大富豪のほうに体を傾けていった。

「もうそろそろだぞ」

向かいの座席で観察していた研究員たちが言った。

電車ががたりと揺れ、2人の研究員の頭が、大富豪の肩に倒れかかった。すると、その瞬間、研究員の2つの頭は肩から弾かれた。肩に貼られたシートの反発力が、もたれかかった頭を瞬時にはね除けたのだ。

「うまくいったぞ!」

研究員たちは喜んだ。

その後も、両脇の研究員が寄りかかろうとするたびに、反発シートが作動し、頭を何度も弾きとばした。大富豪も反発シートの効果に満足したのか、前にいる研究員に向かってほほえんでみせた。

大富豪たちが電車に乗り込んで、1時間以上経っていた。今度は大富豪が眠気を感じた。しばらく我慢していたが、眠気には勝てず眠ってしまった。大富豪は頭をぐらぐら動かし始め、やがて頭を右にがくりと傾けた。そのときだった。恐ろしいことが起きたのは。

右肩に貼られたシートが大富豪の頭に反発したのだ。大富豪の頭はたちまち左に倒れた。すると、その瞬間、左のシートの反発力が作動し、右に突き飛ばした。だが、右の反発シートがそれを許さない。すぐに左に弾く。すると左でも弾かれる。結果として大富豪の頭は右、左、右、左と激しく揺れ動くこととなった。

大富豪は頭を左右に振りながら目を覚ました。奇声を発しながら両手をあげて頭を抑えようとするが、その両手も弾かれてしまう。

「これはただごとではない」

研究員たちは大富豪に駆け寄り、非常な苦労のすえ、反発シートを無効化した。だが、そのときには大富豪は意識を失ってしまっていた。

翌日、病院で目を覚ました大富豪は、頭を左右に振りながら、反発シートを処分するように研究員たちに命じた。

苦い文学

エコロジー

自然を観察すると、そこに見事な循環サイクルがあるのに気づかされる。

海の水は、太陽の熱によって蒸発し、空にのぼり、水の粒となって雲となる。そして、その粒は、雨となって地上に降りそそぐ。陸地を潤す雨は、川となり海に流れ込み、再び、空へと気化する。これは水のサイクルだ。

命のサイクルもある。

土から伸びた草木の葉を、虫たちが食べる。その虫たちを食べるのが小鳥や小動物だ。これらの生物は肉食の動物たちと猛禽類の餌となる。そして、これらの動物たちが死ぬとその死骸を虫やバクテリアが分解して土に還す。草木はこの栄養満点の土から育つのだ。

自然とはこうしたサイクルそのものだといっていい。

ここで、私のパンツを例にとらせてもらおう。私には現在パンツが2枚しかない。1枚のパンツを履いているときは、もう1枚のパンツは洗われている。夜になると、私はその日1日履いたパンツを洗濯カゴに放り込み、洗濯済みの乾いたパンツを履く。そして、次の日、そのパンツで1日を過ごす。もちろんその間、もう1枚のパンツはキレイに洗われている。そう、私のパンツもまた循環しているのだ。

ここでもし、2枚しかないパンツのうち1枚が、洗濯されなかったり、無くなったり、破れたりしたら、どうなるだろうか。とんでもない惨事が待ち受けていることだろう。

自然のサイクルもそうだ。環境破壊や地球温暖化によってひとたびこの循環が損なわれれば、同じように取り返しのつかない惨事が起きるのだ。

この自然、そしてその循環サイクルについて、もしあなたが真剣に考えたいのならば、その時には、ぜひ私のパンツのことも思い出してほしい。