小説

時代にログインできない男たち(終)

医師は、物腰の柔らかい男で、私よりずっと若く見えた。丁寧に私の血圧を測り、胸に聴診器を当てた。それから、診察台に横にならせた。心電図の検査に使うような計器を持ってきて、そこから伸びる線を私の胸部と手足に装着した。すぐに結果がプリントアウトされた。

医師はその結果を見ながら診断を告げた。

「ずいぶん前にサポート終了になっているようですね。もちろん、パスワードを処方することはできるのですが、ログインしたところで、アップグレードはできません。そもそも、ログインしても、適切に動作するかもわかりません」

「ですが、ログインができるというのならば、せめて、ログインだけでも……」

「ここにおいでになる多くの方がそうおっしゃいますし、私もそうできればいいと思うのですが、実際は無理なのです。周辺デバイスとの接続もできませんし、ソフトウェアもまず動かないので、できることがほとんどなくなってしまうのです。それどころか、フリーズの危険もあります。まずは、時代から離れてゆっくり療養されることをお勧めします」

「いや、それでは意味がないのです。たとえアップデートできなくても、たとえフリーズしたとしても、会社がログインしろと言った以上はしたいのです。仕事を失いたくはないのです」

「フリーズの結果、強制終了されることもあるのですよ」

「でも、その場合は労災が適用されますよね?」

「ふむう」と医師は唸ると、カルテにパスワードの処方を書き入れたが、私などもういないかのようにふるまいはじめていた。

苦い文学

さとうもか@渋谷WWW

コロナのとき、さとうもかの『GLINTS』(2020)をたまたま聞いて気に入ったので、このアルバム、そしてその次に出た『Woolly』(2021)もよく聞いた。そして、この10月31日に新しいアルバム『ERA』が発売され、そのツアーがあるというので、今日11月10日、渋谷WWWのライブ「さとうもかBand Set」に行った。

さとうもかは、わりと若い女性が聞くようなイメージがあるので、やや心配だったが、男性も多かったし、私と同じ年代の人もいた。

さとうもかの声もいいが、私が好きなのはメロディに「さとうもか節」とでもいうようなクセがあることだ。そんなわけでどの曲も違うのだが、同じように聞こえることもある。また、明るいポップな曲(「Glints」)やユーモラスな曲(「Peach Perefect」)もいいが、「切ない」とは違う、どこか悲壮で張りつめた感じの曲が持ち味だ。新曲の「Dear Stranger」や代表曲「melt bitter」、そして今回は演奏しなかった「ながれぼし」などがそれにあたる。

これらの曲もそうだが、失恋の歌が多いので「失恋の女王」と呼ばれているのだそうだ。もっとも本人は MC で「失恋もそれほど経験はないし、恋愛もそれほどない」と言っていた。

さて、Band Setというのは、バンド付きのライブということで、これがとてもよかった。バンドはスピーチバルーンという岡山のバンドで、さとうもかとかつて岡山で一緒に活動していたとのこと。スピーチバルーンの曲も1曲(「Night Flight」)演奏され、これもよかった。

苦い文学

駅のゴミ箱

駅でゴミを捨てるのは大変だ。なにしろゴミ箱を見つけるのは至難の業。盲亀浮木、優曇華の花のごとくだ。

改札口の周辺にもない。ホームに降りる階段の周囲にもない。それでは、とホームに降りる。たぶん階段の下だ、そう思ってまず見に行くが、そこにもない。ホームを歩いて探す。結局端から端まで歩いてしまう。だが、ないのだ。

しだいに隣のホームで見かけたような気がしてくる。急いで階段を登り、別のホームに降り立つ。階段の下、エレベーターの裏、ベンチの脇、そば屋の正面……どこを探してもない。

だんだんと手に持つゴミが重くなってくる。まるで鉄の塊のようだ。手が痺れてくる。しかも、濡れていて、汚らしい。手を洗いたい、と思った瞬間、トイレを思い出す。再び階段を上がり、トイレに向かう。その周辺にはゴミ箱はない。中だ。

漏らしそうな人の足取りで駆け込むが、トイレの中にもない。

まるで駅のゴミ箱は自在に気配を消すことができるみたいだ。もう決して見つけることができないような気がしてくる。永遠にゴミ箱を探して駅をさまよい歩くとは。こんな人生ってあるのだろうか。きっとしまいには私もゴミのようになってしまうのだ。そして、ゴミ箱は自分を捨てる墓へと変わり……

だが、苦悩と絶望の底で、それは不意に姿を現す。いくどもないことを確認した場所だというのに、見ればゴミ箱があるのだ。私は歓声をあげて駆け寄る。

その瞬間だ、ゴミを手にした私の目の前に、清掃員が現れる。私がひるんだそのすきに、ゴミ袋の取り替えを始める。

私は終わるのを待っているが、清掃員は永遠に作業を続けている。ゴミは私だ。

苦い文学

サンタクロースと少年

その少年はじつに心のひん曲がった子で、いつもずるいことばかり考えていた。

どれくらいねじくれていたかというと、サンタクロースの絵を見てこんな悪だくみをするほどだった。

サンタが持ってるあの袋、あやしいぞ。配るプレゼントはそもそもトナカイが引くソリに積んであるじゃないか。しかも、子どもに渡すプレゼントだって、ひとつかふたつ持っていけばいいだけなのだから、あんな大きな袋を抱えて行く必要はない。手で抱えていけば済む話だ。

なのに、あの髭じじいときたら、後生大事に袋を抱えてやがる(あいつめ、まるで車上荒らしを恐れているみたいに、ソリに袋を放置しないのだ!)。あの中にはプレゼントなんか入ってやしない。金目のものが入っているのだ。きっとかなりの額の。

「プレゼントなんかに騙されないぞ」と少年は言った。「俺が欲しいのは、あの袋の中の大金だ」

クリスマス・イブの夜。少年は寝ないでサンタクロースをこっそり待ち続けた。手には鋭く研いだナイフがあった。サンタが来たらそれを突きつけて、あの袋を強奪してやろうという計画だった。

そして、ついにサンタクロースがやってきた。お馴染みの赤い服を着た白髪の老人は、肩に担った袋を片手で掴み、もう片方の手にはプレゼントの箱を抱えていた。彼はよろよろとツリーに近づくと、プレゼントを置こうとかがんだ。

突然明かりがついた。「それまでだ!」 少年の声が響いた。

サンタクロースはゆっくりと振り返り、刃物を握った少年を見つめた。

「その袋を置け!」 少年は言った。「そして、出ていけ! さもないと、お前のその服が血で赤く染まることになるぞ!」

サンタクロースは袋を置くと、そそくさともと来たところから出ていった。しばらくすると、ソリの動く音が聞こえ、鈴の音が空のどこかへと遠ざかっていった。

少年はナイフをしまうと、袋に駆け寄り、その中を見た。

中には、紙切れがたくさん入っていた。どの紙切れにも、乱雑な文字で何か書きつけられている。少年は読んでみた。わがままで生意気な子どもたちへの罵りの言葉や、過剰な配送ノルマへの恨みつらみばかりだった。

苦い文学

不思議な話

昨年のことだが、不思議な体験をした。

ある人と話していて、「Lemon」の歌手は誰だということになった。

もちろん私は知っていたが、その名前が出てこず、なぜか賀来賢人が現れた。私は彼ではないのがわかっていたのだが、賀来賢人が邪魔してそれ以上先に進めないのだった。

結局私は諦めたが、きっと「Lemon」の歌手の名前は賀来賢人とどこか類似点があるに違いないので、歌手名を思い出したら、比較してみようと考えた。

それからしばらくして、米津玄師が頭の中に出現した。

ついに思い出したのである。そこで、私は米津玄師という名前が、先ほど出てきた名前とどのような関係にあるのか考えようとした。

不思議なことが起きたのはこのときである。

私はその名前(つまり賀来賢人)を今度は思い出すことができなくなっていたのだ。

「ついに探し物が見つかったね。僕の役目はこれまでだよ……」

そんなふうに、賀来賢人は私の目の前から姿を消したのだった。

彼の名前が再び蘇ったのは、その日の夜、テレビで私がムロツヨシの顔を見た瞬間であった。

そして、この不思議なできごとを書き留めている現在の私は、米津玄師の身代わりとなって現れた存在が、賀来賢人であったのかについてにすら、もはや定かではなくなってしまっている。

はたしてあれは誰だったのだろうか……? ひょっとして……!!!