小説

ネズミ(2)

パニックは一瞬のことで、それが過ぎ去ると、踊り場周辺の来場者たちの間にどこか親密な空気が流れた。そして、誰もが足元のネズミの動向を注視していた。ネズミは不思議にもすばやく逃げたりせず、マイペースで移動し、やがて階段の手すりの基部に、尻尾を踊らせて潜り込んだ。そこにはネズミと同じ色の濃い灰色の埃が溜まっていて、見分けがつかなくなった。誰かが「うまいこと隠れた」と言った。

階段は踊り場で逆方向に折り返していて、ネズミが身を潜めたのは、上下の階段の間の細い隙間だった。ネズミの真下には、地下の会場入り口に並ぶ女性たちの頭があった。

彼は今や悲劇を予感していた。はたしてネズミは下の階に着地し、そこの女性たちがいっせいに悲鳴を上げたのだった。

彼は隙間から下を眺めた。いつの間にか姿を現した若い男性スタッフがオレンジ色のチリ取りを持って、その上にネズミを乗せようとしていた。階段の蹴込みに追い詰められたネズミはチリ取りに乗せられそうになるが、巧みに身をくねらせてすり抜けるのだった。下のほうで誰かが「かわいそう」と言うのが聞こえた。

チリ取りに乗せたところでどうにもなるまい、と思いながら彼が再び下を覗くと、スタッフはどこから調達したのか BEAMS の紙袋を左手に持って、右手に持ったチリ取りでネズミをそこに追い込もうとしていた。ネズミは今度ばかりは逃れることはできなかった。スタッフはネズミを紙袋に入れると持ち手を上に向けて、そのままゆっくりと階段を上がってきた。

その姿を彼はまるで魔法にかかったかのように見つめていた。スタッフが上のほうに行ってしまうと、誰かが「きっと戻ってくるよ」と言った。

やがてスタッフは空になった BEAMS の紙袋を手に降りてきた。数分遅れで入場が始まった。