一糸座は江戸時代からの伝統を受け継ぐ糸あやつり人形の劇団で、義太夫節に合わせた上演も行なっている。文楽の人形と違うのは、その名の通りひとりで糸を操って人形を動かす点と、人形遣いがセリフを言うところだ。
今回の演目は「三番叟」「八百屋お七、火見櫓の場」「鈴ヶ森」と新作人形浄瑠璃だ。新作は吉原の遊郭に行こうとする男の話だった。
このうち義太夫節が演奏されたのは「八百屋お七」と新作で、語りは竹本越孝、三味線は鶴澤三寿々という、私が習ったことのある先生方だ。これに望月太意三郎の太鼓が加わった。配置でいえば、右からは語りと三味線が聞こえ、左からは太鼓が鳴り響き、中央の舞台では人形たちが動いて話すというもので、小さい会場だったので目も耳ものびのびと楽しんでいた。
人形操作の巧みさにも驚いた。あんな複雑なことをしなくても生身で演じればいいのにと思うが、逆に人形だからいいのではという気もしてきた。それは人形にしかできないことがあるというのではなく、演劇の本質に人形があるのではないか。古典ギリシアの演劇ではマスクをかぶっていたというし、能もまたそうだ。生身では都合が悪いことがあるのだ。
通常の演劇で大事なのは、筋やテーマが明確に観客に伝わるように登場人物を動かすことだ。そのためにはまずある種の類型化とデフォルメが必要だ。これでわかりやすくなる。それから、観客が集中してくれるように、余計なものを捨てるのも大事だ。人形やマスクならば、生身の人間が簡単に隠すことのできない変化を見せないでおくことができる。人形やマスクによって生身の危うさを排除することで、演劇は初めて演劇になるのではないだろうか。
こういうと、生身の人間も演劇に出演しているではないか、と反論する人もいるだろう。だが、その生身の人間も、演技を通じて人形になっているのではないだろうか。もしかしたら、生身の人間が演じた舞台など、これまで一度もなかったのかもしれない。