苦い文学

感謝の心

【Tさん(50代男性)】

近頃の日本人は感謝を忘れてしまったという人もいますが、そうでしょうか。先日、こんな体験をしました。

夕方、私は帰宅しようと電車に座っていました。ある駅で、年配の男性の方が乗ってきたのです。車内はといえば、やや混んでいて、その方は席を見つけられず、私の前に立ちました。

その方は本当に疲労困憊といったようすで、今にも倒れそうなのです。

電車はやがて次の駅に着きました。降りる人、乗り込む人。その方は空いた席を見つけますが、サッと別の人が座ってしまいました。周りを見回すのですが、もう席はありません。電車は走りだします。

さてまた次の駅が近づいてきました。私はそれまで読んでいた本をしまいました。その方はめざとくそれに気がつきました。もう私の前から動こうとしません。電車が停車すると、私は腰を上げました。

そして、お尻の位置を変えると、再び座り直しました。鞄から取り出した新聞を広げました。

私はその方が深いため息をつくのを耳にしました。きっと私が降りなかったので、ガッカリしているのでしょう。しかも、その方は私の動向に意識を集中しすぎて、他の席に座るチャンスも逃してしまったのでした。

その次の駅は私の降りる駅です。アナウンスが終わり、電車が速度を緩めます。駅のホームが車窓に飛び込んできます。電車はやがて止まりました。私は立ち上がり、ドアに向かいます。

すると、どうでしょう、その方は私に頭を下げるではありませんか。「ありがとうございます」と繰り返しています。しかも、ドアまでついてきて、すでに降りた私に深々と頭を下げるのです。まるで高級旅館のお見送りのようでした。

私は少し困惑しましたが、またうれしくもなりました。なぜなら、まだこの国には良心というものが、感謝する心というものが、残っていたのですから。

もっとも、お辞儀をするその方の背後では、私が空けた席にもう別のだれかが座っていました。

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