苦い文学

瞑想

ビルマの仏教徒のうちには瞑想を熱心にする人がいる。私の友人のビルマ人もそうで、彼は日本に瞑想を広めたいという気持ちを持っていた。そこで、私も誘われて彼とともに瞑想を試みることにした。だが結局、邪念が多いのか、すぐに飽きてしまった。

この瞑想の集いには、もうひとり別の日本人も加わっていた。

彼にもまた夢があった。コーチングを生業としている彼は、この活動をビルマに普及させるという夢を持っていたのだった。

私はあるとき彼に言った。「ビルマ仏教を学べば、ビルマの人々にコーチングを受け入れてもらえるような切り口が見つかるかもしれませんね」

彼はこの言葉を聞くや目を輝かせて言った。

「それはいい考えだ。ビルマ仏教の伝統だという触れ込みでコーチングを広めればいい!」

私はこの言葉に衝撃を受けた。これは歴史を偽造することにほかならないが、こうした主張をあからさまに、そしてなんの罪悪感もなく述べる人がいることに驚いたのである。

後になって私は、彼の考え方は「目的がよければ手段に問題があってもよい」という思考の典型であることを学んだ。