苦い文学

怒りの訴え

俺たちはもう疲れた。なぜなら、俺たちのやってきたことはなにひとつ感謝も評価もされないからだ。

それどころか、お前たちは俺たちがまるで存在しないかのようにふるまっている。俺たちがいなければ、お前たちはとっくに全滅していたというのにだ。なんという恩知らずどもであろうか。

コロナ禍が始まって以来、俺たちはお前たちがしきり感謝をするのを見せつけられてきた。医者に、看護師に、医療関係者に、医学研究者に、免疫学者に、ワクチン会社に、防疫担当者に、保健所に、行政に、そして、マスクの製造会社に。確かにこれらの人々の働きは重要だ。

だが、お前たちはまったく気がついていないのだ。俺たちの働きに、貢献に、苦労に、痛みに! コロナ禍以来、黙々と耐えながら働いてきた俺たちを不当にも無視し続けているのだ。

俺たちはもう管が煮えくりかえる思いなのだ。

あまりの怒りに、俺たちは、コロナを防ぐために日々努力し続けるお前たちよりも、反ワクチンの愚かな陰謀論者どものほうが好ましく見えてきたほどだ!

なにしろ、連中ときたら、俺たちに借りもないかわりに、俺たちにいかなる労苦も押しつけてこないからだ。

そうだ、俺たちはもうお前たちのために働くことを拒否する。お前たちの命など知ったことか! お前たちの目の横から姿を消してやる。そうなれば、どんなことが起きるかわかるだろう。一切のマスクが無用の長物となるのだ。コロナが再び蔓延し、バタバタとお前たちは死んでいくだろう!

さあ、それがイヤなら、いますぐ俺たちに最大の感謝を捧げるのだ、ときどきマッサージするのだ……

……と、耳が怒っていた。

苦い文学

我々は何を持って生まれてくるか

我々は生まれるとき、何を携えて生まれてくるか。

これは、時代、文化、宗教によって、さまざまに考えられてきた。おそらく、もっとも基本的なものは、魂を持って生まれてきたとするものだろう。

この魂には運命や宿命が刻まれている考え方も広く見られる。生まれた日や、曜日や、時間、星の運行、星座が重要なのはそのためだ。同じ運命でも、神の定めた運命とする文化も多い。

仏教的な考え方では、生まれるときに人は、カルマ、因縁、前世の業を抱えてやってくるという。これと似ているのが、前世の記憶や生まれる前の記憶を持って生まれてくる人がいるという信念である。

家というものが人間を規定する文化では、子どもは血を背負って生まれてきたとみなされる。先祖の霊、先祖の守り神、守護霊といった存在もやはり、生まれたときから付いてくるものとされる。この家が拡大すると、人は民族の血を受け継いで生まれてくることになる。

だが、生まれるときに持ってくるものが、これらのように宗教的で非科学的なものばかりとはかぎらない。現代では人は遺伝子情報や環境をともなって生まれてくるという考え方も広く見られる。

また、すべての人間が人権を持って生まれてくるというのもあるが、これは倫理的な要請から生まれた虚構である。人は使命を持って生まれる、という考え方もやはり同様に倫理的なものである。

このように、時代や文化によってさまざまな考え方がある。

さて、現在の日本はといえば、我々は「人は自己責任を持って生まれてくる」と信じている。

苦い文学

AI の個性化

最近の AI は、特定のテーマを指定すると、それについての小論文を書いてくれるまでになった。

学生のレポートなど簡単にできてしまうので、大学ではいろいろな対策が取られている。

AI 使用禁止もそのひとつだが、他には、テーマを書き手の個性や状況にリンクさせる、つまり、その人にしか書けないものを書かせる、というものもある。

AI の作文は、ネット上にある既存の情報を素材に作成されるので、書き手の個性という情報をうまく組み込むのは難しいと考えられるからだ。

だが、これも、AI が進化して、今の携帯電話のように個性化されたら状況が変わってくる。使用者の生育歴、経験、考え方、思考の癖、言葉づかいまでも情報として蓄積・利用できるような AI にとっては「その人にしか書けないもの」をその人に成り代わって生成することなど朝飯前だろう。

もちろんこのような偽造品をレポートや卒業論文として大学が受け取るわけにはいかない。だが、その対策はかなり難しい。

AI の使用を禁ずる、というのがもっとも簡単な解決策だ。これ自体難しいことだが、それができたとしても AI の個性化はさらに大きな問題をはらんでいる。

たとえば、試験会場の学生に「眼鏡をかけていると、眼鏡をかけていない人に比べて有利になるから、テスト中は眼鏡の使用を禁ずる」と言ったらどうなるだろうか。人権侵害だと問題になるに違いない。

AI に関してもこれと同じようなことが起きる可能性がある。AI が、個性化を通じてもはや分かち難いほどにその使用者に結びついている、そうした状況が当たり前の世界においては、AI の使用禁止がそのまま人権侵害ともなりうるのだ。

となると、大学は AI の作文の提出を認めざるをえなくなる。だが、これは本当に学生の書いたものと言えるだろうか?

このように AI の進化は、教育において重要かつ難しい問題を提起する。AI が解決してくれることを期待したい。

苦い文学

世界の嗤い物

いつの頃だかわからない。

もしかしたら、原発にヘリコプターで水をぶっかけていたときかもしれないし、コロナ対策と称してちゃちいマスクを全国民に配っていたときかもしれないし、国民の命を犠牲にして一部の人だけが儲かるオリンピックを開催したときかもしれないが、なんにせよ、マスコミが「これじゃ日本は世界の嗤い物」と書き立てたのだった。

そして、これに憤慨した男がいた。「笑」でなくて「嗤」を使った点も許せなかった。

彼は発明家であったから、日本が笑われているかどうか探知する高感度センサーをたちまち作り上げた。そして、このセンサーを背負って世界へと飛び出した。

彼の調査の仕方はこうだ。その国の首都につくと、道ゆく人にセンサーを向け、こう尋ねるのだ。

「あなたは日本についてどう思いますか」

もしその人が日本を笑い物にしていれば、センサーが察知して、彼の帽子につけられた赤いランプが灯る。そうでなければ、青いランプがピカピカした。

彼にとって喜ばしいこと、どの国に行って、どの人に尋ねても、青いランプが点滅したことだった。

彼は結果に満足し、誇らしい気持ちを抱いて帰国した。

その後、世界中のあちこちで、日本と聞くと人々は「ああ、あのおかしな男の国だ」と嗤うようになった。

苦い文学

左右

異次元政治の効果だろうか、最近、街で物乞いを見かけることが増えた。だが、昔の物乞いと違って「右や左の旦那様」という口上が聞かれないのはやはり寂しい。

しかし、その事情も理解できる。今や「旦那様」などと呼びかける時代ではないのだ。現在の日本社会は平等な社会であるから、金持ちであろうと物乞いであろうと貴賎の区別はない。ただ自己責任があるだけだ。

また、今や女性の社会進出も進み、路上もジェンダー・センシティブになった。そんなところで「旦那様」を連呼すれば、たちまち性差別的だと炎上間違いなしだ。そもそも、女性を排除してわざわざ収益を半分に減らす理由もなかろう。

かくも問題の多い「旦那様」に代わって私が提案したいのは「サポーター様」だ。インクルーシブでジェンダーフリーな時代にふさわしい呼びかけではないか。

また、「右や左の」というフレーズもいまや古びて聞こえるかもしれない。だが、この言葉こそ実は現代社会においてワン・アンド・オンリーの価値を持っているのだ。

というのも、この言葉には、右翼も左翼も協力して豊かな日本を創ろうではないかというメッセージが込められているからだ。分断の進む我が社会においては、こうした和解と調和を勧めるポジティブな言葉こそ、人々の心に響くのだ。

アメリカの状況を見ても分かるように、この社会の分断は猶予のならない喫緊の課題だ。「慌てる乞食は貰いが少ない」などというが、ことこれに限っては大いに慌てた取り組みを期待したい。

苦い文学

カスタマー

物乞い、あるいは乞食は、路上などで行き交う人々から金銭を恵んでもらって、生きている人々のことだ。

昔は、海外に行くと、この物乞いによく出くわしたものだが、最近では日本でも見かけるようになった。輸入されたのかもしれないし、あるいは、アベ政治が取り戻してくれたのかもしれない。

先日、都内のある駅前で、路面に座って物乞いをしている人がいた。その前にはお茶碗が置かれ、ご存じのとおり、そこにお金を放り投げてもらうシステムとなっている。

だが、私はその様子を見て失望した。お茶碗の隣に安い日本酒の紙パックが置かれているのだ。

これでは顧客(あえてこう言うが)に「どうせ酒に消えるんだろうな」と思わせるだけだ。

そうではなくて「いったいこのお金はどう使われるのだろう」とカスタマーに思わせるのでなくてはならない。我々はそのワクワク感(カスタマー・エクスペリエンス)にお金を払うのだ。

では、どうしたらよいだろうか。紙パックを隠す、というのも一案だ。だがもし、私が物乞いをするならば、むしろ逆を行きたい。高級シャンパンや高級ウィスキーを置くのだ。

注目度は抜群だ。「映えスポット」としてバズる可能性だってある。

「物乞いで集めたお金でどうやってあの酒を?」と興味津々で思わず財布を開く投資家もいるはずだ。「景品かな?」と射的感覚でお茶碗にお金を放り投げる人も出てくる。

そのうち、お金を放り投げるためだけにみんな列を作り始めることだろう。もうこうなったら、立派なアトラクションだ。

物乞いとしては成功といえるだろう。

苦い文学

非対面世界(完)

無人の教室を後にして、一階の教務課に行くと、若い職員が出てきて、奥にある部屋に連れて行かれた。

そこには一人の男が座っていた。入学式などでしか見たことのない幹部だ。幹部は彼を座らせると、受講生からハラスメントの訴えがあった、と告げた。

「ちゃんと出席しているにもかかわらず、欠席にすると脅された、と連絡してきた」

「代理出席の疑いがあるので、しつこく言い過ぎたかもしれません。ですが、カメラをつけさせるたびに出てくる人が違うのです」

彼ははじめに女子学生、次に男子学生、そして今日はおよそ学生らしくない人物が現れたことを語った。

「だが、その証拠はあるのか。もしかしたら、名前を間違っている可能性もあるのでは?」

「いえ、そんなはずはありません……では、その学生の写真を見せてください。この学生ですよ」 彼はファイルから名簿を取り出し、問題の学生の名前を示した。

「彼女の写真ならここにある」と幹部は机の上のファイルを広げた。そこには、ぽっちゃりした女子学生の顔写真が貼られていた。

「この子ではありません。最初の学生も、その次もその次もみんな違う顔でした! みんな、この学生が雇った業者だったのです!」

その瞬間、室内に声が響き渡った。

「君の見たのはどの顔だ!」

幹部の背後にある扉が開き、あのナマズ髭の老人が姿を現した。

「さあ、答えるのだ。この写真の顔か、それとも他の顔か」

驚きのあまり彼は言葉を発することができなかった。

「答えられないのなら、教育活動に戻りなさい。さもなければ、この大学から出ていくかだ」

コロナ禍も出口が見え、多くの学校で対面授業が復活したが、彼の大学だけは今も相変わらず非対面授業を続けている。もはや彼は学生にカメラをつけるように求めたりなどしなかった。出席しようと、欠席しようと、代理出席業者に頼もうと、どうでもいいではないか。講義では、彼もまたカメラを消して、たった一人の教室で、好きな本を読んで過ごしている。

苦い文学

非対面世界(7)

次の授業の時がやってきた。彼が Zoom を立ち上げると、次々と学生たちの名前が表示された。その中に、例の学生の名前が含まれているのを彼は確認した。

授業開始時間になった。だが、彼は授業を始めなかった。教科書を開けろとも言わなかったし、用意した資料を画面共有しようともしなかった。

その代わり、彼はあの学生の名を呼び、カメラをつけるように求めた。もしそこに女子学生でなく男子学生が現れたら、徹底的に追及してやろう、そう決心していたのだった。

彼はもう一度名前を呼んだ。「カメラをつけてください」 

黒い画面が消滅した。女か、男か、コインが投げられたのだ。そして、顔が映し出された。

老人。両口脇と唇の下から三本のナマズ髭を生やした老人が静かに彼を見つめていた。髭の先は画面の外で見えなかった。

彼は唖然としたが、すぐさまマイクを通じてこの老人に名前を確認した。すると、ナマズ老人は表情を変えずにカメラを消した。

「カメラをつけてください! カメラをつけてください!」 彼は大声で繰り返し、急いで Zoom のチャットを開くと、この学生に向かってメッセージを送った。

《カメラをつけてください。カメラ! つけなければ欠席にしますよ! カメラ!》

その瞬間、その学生の名前がリストから消えた。退室したのだ。「逃げた!」 彼は思わず叫んだ。怒りが込み上げてきて、彼は一人一人の学生の名を呼びはじめた。カメラをつけさせ、顔と性別を記録していった。出席者全員終わったときには、授業終了時刻をとっくに過ぎていた。

彼はすべての学生を退出させた。Zoom を終了し、パソコンを閉じた。すると、携帯が鳴った。出ると、直ちに教務課に来るようにとのことだった。

苦い文学

非対面世界(6)

実のところ「大学に向いていない人が大学に来ることは普通はない」ということ自体が普通ではなくなりつつある。

というのも、日本の大学の教育が変わりつつあるからだ。

どのような変化かというと、既存の知識や規範を教師が一方的に授ける教師主体の教育から、学生が自分で知識や解決を見出せるように支援する学生主体の教育への変化だ。

これは少子化という現実に合わせた変化でもあるし、また、教育観の変化に応じたものでもある。

ともあれ、学生主体の教育では、それぞれの学び方の発見が重要となるため、従来型の教育では「大学に向いていない」とされる学生も、もしかしたら「向いている大学」を見つけることができるかもしれない。また大学も「合わない学生はお断り」という時代ではないため、学生それぞれの個性に合った教育サービスを提供しようと必死だ。

これは日本の学生だけでなく、留学生にも当てはまる。たとえ中国で「落ちこぼれた」としても、それはあくまでも中国での教育環境における判断に過ぎない。日本の大学ではその真逆の環境を見出せるかもしれないのだから。

もしかしたら、彼も代理出席の露見をきっかけに、そうした学生が自分の能力を伸ばせるような機会を作ることができるかもしれない。それこそ、本当の教育というものではないだろうか。

だが、と彼はここで考えた。このようなことが起きうるのは、大学が留学生教育というものにまともに取り組んでいる場合だけなのだ。留学生から搾り取ることに汲々としている彼の大学ではとうてい無理なことに違いない。やるだけ無駄なのだ。

彼は迷い続けた。代理出席に目をつぶるべきか、それとも、これを教育のための好機としてとらえるか……選びかねた彼は、ある一つの行動に結論を委ねてみることにした。

苦い文学

非対面世界(5)

日本の大学への留学生は、2つに分けることができる。大学に向いている留学生と向いていない留学生だ(もうひとつ、働きたいだけの留学生もいるがここでは触れない)。大学に向いている留学生とは、普通の、そして大部分の留学生だ。

これに対し大学に向いていない留学生は普通ではない。なぜなら、大学に向いていない人が大学に来ることは普通はないからだ。

しかし、次の二つの条件が揃った場合だけは別だ。つまり、留学生の親にかなりの資産があり、しかも、なにがなんでも(子どもの意思・適性などお構いなく)外国の大学を卒業させたいと考えている場合のみ、普通でないことが起こりうるのだ。

しかも、そうした親の中には、自分の子どもが日本で何を学ぶかなんて重要ではなく、ただ日本で大学を出たという証明書だけ持って帰ってきてくれればいい、という考えの持ち主も一定数いる。

そして、こういう親を持つ留学生の受け皿となっているのが、彼の大学なのだ。いや、「受け皿」など結構な表現すぎる。親の弱みにつけ込んで、いいカモにしているというのが実情だ。

こうした状況を考えてはじめて、代理出席業者が横行するのも、そして、それに口を出すなという彼の同僚の態度も理解できるようになる。

なぜなら、親に言われて日本に来ただけで「勉強する気」などない裕福な留学生にとって、代理出席業者を利用するというのはさほど抵抗感のないことだからだ。また大学からすれば「大学卒業証書」だけを4年間かけて無難に「売りつけ」ればいいだけなのだから、代理出席を追求するなどどうでもいい事柄だ。いや、むしろ、やる気のない学生を追求し、ことを荒立てたりして、中国で悪い評判を立てられるほうが、よっぽど商売の邪魔だ。

それゆえ、放っておくのが一番ということになる。だが、彼はこの考え方は気に入らなかった。