苦い文学

密輸業者の分類

牧師によれば「家具でもなんでも日本製のものは中古でも品質がいいので、みんな欲しがる」というが、私にはわざわざ密輸するほどのものではないように思えた。

だが、今回は見ることができなかったが、この密輸拠点では日本の中古車も扱われているとのことで、おそらくこれがメインなのであろう。

さて、この拠点は国境の川に面していて、ビルマ側には「Grand Myawaddy」という大きな建物が立っている。これはビルマ側の密輸組織の経営するカジノだそうだが、現在は閉鎖されているという。

うっかり写真を撮ろうと携帯を取り出した私を、同行した友人、非常に温厚な人だが、その彼が血相を変えて注意したのだった。

私たちはいくつか店を回ったが、そのうちのひとつで友人と牧師はバッグを買うことにしたようだった。2人が品定めをしているあいだ、私はその店の倉庫をぶらぶらと見て歩いた(店内は写真を撮ってもいいというので私は何枚か撮らせてもらった)。

日本製の棚が並んでいるが、なによりも面白かったのがその棚に並べられた置物類だった。北海道の熊の木彫りから、沖縄のシーサーまで、あるいは、伝統的な民芸品から得体の知れぬキャラクターまで、日本中のありとあらゆる人形が、どの棚にもびっしり詰まっているのだ。

しかも、木彫りの熊なら熊、というように同じものがサイズ違いでまとめられている。博多人形のコーナー、ファンシーなキャラのコーナー、ダルマや赤べこのコーナー……戦後の日本人の想像力が生み出したありとあらゆる造形が系統的に分類され展示されているのだ。まるでそれ専門の学芸員がいるのではないだろうか。

とくに私がうなったのは、47人の赤穂浪士の豆人形がずらりと勢揃いした民芸品が、「二十四の瞳」の先生と子どもたちの像と同じ棚に置かれていたことだ。

これもこの「学芸員」の斬新な見識によるものであろう。

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密輸業者の店

メーソートから車で15分ほどのところに、日本の中古品ばかり扱っている場所があるという。牧師は私たちをぜひ連れて行きたいというのだ。

道中、牧師はこういった。「これから行くところでは絶対に撮影しないように」

どうしてかと聞くと「そこはタイとビルマの密輸の拠点で、日本の中古品がタイからビルマへと流されているからだ」という。詳しくはわからないが、現地のタイ警察とビルマ側の組織が取り仕切っているらしく、「取材は断固としてお断り」なのだそうだ。

駐車場に車を止めて外に出る。倉庫のような建物が並んでいて、その前に商品がずらりと並んでいる。店先に並べられているのは、ベビーカー、車椅子だ。そのうちのひとつの店内に入る。

なるほど確かに日本の品々だ。食器棚やソファ、鏡台、桐のタンスなどの家具類もあれば、ギターもぶら下がっている。おもちゃ類もたくさんだ。また、隣のガレージには所狭しと食器が並べられている。なにに使うのか、着物まであった。

志村けんのバカ殿置き時計など懐かしいものもある。また、スターウォーズのAT-ATドライバーのフィギュアなどもあって、これは買おうかと迷った。

奥のほうにはダンボール箱が積まれていて、引っ越しのときに使われたのか「ピアノ、上の棚」などと書かれたものもある。

これはまた別の店だが、フライパンや鍋専用の棚もあれば、ゴルフ用品が積まれているコーナーもあった。

この店の主はムスリム系のビルマ人で、話によるとこれらの品々は仙台からコンテナで送られてきたのだという。確かに仙台の野球チームのユニフォームがぶら下がっている。

日本では人は年老い、死ぬばかりで、そのたびに大量の物品が処分される。ここにあるのもそうした古い年老いた品々だろう。そして、古い世代の品々というのは、そうじて作りがしっかりしているものが多いから、安物ばかりの現代から見ると、どれもかつての豊かだった日本の名残のようにも思える。

私はやがて、失われた文明の遺物が展示された博物館に迷い込んだかのような気がしてきた。

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プラテポー IDP キャンプ(2)

私たちが車を止めたところからは、川とその向こうのキャンプが広々と見渡せた。同じ場所に屋根付きのピックアップが止まっていて、人々が次々と積み荷を下ろしているところだった。

それらはトマト、きゅうり、なす、豆類、かぼちゃ、その他日本にはない野菜で、いずれもビニール袋に詰め込まれている。人々はこれらの野菜をすぐ下の河岸に運び下ろし、そこに停まっているボートに積んでいた。

牧師は私に、プラテポー・キャンプのキャンプ・リーダーのひとりである女性を紹介してくれた。彼女たちは IDP キャンプに食料を運ぶ作業を行っていたのだった。

食糧の搬入は週1回、金曜日の午前ということで、私たちは運良くその場に遭遇したというわけだ。野菜ばかりなのは、肉は高くて難しいからだという。

人々はバケツリレーの要領で野菜の袋をボートに積み上げていく。そして、積み終わると、エンジンをかけてキャンプ側に向かって行った。

一緒に川を渡ってキャンプに入らないか、と誘ってくれたが、あいにく私たちには時間がなく、今回は諦めた。

さて、車を止めた場所の近くに、鉄の柱が立っていて、丸い黄色の標識がぶら下がっていた。なんでもタイのバイク乗りたちの名所のひとつということで、私たちはその下で記念写真を撮ってメーソートに戻った。

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プラテポー IDP キャンプ(1)

メーソートに戻ってきたその夜、私は疲れが出たのか、高熱と腹痛でのたうちまわり、その次の日も1日寝ていた。

ようやく動けるようになったのはその次の日で、なにも食べることはできなかったが、私は友人とともに牧師にいくつかの場所につれて行ってもらった。

初めに行ったのは、メーソート市街から車で 45 分ほどのなだらかな丘陵地帯で、すぐ近くに大きな川が流れている。

その川の向こうはビルマだ。向こう岸には木々の間に小さな粗末な家が立ち並んでいるのが見える。

これは IDP キャンプだという。IDPというのは国内避難民(Internal Displaced People)のことで、要するに国外にも逃げることのできない難民たちだ。

「プラテポー」キャンプという名前だとのことだが、正確にはわからない。

このキャンプには、2021年のビルマ軍のクーデターのときに逃げた人々が暮らしている。現在は 920 人いるという。

クーデター当時、人々はみな川を歩いて渡ってタイ側に逃げた。だが、タイ側に逃げたとて、タイの警察に捕まれば不法入国者として追い返される。そこで、人々はサトウキビ畑の中に入って隠れていたそうだ。

「それで、私は妻と一緒に車ででかけて、サトウキビ畑で大声でさがしてね、見つけると安全なところにまで連れて行ったよ」

と牧師は私たちに語ってくれた。

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友人の母

私のカレン人の友人の父は立派な人だったが、だからといって人生がうまくいくわけではない。それで、子どものころの友人はしばしば貧しい暮らしを経験したとのことだ。

当時、家族はヤンゴンに住んでいたが、隣にカレン人の牧師一家が住んでいて、豚を3匹ばかり飼っていた。その牧師は隣人の暮らしぶりに同情して、少し助けてやろうと思った。まだ小学生だった友人にこんなことを言ったのだ。

「あちこちの家の前に釜を置いて、米の煮汁と残飯を入れてもらいなさい。そしてそれを毎朝集めて、私の家の豚のところに持ってきて餌として食べさせなさい」

彼が言われた通りにすると、牧師はお小遣いをくれたのだった。

しばらくすると、友人の家に再び幸運が訪れた。今度は父親が宝くじを当てたのだった。母親ほどではなかったが、それでももっといいところに引っ越すことができた。

そして、新しい家で友人の母親は豚の飼育を始めた。隣人の牧師のアルバイトのおかげで豚の飼育法はわかってる。それで一時は40匹にまで増え、一家は楽しく暮らしたそうだ。めでたしめでたし。

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友人の父

今回私を旅に誘ってくれた友人は、ビルマのカレン人だ。カレン人にもいろいろグループがあるが、彼はエーヤーワディ・デルタ出身のポー・カレン人だ。

彼は現在60歳で、日本にもう20年以上いる。難民申請の結果、在留資格を得た。今は仕事をしながら、在日カレン人のためにいろいろな活動をしている。

また、カレン人だけでなく、日本にいるビルマのさまざまな民族とも活動をしている人だ。

彼はデルタ生まれだが、育ったのはヤンゴンだ。彼がまだ小さいとき、彼の母が宝くじを当てた。けっこうな額だったそうで、彼の母はそのお金でトラックを買ってビジネスを始めようと考えたが、「危険だ」と周りが言うので実現しなかった。

彼の父は当時、マンダレーの北で働いていたそうだが、そのお金でビジネスをすることにした。

ヤンゴンは首都だからなんでも高い。彼の父はその土地で野菜を安く仕入れて、ヤンゴンで売れば儲かると考えたのだ。さっそく父はジャガイモやらニンジンやらを買い込んでトラックで運んできた。

だが、その運送費を加えると、ジャガイモもニンジンもヤンゴンでの売値と変わらなくなってしまった。「これでは売れない」と、そのままにしておいたら、結局すべてダメになったしまった。

「『カレン人は商売ができない』ってみんないうけど、お父さんもそうだったね」

と私の友人は笑うのであった。

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旅の続き

さて、私はカナダからやってきたカレン人難民の話を聞き、やがて迎えの車が到着し、私と友人は目的地に向かって出発したのだった。

そして、1週間ののち、私たちはメーソートに帰ってきた。その間のことについては、別の機会に詳しく書きたいと思う。

このブログで毎日毎日書き流すのは簡単だが、このテーマはどうもそれにそぐわないように思えるからだ。

ところで、私が滞在していた地域は、電気もなく、インターネットに接続するのは、とくに最初のころは難しかった。そんなわけで、私はいくつもの記事をあらかじめ書き溜めておいて、接続があるときにまとめて予約設定をして、毎日更新を維持することができた。

この記事「旅の続き」も前もって準備しようとしたひとつである。だが、「そして、1週間ののち、私たちはメーソートに帰ってきた。」と書いたところで私はやめた。なぜなら、不測の事態が起きて予定通りにいかない可能性も大いにあったから。私たちが帰る前にブログでだけ帰っていたらおかしなことではないだろうか。

そしていま、予定通りに帰ってきた私は、この記事を書き終えることができたのである。

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ケベックの難民たち

さて、ケベックの難民についても少し聞いた。彼がケベックにやってきたのは2006年12月だが、現在、ケベックには20のカレン人家族がいえるそうだ。カナダの他の地域に比べて少ないほうではないかと思う。

現在、多いのはカレンニーの人々だ。カレン人とも関係のある民族だが、ビルマには単独のカレンニー州がある。2016年以前はケベックにいなかったということだ。この最近の流入には、カレンニー人にカソリックが多いことも関係あるのだろうか。

彼の仕事についても聞いた。以前は空港で積荷関係の仕事をしていたが、コロナで失業したそうだ。現在はアルバイトをしているが、冬は仕事がないので、それで3ヶ月の予定でタイ・ビルマ国境で過ごすことにしたとのこと。

ビルマには帰ったことはあるか、と聞いたら、カナダのパスポートなので入国するのは問題はないが「帰らない。家族に迷惑がかかるから」という。以前、彼の友人が一時帰国したさい、出国後、家族が政府から厳しい取り調べを受けて、大変な目にあったそうだ。ひそかに撮られた写真まで証拠として見せられたのだ。この苦境を脱するのに、家族は相当のお金を支払ったという。

そんなわけで、彼は家族に仕送りするのでさえ、直接は送らない。「この金はどこからだ」と政府当局の関心を呼ぶからだ。そのかわり、タイに送金して、そこから友人に運んでもらうのだそうだ。

さて、カナダからの客人とこんな話をしている間に、迎えが来た。私たちはメーソートを出発して、目的地に向かうのだ。

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ケベックのカレン人

マレーシアにいたカレン人難民の彼がカナダのケベックに移住したのは、2009年12月15日。どうしてケベックなのかは分からないが、これは受け入れ国の状況にもよるからたまたまだったのかもしれない。彼の仲間の中にはアメリカに行った人もいるという。

彼がいうにはケベックでフランス語を習得するときにケベック在住の日本人女性に非常に世話になったそうだ。それにしてもケベックに渡ったのは30代後半。その年で新しい外国語を覚えるのは大変だったと思う。

なんにせよ、私にとってははじめての「フランス語を話すカレン人」だ。そう言ったら笑ってた。

ちなみにケベックのフランス語は、パリのフランス語とは違う。そして、違うといえば、人々も違うのだそうだ。ケベックのフランス人はむやみやたらに働いたりなどせず、ワインと人生を愛しているらしい。

この点はトロントなどの英語圏とも大いに違うようで、人々はたくさん働き、彼のような移住者の中にはダブルワークをしている人も多いという。それは、自分の故国に仕送りをするためなのだが、ケベックのフランス人にいわせれば「35時間以上働くのは頭がおかしい」ということだ。

私はケベックのことはよく知らないので、このケベック像が正確かどうか分からない。だが、移住者からの視点のひとつとして、ここにまとめた次第だ。

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カナダのカレン人

朝食後、私たちは牧師と別れ、迎えの人の車で、その人の家に行った。そこで、別の迎えを待つのだ。

家の持ち主は、カレン民族の政治団体の人で、事務方の責任者だ。お子さんが2人いて、タイの小学校の支度の最中だった。

その家には別のカレン人がいた。カナダからやってきて、しばらく国境に滞在しているのだという。私もカナダにカレン人の友人がいるので、それをきっかけにいろいろ話を聞いた。

彼はエーヤーワディ・デルタの出身で現在50代だ。私とほぼ同じ世代だ。学校のないような貧しい村を出て、カレン人の反政府組織に入ったのが11歳。そこで10年ほど生活し、1990年代半ばに組織を離れ、インドネシアに働きに出た。後にマレーシアに移った。

これらムスリムの多い国では、たくさんのビルマ出身の人々が働いている。カレン人もそのひとつで、私は1999年にクアラルンプールのカレン人の教会関係者の家に泊めてもらったこともある。

彼がどのような仕事していたか分からないが、私が別の人から聞いた話だと、カレン人のキリスト教徒は、現地のムスリムがしたがらない仕事についていることもよくある。豚肉を扱う仕事がその代表的なもので、中華料理関係の仕事はもちろん、養豚場というケースもある。後者の労働環境は非常に劣悪だという話を聞いた(ただし20年前の話だ)。

そしてこれらのビルマ出身の労働者は、正規の就労資格がない場合が多い。いま話している彼もそうで、そうした不安定な状況のせいもあって、2005年、マレーシアでカレン人団体を作り、いろいろな活動を始めたそうだ。そして、その活動を通じて、難民としてカナダに移る機会を得たのだという。

私は詳しくは知らないが、マレーシアには国連難民高等弁務官事務所の窓口があると聞いたことがあるから、その関係かもしれない。

そこで私はカナダのどこにいるのかと尋ねた。私の友人がいるのはアルバータだ。トロント、バンクーバーにもたくさんいると聞いたことがある。

彼は答えた。「ケベック」

フランス語圏だ! 忘れかけていたフランス語が思わず私の口から飛び出てこようとしたが、忘れすぎていたせいかぶつぶつ言いながら引き返していった。