苦い文学

新札旧札

【旧札の替えどきは? 気鋭の経済学者のコラム ‼︎ 】
もうすでに多くの人が論じていますが、新札は大混乱を引き起こす、というのが大方の予想のようです。

なぜなら、この新札はどこででも使えないからです。自動販売機、自動券売機、ATM、レジの自動精算機……私たちの生活は、お金のやり取りはもうほとんど機械がやるようになっているのに、その肝心の機械が新札を受け付けてくれないのだから、あきれます。

かといって、新札に対応する機械の導入コストだってバカになりません。この不景気に、そのような負担ができる中小企業はまずないのではないでしょうか。

そんなわけで、私たちは旧札を使い続けざるをえません。ですが、政府としては新札を使ってほしいのですから、ジャンジャン刷って、旧札を回収します。その結果、使えない新札がますます出回っていくことになるのです。

こうなると、私は新札デフレが始まると見ています。つまり、新札の価値が下落して、旧札と等価でなくなってしまうのです。たとえば、福沢諭吉1万円手に入れるのに、渋沢栄一5万円分必要になるかもしれません。また、このままだと樋口一葉の5千円に津田梅子10枚分(5万円)支払うようになるでしょう。

もちろん政府はこのような交換を禁止するでしょうが、それでも、絶対に旧札は手放さないでください。

そのうち政府が、旧札1枚使用するごとにポイントを付与するキャンペーンを始めるはずなので……。

苦い文学

サクラ

昔、日本人は死を知らなかった。人は何百年と生き、ゆっくりと年老い、別の世界に消えていくのだった。そんなだから、縄文時代は1万5千年以上も続いたのだ。今のように政府がコロコロ変わったりはしなかった。

さて、ある日のこと、縄文時代の日本人が山を歩いていると見知らぬ原っぱに出た。そこには見たこともない木が生えていて、枝という枝がピンク色の花でいっぱいなのだった。私たちの先祖はその美しさに息を呑み、見事に咲いていることから、その花を「サクラ」と名付けた。

ご先祖様たちは、その「サクラ」の前で何日も過ごした。あまりの美しさに立ち去りがたくなってしまったのだった。しかも、サクラは咲いたかと思うと、潔くパッと散って、花びらを周囲に振りまいた。これにすっかり夢中になった大昔の日本人は、サクラにこうお願いした。

「サクラよ、あなたが潔く散るのを真似して、私たちが潔く散るのをお許しください。そのかわり、私たちは、あなたを褒めたたえるために、あなたが咲くと、その下で酒や食べ物を捧げます」

こんなふうにして私たちはサクラと約束し、潔く死ぬことを覚え、花見の習慣も始まったのだ。

私たち日本人と桜の約束は、どちらかが一方的に勝手に解消することはできない。なので、私たちは桜というものがあるかぎり、潔く死ぬことだろうし、子どもだろうと誰だろうと、他人に潔い死を強制し続けることだろう。

じつのところ、早く温暖化が進んで、日本から桜が消えるように、と私たちは内心思ってる。

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石板

『旧約聖書』の「出エジプト記」に描かれるのは、指導者モーセがイスラエルの民を率いて、エジプトを脱出する物語だ。

脱出後、モーセは、イスラエルの民とともにシナイ山の荒れ野に到着した。人々はそこにテントを張って、キャンプをした。モーセは、シナイ山の山頂に登り、神に会った。そして、神はイスラエルの民のために掟を定め、石の板に自らの指でその掟を記し、モーセに与えたのであった。

いっぽう、そのころ、イスラエルの民はモーセが待てど暮らせど山から戻ってこないので、ひどく不安になって騒ぎはじめた。不安をしずめるために人々は、金のアクセサリーを集めて、黄金の子牛の像を作り、これを崇拝することにした。

山から帰ってきたモーセは、イスラエルの民が勝手に神像を作り、ひれ伏したり、踊ったりしているのを見た。彼は、自分の思いの通じない民の姿に激怒し、手にしていた石板を投げつけ、粉々に砕いたのであった。

偉人中の偉人であるモーセにしてこうなのだから、現代の私たちが、ゲームがうまくいかないからといって、カッとなってコントローラーを投げつけたとしても、だれが責められようか。

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なり損

貧しい国があるのは、世界の富める国が不正な収奪を行っているからだ。私たちは、そう習ってきた。そして、そう習うとき、富める国のひとつである日本に暮らす者として、貧しい国に対する責任を感じたものだった。

貧しい国の人々と会うこともあった。それらの国の人々は節度があったから、収奪する側である私たちを責めはしなかった。ただこう言うだけだった。「貧しい国をなくすためには、富める国も変わらなければなりません。皆さんにはその責務があるのです」と。私たちは、身も引き締まる思いでこの言葉を聞いたのだった。

それから年月が過ぎ、もはや日本は富める国ではなくなった。私たちは猛スピードで転落し、貧乏老人ばかりの貧乏国になった。いや、それどころか、もう最貧国集団が私たちの背中を捉えているという。

貧困国の一員になってみると、「奪われる貧困国と奪う富裕国」という私たちが学んできた図式が、もう時代遅れだということに気づかされる。なぜなら、豊かな国などどこを探してもないから。どの国でも生活が苦しく、だれもがホームレス一歩手前だ。

勝ち組も負け組もなかった。全部の国が負け組なのだ。地球ごと地獄化が進んでいるのだ。

これはまったく不公平だ。私たちは、貧困問題を豊かな国の若者に切々と訴える重大な機会を奪われたのだ。

せっかく貧困国になったのに、これではなり損ではないか。

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大ネアンデルタール人展

県立科学博物館では、この夏、特別展として「大ネアンデルタール人展」を開催する運びとなりました。

ヨーロッパや中東で発見されたネアンデルタール人の有名な骨の展示や発掘の様子はもちろんのこと、骨から復元したリアルな人形や暮らしぶりなどもご覧いただけます。

なかでも目玉は、日本初公開となる、中国で発見されたネアンデルタール人の全身骨格です。この化石は、ネアンデルタール人がヨーロッパだけでなく東アジアにもいたことを示す貴重な証拠であり、世紀の発見と大きな話題になりました。今回の「日本上陸」は、中国の国家科学院の全面協力により実現しました。

博物館では、この「中国のネアンデルタール人」初公開を記念して、さまざまなグッズも販売しております。

売店には、ネアンデルタールのぬいぐるみ、ステッカー、キーホルダー、クリアファイルなど、素敵なグッズが揃っておりますので、ぜひお買い求めください。

また、地下の食堂では、中国政府公認の調理師の協力のもと、貴重なネアンデルタール人の骨からダシをとったネアンデルタンメンをご提供しております。この機会にぜひ、人類誕生の味をご賞味ください(1日5杯限定)。

(参考資料:山上たつひこの「にぎり寿司三憶年」)

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反日だけは許さない

遠い異国の街角で、日本人が刺殺されたとき、私たちは激怒した。なぜなら、その国は反日国だったし、じつに卑怯なやり方で日本を陥れようとしていたからだった。

「反日国家は許せない!」 私たちは叫んだ。「日本人を守れ!」

「このような日本人に対する迫害がまかり通るとは恐ろしい国だ」「こんな国はただちに潰すべきだ!」 なかには「日本人を守るために派兵すべきだ!」とまでいうものも現れた。

私たちの怒りは政府に向けられた。「どうして政府は毅然とした対応をしないのだ!」「弱腰の政府め!」「あの政府はとっくに外国人に支配されているのだ」

私たちはついに直接行動に出ることにした。 SNS でデモを呼びかけたのだ。「国会議事堂に集まり、それから敵国の大使館までデモ行進だ!」

集結した私たちは、思い思いのメッセージを掲げ、激しい言葉を叫びながら、東京中を歩いた。途中、私たちは敵国の人間が歩いているのを見つけた。親子のようだった。私たちが罵詈雑言を浴びせかけると、慌てて逃げていった。いい気味だ!

私たちが敵国大使館へと意気揚々と「進軍」しているとき、新たなニュースが入ってきた。

日本人の刺殺犯が捕まったのだ。ニュースによると、特定の国籍を狙った犯行ではなく、無差別殺人だったという。

「なーんだ、無差別か」「反日ではなかった!」「無差別ならいいよ」

私たちは解散して、帰宅した。

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尋ねられ顔

尋ねを誘発する「尋ねられ顔」とでも言ったらいいのだろうか、私は海外の旅行先で、現地の人に道を聞かれることがある。

台湾・台北の街をひとり散歩していたら、年配の女性が中国語で話しかけてきた。中国語はわからないが、道を尋ねているようだ。だが、私に何が言えよう。そのまま立ち去るほかなかった。

私の風貌は、台湾の人やフィリピンの人に似ているとよく言われる。だから、もしかしたら、同じ台湾人と思ったのかもしれない。

韓国に行ったときも、似たようなことがあった。日本から着いたばかりで仁川空港をうろうろしていると、やはり年配の女性が話しかけてきた。「〜はどこですか?」ということを聞いているのはわかったが、それだけだ。私はただ首を振るしかなかった。

このことを知り合いの韓国人に話したら「さすが、現地の人に間違われましたね」と返事が返ってきた。こう言われて悪い気はしない。

そして、チュニジアに行ったとき、地方の町でバスを待っていると、隣で立つチュニジア人男性から、「次に来るバスが遅れているのか」と尋ねられた。

台湾でも韓国でも、私を現地の人と間違う人はいるかもしれないが、アジア人のほとんどいないチュニジアではそれはまずありえない。ここでようやく私は、ことの真相に気がついた。

世の中には、疑問に思ったら、周りにいるのが誰であろうと尋ねずにはいられない人がいるのだ。つまり私は「尋ねられ顔」でもなんでもなく、ただたまたまそうした「尋ね人」に出会ったに過ぎないのであった。

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セマンチック・マジック

その奇術師は、舞台に立つと、小さなホワイトボードを5枚取り出し、5人の観客たちに配るとこう言った。

「お好きなひらがなをひとつお書きください。私に見えてもかまいませんよ」

観客たちが書き終わると、奇術師はそのボードを集め、枠に嵌め込んで、書かれた文字が見えるように並べた。文字列を続けて読むと「ふそけむぜ」となった。

「『ふそけむぜ』! まったく意味のない言葉ができあがりました。ではみなさん、このボードに集中してください」

奇術師は観客の視線を誘うように、ボードの前で手を優雅に動かした。

「そうです、そうです、ジーッとみてください。そして、自分の心から湧き上がるものを感じてください」

観客たちははじめは訝しげな顔つきだったが、次第に何かが浮上してくるのを感じ始めた。

「どうですか。いま、結びつこうとしています。そのイメージです。そう、そう!」と陶然とした声で奇術師が語りかけると、観客たちはうっとりとうなずいた。

「さあ! 結びつきました! シニフィアンとシニフィエがいま結ばれました!」

観客たちは夢から醒めたように奇術師を見つめた。どの顔も、驚きと喜びに照り輝いていた。

「みなさん! もう、おわかりでしょう! 『ふそけむぜ』とはなんですか?」

人々はいっせいに大声で答えた。「右手の中指にできたササクレ!」

「そのとおり! いま、私たちは意味の誕生を目撃したのです! 新たな言葉として、『ふそけむぜ』が産声を上げました! これがセマンチック・マジックです!」

2回目のマジックでは、たまたま文字列が「はたけやま」となり、これに「今にも犬の尻から糞が落ちそうな状態」というシニフィエが結合したため、会場に居合わせた畠山氏が激怒して、大騒ぎになった。

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閉じ込めの夏

今年もまた、閉じ込めの夏がやってきました。ちびっこたちが地獄のような暑さの車の中に閉じ込められ、どれだけ泣いても喚いても、どれだけ熱い扉を窓を叩いても、誰ひとり助けに来ず、完全に忘れ去れられて、焼き殺される夏が。

「今年はいったい子どもが何人死ぬか、ズバリ当てましょー!」と、愉快な YouTuber たちが現れて、面白おかしく配信を始めました。

「15人!」「いや8人!」「ゾロ目の22だ!」

遊びとはいえ、みんな真剣です。というのも、みごと当てたら、賞金1億円がもらえるんです。YouTuber のひとりときたら、早くもそのお金をもらった気でいて、ガールズバーで豪遊の皮算用。ニヤニヤしながら「お願い、10人死んで!」だって。

「結果発表は9月31日! それまでにどんどん閉じ込めて!」と YouTuber が呼びかけたら、もう炎上どころの騒ぎじゃありません。日本中が激怒して、罵詈雑言を浴びせかけます。

「吊るせ! 子どもの命を粗末にする虐待 YouTuber どもを締め殺せ!」

YouTuber たちはせせら笑いました。「俺たちに文句言うのは、俺たちぐらい税金を払ってからにしろ、貧乏人が!」

こんなことを言うものですから、日本中がますます怒り狂います。あまりにも頭に血が上ったので、みんなゴジラみたいに口から火を吐きはじめました。

人々は不遜きわまりない YouTuber たちに向かって叫びました。「お前たちの居場所を突き止めて、絶対にぶちのめしてやる!」

それに対して YouTuber たちがまたカッとさせるようなことを言うものですから、炎上に次ぐ炎上で、結局夏じゅう燃え盛ったのでした。

そして、ついに9月31日がきました。この日、人々は2つのことを知りました。ひとつは、みんなが注意深くなったせいで、その夏ひとりも閉じ込められて亡くなる子どもがいなかったこと。そして、もうひとつは、この不埒な YouTuber たちのアジトがついに突き止められたこと。

人々が突入してみると、そこには配信機材に囲まれて小さな観音様の像が立っていたということです。

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じつは

私の知人で言語に関する研究をしている人がいる。研究者の仕事は研究をすることだが、それだけでは十分ではない。研究会や学会に出席して、研究発表をしたり、聞いたりするのも大事なのだそうだ。

私の知人によれば、研究発表にはいろいろな危険があるのだという。私がその危険について知りたがると、ひとつだけなら、と教えてくれた。

「学会発表では発表のあと、質疑応答の時間がある。フロアから質問が飛び、それにひとつひとつ発表者が答えていくのだが、その答えに『じつは』を使うのは、非常に危険なのだ。

「というのも、『じつは』とは、それまでに明かされていない裏の事情を明かすときに使う言葉だ。いっぽう、質疑応答というのは、その直前の発表内容にもとづいて行われるものだ。だから、発表者が質問に答えるときに『じつは……』とそれまでに言っていなかった情報や新たなデータを付け加えるのは、ルール違反なんだ。

「もし、その『じつは』のデータがあらかじめ提示されていれば、質問者はそんな質問はしなかったかもしれない。質問した人にしてみれば、ちょっとバカにされた気分だろう。

「それに他の人々だって、無駄な時間につきあわされたわけで、とても不愉快だ。そんなわけで、いつしか、学会出席者たちの心理に、『じつは』という言葉を聞いただけで、激しくイラだってしまう反応が形成されてしまったのだ。たとえ発表とは関係なくてもね。

「そういえば、ある言語系の学会でこんなことがあった。遅れて会場に着くと、ちょうどひとつ発表が終わったときで、人々がゾロゾロ会場から出てきた。だが、そのようすには驚かずにはいられなかった。まるで暴動の後のようだったのだ。みな顔をしかめ、罵りあい、平気で肩をぶつけ合い、苛立たしげに床を踏み鳴らし……学術の場にそぐわない殺伐とした雰囲気だ。だが、プログラムにあるその発表タイトルをみて納得したね。そこにはこう書かれていたのだ。

《現代日本語における「実は」の用法の研究》

不運な発表者は虫の息だったそうだ」