苦い文学

アウシュヴィッツ訪問(4)

英語のツアーが空いている日は、と調べてみると、2週間後にようやくポツポツと出てくる。私が帰国したあとだ。しかし、そのうちに当たり前のことに気がついた。

ポーランド語のツアーだろうとロシア語のだろうと、参加するのに語学力の証明書がいるわけではない。誰だって参加はできるのだ。ただ解説がわからないだけだ。そういうわけで、私は9月6日朝8時45分のポーランド語の解説者のツアーを予約したのだった。

さて、次の問題は、どうやってアウシュヴィッツまでいくかということだ。ネットの情報によると、朝の6時ごろにバスがあるという。1時間半で着くというから、問題なく間に合う。

ただし、もう深夜の1時だったので、バスのチケットの予約はできなかった。なので、私は翌朝の午前5時過ぎにホテル(というか貸し部屋)を出て、クラクフ駅の隣にあるバスターミナルに行った。掲示板を見ると、6時20分に「Oświęcim(オシフィエンチム:アウシュヴィッツのポーランド語名)」行きのバスがあった。チケット(22ズウォティ、千円ぐらい)を買い、地下のバス停に行った。

すでに20人ぐらいの乗客が待っていた。私は何も食べずに出てきたので、近くの売店でパンを、バス停の前にあったカップ式の自動販売機でコーヒーを買った。

バスが来た。コーヒーを片手に私が乗り込もうとすると、カップの飲み物は持ち込み禁止、と運転手が手で制止した。あわてて外に出て、飲めるだけ飲んでゴミ箱に放り投げた。

(画像はアウシュヴィッツ行きのバスのチケット)

苦い文学

アウシュヴィッツ訪問(3)

さて、これまでは利口な人の利口な行き方について話してきた。では、愚かな人の愚かな行き方とはどんなものだろうか。

それは、前日になってアウシュヴィッツの行き方を調べる人である。これは、まさしく私であった。私がポーランド、ワルシャワに到着したのは、9月4日。そして、9月5日にクラクフに移動して、その日の夕方になって、さて明日(6日)はアウシュヴィッツに行こう、とネットを調べ始めたのだった。

もちろん、ポーランド行きが決まってから、アウシュヴィッツは絶対に行こうと決めていた。私は収容所と見ると行かずにはおれないタチなのだ。だが、同時に行き当たりばったりのタチでもある私には、その先を考えるのは難しかった。そして、そのせいで、わざわざクラクフにまできたのに、あやうく訪問を諦めざるをえないところにまで追い詰められたのだった。

さて、ありがたいことに、ネットにはいくつか訪問記があり、原則として博物館のツアーに参加しなくてはならないことと、専用の予約サイトがあることを知った。これについてはすでに書いたが、私はその手順通りに進み、9月6日のツアーを確認した。そして、驚いた。

ツアーが、朝の8時台にポーランド語とロシア語の解説者のものしかないではないか。英語のツアーがあるはずなのに……と、翌日の7日を調べてみると、そもそもツアーがない。土曜日だから休館日かもしれない、しかしそんなことあるかな……などと、あちこち見ているうちに、ようやく私にもわかった。

要するにほとんどのツアーの定員が埋まってしまっていたのだ。7日は休館日などではなく、すべて満員というわけだった。

もう遅いのだ。これはもう無理かもしれない、と私は考えた。

(画像は博物館前の鳥)

苦い文学

アウシュヴィッツ訪問(2)

「国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館」の予約専用のサイト(https://visit.auschwitz.org/)を通じて個人で予約をとる場合、まず訪問日を指定する必要がある(その前に「私はロボットではない」の画像認識の関門がある)。訪問日は3ヶ月先まで選ぶことができるようだ。

その先に進むと、訪問日に予定されているツアーの一覧が出てくる。朝8時15分から、午後2時ごろまで、15分おきにツアーが組まれている。個人で行く場合、このツアーに参加しなくてはならない。各ツアー定員は15名だ。

通常のツアーには2種類ある。解説者付きのツアーと解説者なしツアーだ。解説者付きのツアーは3時間かかる。解説者なしツアーはわからない(このほかに6時間のツアーなどもあるもよう)。

解説者付きツアーは午前中、解説者なしツアーは午後にしかないようだ。解説はポーランド語のほかに、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語、イタリア語などがある。

訪問日と言語とツアーの時間を選べば、実際の予約と支払いに進むことができる。料金は100ズウォティ(5000円ぐらい)でクレジットカードが使える。また、支払い時に寄付も求められる。

支払いが終わると、領収書、入場パス、注意事項などがメールで送られてくる。

ひとつ注意したいのは、この支払いが日本からできない可能性もあることだ。私はポーランドの別の支払いのために日本でカード決済しようとしたが、何度やってもダメだった。なので、もしも私が日本で「国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館」の予約をしようとしていたら、できなかったかもしれない。

もっとも、利口な人なら、きっとうまい方法を見つけることだろう。

(画像は博物館前のようす)

苦い文学

アウシュヴィッツ訪問(1)

人間には利口な人と愚かな人がいる。そして、利口な人は利口な方法を使い、愚かな人は愚かな方法を使う。なんでもふたつの方法があるのだ。そして、アウシュヴィッツの行き方にも、利口な行き方と愚かな行き方がある。

まず、利口な行き方から説明しよう。利口な行き方をする利口な人とはどんな人だろうか。旅の計画をちゃんと立てる人である。何ヶ月も前にだ。そんな人は、いついつにアウシュヴィッツを訪問すると決めたら、すぐに予約をとるべきだ。

予約には少なくともふたつのタイプがある。まず何らかのツアーに参加することだ。日本発のツアー旅行でもいいし、ポーランド国内のツアーを予約してもいい。アウシュビッツ訪問の起点となるのはクラクフだが、ツアーに参加すれば、クラクフからアウシュヴィッツまでの往復も心配しなくて済む。

もうひとつのタイプは、個人で訪問するというものだ。その場合は、自分でアウシュヴィッツ(より正確には「国立アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館」)の予約をしなくてはならない。

予約は専用のサイト(https://visit.auschwitz.org/)でできる。ただし、英語、ポーランド語の2言語しかない。

(画像は博物館の入り口)

苦い文学

自殺ゼロ都市宣言

黒鍬市議会で「自殺ゼロ都市宣言」が全会一致で採択された。我が国の自殺者の数に心を痛めた黒鍬市長が、まずは黒鍬市から自殺をなくそうと始めた肝いり事業だという。いったい誰が反対できようか。

「自殺ゼロ都市宣言」では、黒鍬市の3つの決意が高らかに述べられている。

・私たちは自殺のない黒鍬市をつくります。
・生きづらさを感じている人々を笑顔にする行政をつくります。
・心の豊かさにあふれた暮らしをつくります。

さっそくこれらの決意を盛り込んだ「自殺ゼロ都市宣言」関連施策が実施された。もっとも、当初はなかなか自殺が減らず、市民団体から激しい批判が繰り返された。あまりのひどさに、市長みずから自殺を考えるほどだった。

だが、いつだって正しいものが勝つ。年を追うごとに、自殺者が減っていったのだ。そして、とうとう市長の任期の最終年、ゼロになった。

いま「自殺ゼロ都市」がここに実現しようとしていた。この業績を引っさげて市長は国政にうって出るつもりだ、そんな噂も流れていた。

そのとき、とあるビルの屋上に思い詰めた人が立っている、という通報が寄せられた。

「市長! 自殺しそうな人がいます!」

「なんだと!」

市長は大慌てでビルに駆けつける。見ると、今にも飛び降りそうだ。

市長は叫んだ。「待て! はやまるな!」

思い詰めた人は叫ぶ。「うるさい! 死ぬしかない!」

「すきにしろ!」と市長。「だが、飛び降りるなら、ビルの反対側からにしてくれ! そっち側は隣の市だ!」

苦い文学

Wrapped Around Your Finger

私の町の駅のデッキに、毎日のように老人がやってきて、ギターをポロポロつまびいたり、おもちゃみたいなボンゴをポコポコ叩いている。音も小さくて、なにを演奏しているのかもわからない。そもそも弾けるというレベルでもないようだ。もちろん、耳を傾ける人などひとりもいない(ちょうどこのブログのようだ……)。

もう何年も前のことだが、あるとき、私は改札口から出てデッキへと歩いていた。すると、鋭いビートが聞こえてきた。私はその音を聞いて、スチュワート・コープランドのドラムを思い出した。スチュワート・コープランドは、イギリスのバンド The Police のドラマーだった人で、名ドラマーのひとりに数えられている。シャープなスネアの音が特徴で、駅を歩く私の耳に飛び込んできたのもそんな音だったのだ。

やがてあの老人の姿が見えた。花壇の縁に座って、ひとりボンゴを叩いていた。私はおかしくなった。ろくに楽器も弾けないこの老人のプレイから、スチュワート・コープランドのドラミングを想起するとは。

老人は私の進行方向にいたので、私はニヤニヤして近づいていった。そして、驚くべきことが明らかになった。

老人のわきに小さなラジカセが置いてあって、そこから The Police の名曲 Wrapped Around Your Finger が小さーく流れていたのだ。老人はスチュワート・コープランドに合わせてボンゴを叩いていたのだ。

ウケ狙いのさもしい作り話と思われるかもしれないが、これは本当の話だ。

苦い文学

リベラルな邸宅

私は長いあいだ、リベラルとして生きてきた。そのせいか最近、暮らし向きがとみに向上してきた。ネトウヨ貧困層とはずいぶん格差が開いてしまったが、私としてはこの格差社会をなんとかしたいと思っている。

それはそうと、経済的なゆとりができたので、私は家を建てることにした。設計は、進んだ思想の持ち主のリベラル建築家に頼んだ。

建築も長年のリベラル仲間にお願いした。環境にやさしくて、安全よりも人権第一の建設会社だ。

そして、ついにリベラル邸宅が完成した。設備は最新式で、ネトウヨがしがみついている古臭いシステムはいっさい排除してある。堅固な防犯システムも備わっていて、ヘイトや陰謀論はまさに侵入不可能。

それでいて、オープンでインクルーシブなのだ。毎週末には、リベラルな集会を開いたり、貧乏人を招いて豚汁をふるまったりして、面白おかしく過ごすつもりだ。

本当に素晴らしい住宅なのだが、住んでいるうちに重大な事実が発覚した。

それは床の上にテニスボールを置いたときにわかったのだ。テニスボールが転がっていかないではないか。

なんと家が傾いていなかったのだ。とんだ欠陥住宅だ!

「日本の右傾化を食い止めるために、家を左に傾けて建ててほしい」

私のこんなリベラルな要望が、設計の段階で先方に伝わっていなかったとは、まことにもって残念だ。

苦い文学

草野球

商業施設が老朽化のため取り壊され、大きな空き地ができた。

新しく建物が建設されるという噂だったが、いつまでたっても動きはなく、空き地のまま放置されていた。

そこにある日、どこからともなく子どもたちが集まって、野球を始めた。このようすを見かけた老人はあまりのことに腰を抜かした。そして、なんとか立ち上がると、大慌てで別の老人たちに告げて回った。

「子どもたちが空き地で野球をしているぞ!」

老人たちはどよめいた。「この時代に空き地で子どもたちが野球だと?」「俺は信じない」「ありえない!」「よし、見に行こう!」

老人たちが件の空き地に詰めかけると、果たして子どもたちが草野球に興じている。ここ何十年も見たことのない光景に、老人たちは衝撃を受けた。絶命するものまで現れた。

そこをたまたま通りかかったのが、テレビ・リポーターの老人。なにごとかと老人たちをかき分けて覗き見ると、空き地で子どもたちが野球だ。これはとくダネだと、テレビ局に連絡した。たちまち、老人のテレビクルーが駆けつけて、生中継を始めた。

ちょうどそのとき、テレビではいつものようにプロ野球の過去の映像を垂れ流していた(もう放送するものがなくなったのだ)。それが、急に画面が切り替わり、子どもの草野球中継が始まったのだ。日本中の老人たちが驚愕し、テレビにかじりついた。

「本物の子どもたちがやっている本物の草野球だ!」

あるものは歓喜に飛び上がって腰を痛め、あるものは合掌して涙を流した。アナウンサーと解説者は老いた声を張り上げた。この日、日本のすべての老人たちが奇跡を目撃した。

そして、試合が終わった。少年のひとりが盗塁に失敗し、どちらかが勝ったのだ。だが、勝敗などどうでもいい。老人たちは心から拍手を送った。

日本の黄昏を飾った最後の歴史的瞬間だった。

苦い文学

ミツメ

9 月 27 日、LIQUIDROOM 20 周年記念として、ミツメが登場した。ミツメとしても結成 15 周年、そして LIQUIDROOM で初のワンマンをして 10 年目ということだ。

私はミツメのライブは初めてで、またそれほど熱心に聞いていたわけではない。ただ、なんとなく初期の細野晴臣のような印象をもっていた。どことなく懐かしい音作り、少しひねりがあって落ち着いたメロディ、という感じだ。

だが、ライブではまったく違った。だいたいどの曲も、音源で聴くようなミツメで始まるのだが、最後のほうになると劇的に激しくなる。これが面白かった。

もちろんのこと演奏力も高く、とくにドラムに感心した。派手に叩くスタイルではないけれど、リズムが多彩で、非常に楽しい。

今回のライブはミツメの歴史が詰まった選曲ということで、曲数も多く時間も長かった。

そんなわけで、ドラムの人(須田洋次郎)が足がつってしまった。これはアンコールのときに明かされたのだが、このときのメンバー同士のやりとりもよかった(隕石が怖くて眠れないとか、髭を剃ったのに誰も気がついてくれないとか)。

落ち着いていて、激しく、そして楽しいというライブで、会場の雰囲気も良く、集まっている人々みんなが善人に思えた。

苦い文学

移民を食べるペット

先進国のアメリカで、移民を食べるペットが生み出された。レオン・マスクが宇宙事業をほっぽり出して、X で知恵を募った結果、移民がペットを食べるのならば、ペットが移民を食べてもいいのでは、という逆転の発想が飛び出てきたのだ。

さっそく移民を食べるペットが国中に放たれ、バリバリ移民を食べ始めた。なお、アメリカは先進国なので、ペットのトレーニングもしっかりしていて、決して移民以外は襲わないのだった。

移民たちは対抗手段として、このペットを食べようとした。だが逆に食べられてしまった。かくして移民は一掃され、万里の壁の建設も大量の強制送還もなくして、アメリカの移民問題が解決したのだった。

これを見た日本人が、アメリカにならって、このペットを日本にも導入することにした。海外のペットを日本に持ち込むには動物検疫上のさまざまな手続きが必要だったが、狂犬病の注射はすでに狂っているという理由で免除された。

そして、移民を食べるペットがついに日本に上陸した。

「さあ、行くのだ!」

ペットは勢いよく飛び出して行った。

1日目、日本人たちの期待に反して、移民が食べられたというニュースは届かなかった。

2日目も同様だった。果報は寝て待てかもしれない、と日本人は思った。

そして、3日目、日本人はペットが品川入管前で餓死しているのを発見した。

そのとき日本人は、公式には日本には移民がいないことを思い出した。