ライブ

『コントの虎 漫才の狼』

ヤーレンズは今、単独ライブツアーの最中で、私は抽選に何度か応募したのだが、すべて外れてしまった。だが、たまたま、ヤーレンズとジグザグジギーのツーマンライブ『コントの虎 漫才の狼』が開催されるというのを聞いた。ヤーレンズも見られるし、ジグザグジギーも面白い。これは行かない手はない。そこで、9 月 25 日、中野のなかのZERO小ホールに行った。

このライブは今回で 8 回目、2 年半ぐらい前から続けているということだった。今回は初めに 4 人でのトークがあって、それから、ジグザグジギー、ヤーレンズの順で交互に 3 本ネタをした。ネタは以下の通り。タイトルは勝手につけたもので、あまりネタバレにならないようにしている。

ジグザグジギー①「結婚式」(コント)
ヤーレンズ①「スナック」(漫才)
ジグザグジギー②「心霊現象」(コント)
ヤーレンズ②「結婚」(漫才)
ジグザグジギー③「文化祭」(コント)
ヤーレンズ③「ラーメン」(漫才)

ジグザグジギーはすべて新作。②の評判がいいようだが、私は③がいちばんくだらなくて笑った。ヤーレンズは順に旧作、準新作、新作。今年も M-1 の決勝候補のひとつと目されているヤーレンズだが、賞レースの短く切り詰めた漫才ではなく、遊びの多い漫才を見ることができた。なかなかネタに入らないということは聞いていたが、特に①がそうで、22 分の長さだった。③は新作のせいか遊びは少なく、M-1 の予選でやってもおかしくない。

ライブ

ライブの撮影

YouTube などで外国のライブ動画を見ていると、観客はみんな携帯を掲げて撮影をしている。というか、その見ている映像そのものが、非公式のものだったりする。つまり、観客が自分の撮影したものをアップロードしているのだ。

しかし、日本では普通、路上ライブならまだしも、会場でちゃんとお金を払って見るライブでは撮影は禁止されている。これは著作権侵害や違法アップロードを防ぐためのようだが、もっと自由にしてもいいのではないか、という声もある。

私はどちらかというと撮影禁止に賛成だ。といっても、権利上の問題についていっているのではなく、撮影するのは、演奏を楽しむのに邪魔だからだ。音楽を聴くためにやってきたのに、撮影可となると、記録に残そうとか、全部収録して YouTube にあげてやろうとか、雑念が湧いてくる。ならばはじめから撮影不可のほうが余計なことを考えずに済むというものだ。それに、携帯を手に持ってずっと掲げているのも、余計な苦役だ。

そんなわけで私は撮影禁止のままでいいと思っているが、この前、あるライブで演奏者がこんなことを言った。

「ステージと客席は分けられているけど、本当はこんな仕切りなしに、みんな友人として接したい。ライブ撮影だって、別に禁止したくない。誰でも自由に撮っていいと思う。ただ、友人を撮影するにも相手を尊重して撮影する。それと同じように、友人として撮影するという気持ちがあればいいと思う」

私は「なら、しよう」と思ったが、こんなことを言われると逆にやりにくくなるのか、周りでは誰も撮影していなかった。私もやめた。

ライブ

Homecomings @ 渋谷 CLUB QUATTRO

Homecomings のライブはこれで4度目だが、今回はワンマンではなく、ゲストのバンドが雪国と ART-SCHOOL の2つ。あまりよく考えていなかったが、それぞれしっかり演奏したので、4時間という長時間のライブだった。開演1時間前の5時から立っているので、5時間立ちっぱなしということになる。ギターの人が「自分も5時から立ちっぱなしなので、気持ちは同じです」というようなことを言っていた。

ワンマンやフェスが多くなって、対バンライブをする機会がなくなってきたので、今回のようなツアー(「many shapes, many echoes」)を企画したとのこと。私はどちらのゲストバンドも楽しめたので、足は棒のようになったが長い感じはしなかった。相変わらず Homecomings の曲と演奏はどこか物語性があって聞きやすく、時間を忘れさせた。

ところで、ここ数日、私は YouTube で元ポリスのスチュアート・コープランドのドラム関係の動画をいくつも見ていて、ドラム聴きたい欲が高まっていた。

ドラムの演奏はバンドのカラーやドラマーの個性も関係があるから良し悪しではないのだが、最初に演奏した雪国のドラムはそんなに派手に叩くスタイルではなかったので、私の欲は満たされなかった。

だが、ART-SCHOOL のドラムはまさに私が聞きたかったタイプの演奏だった。手数も多く、欲しいところでしっかり連打してくれる。しかも、かっこいいのだ。これでドラムに対する渇きがたちまち癒やされた。これからは喉が渇いたら ART-SCHOOL を聞こうと思う。

ライブ

左右と上下

柳家吉緑という三月に真打ちに真打昇進したばかりの若い落語家の方がいて、たまたまその人の落語を聞く機会があった。聞き手には、私を含め落語に疎い人もいたので最初は丁寧に落語の聞き方を説明してくれた。

落語で二人の登場人物が会話をしている場合、ひとりが話すときは顔を右に向け、もうひとりが話すときには顔を左に向ける。そうすることで、二人の語り分けをする決まりだということだ。もちろんこれは基礎の基礎で、さらに声色や言葉遣いなども大事に違いない。

昨日、神田伯山の講談を聞きに行って、会話の切り替えには、この左右型だけでなく、上下型もあることを知った。それは次のようなものだ。

たとえば悪党が善良な男を脅していて、善人は怯えて「申し訳ありません」と謝って逃げようとする。だが、悪党はそれに対して「お前はそれで逃げられると思っているのか」と脅すのだ。

こういった場面で、語り手はまず善人のセリフ「申し訳ありません」を、怯えた様子で言いながら顔を伏せる。「申し訳ありません」は末尾の方では弱々しく(たとえば「ヒエエ……」というように)かすれて聞こえる。しかし、このかすれた声が一瞬の沈黙ののち、ドスのきいた「フフフ……」となる。するとそれに続いて、凄みを帯びた声で、セリフ「お前はそれで逃げられると思っているのか」が伏せた顔から出る。こう言いながら、語り手はゆっくり顔を上げる。その顔は先の善良な男ではなく、もはや悪党の太々しい顔だ。

つまり、顔を下に伏せることで、二人の人物の会話を切り替えたというわけだ。この上下型は、悪党が凄みのある言葉や悪い決心を告げるときに劇的な効果をもたらすようで、昨日の講談は悪党ばかり出てきたから、非常に印象に残った。もちろん神田伯山の芸が巧みであったためで、その悪い顔をたくさん拝見することができた。

左右型・上下型というのは私が勝手に呼んでいるだけで、専門的な用語があるはずだ。そういったことを含めて、私はなにも知らないが、それでも、講談なり落語なりを楽しむことができるというのは、ありがたいことといえるだろう。

ライブ

「徳川天一坊」を勉強する会

日暮里サニーホールで「『徳川天一坊』を勉強する会」という集いが行われるというので行ってみることにした。

というか、抽選に応募して当たったので行った。神田伯山が出ること以外よくわからず、「勉強するとは?」とも思った。勉強が苦手な私は多少不安だったが、それで怒られることはないだろうとも踏んだ。

内容はというと、「徳川天一坊」という全20席の長編講談を数席ずつ神田伯山が語るというものだった。この講談は初代神田伯山が「読んだ」もので、神田派にとっては大事な作品ということだ。

今回は、「徳川天一坊」の第3話から第5話までで、約1時間半。講談に入る前の、前座の講談(神田若之丞)と神田伯山のマクラも合わせると2時間半を超える長い会だった。

話はというと、徳川吉宗のご落胤詐欺を企む物語で、幕末の作品にありがちな悪党ばかり出てくるものだ。これが実に面白かった。講釈の芸に引き込まれ、濃密な時間を過ごすことができた。素浄瑠璃もそうだったが、映画やテレビのようなわかりやすい視覚的な情報がなくても、人を夢中にさせることができるというのは、不思議なことだ。

というか、映像はおろか文字もない時代から、人間は物語を聞いてきたのだから、そういうふうにできているのだろう。

今回は第4回目ということで、次回もぜひ行きたいところだが、チケットが当たるかどうかはわからない。

ライブ

義太夫節演奏会(5月公演)

深川江戸資料館小劇場で義太夫節演奏会があるので行ってみることにした。

浄瑠璃は読んでばかりではわからないことも多いので、実際に聞いてみようというわけだが、義太夫節が聞いてわかるかというとそうではない。

子どものころ、はじめてエルビス・プレスリーのアルバムを聴いたとき、全部同じ曲に聞こえた。それと同じで、いろいろな義太夫節を聞いても、違いはよくわからない。もっとも、その後、私は立派に成長して「ハウンド・ドッグ」と「監獄ロック」が聞き分けられるようになった。だから、義太夫節も何年も聞いていればわかるようになるかもしれない。

今回の公演は、「鶴澤寛也を偲んで」と題され、2023 年に亡くなったこの三味線奏者ゆかりの義太夫節(妹背山婦女庭訓「花渡しの段」、関取千両幟「猪名川内の段」)と三味線曲(ひこばえ三味線組曲動物編)が演奏された。また、故人の思い出話の時間もあり、女流義太夫の世界を垣間見たようで面白かった。

肝心の音楽だが、義太夫節や三味線には、ロックとポップしか知らない私の耳でも楽しめるようなノリ、グルーヴ感があった。というか、そういう風にしかわからない。楽しみ方はいろいろだ。

ライブ

Maseki Geinin Collection 2025春夏

ナイツ、三四郎、モグライダー、きしたかのなどのマセキ芸能社の主だった芸人に、何組かの他事務所の芸人16組が出演するライブが、銀座ブロッサム中央会館で開催されたので、行ってみることにした。

芸能界に疎い私でも知っている人ばかり出るのに、チケットは売れ残っているようだった。なのに、きしたかのの単独公演などはすぐに売り切れてしまうのだから不思議だ。なんにせよ、オープニングトークで「2階席のほうは見ないように」とのお達しがあった。

どれも面白かったが、モグライダーは『101回目のプロポーズ』のネタで、私はライブで見るのは2回目だが、1回目と同じように楽しめた。ルシファー吉岡は去年の R-1 での菅田将暉のネタだったが、これも二度見るに値する。トリはナイツで、いつもながらの感じで、拍手が一番大きかった。他事務所では男性ブランコがさすがというネタ(エアドロ)で、これも大ウケだった。しかし多忙なのか、この二人だけオープニングにもエンディングにも顔を出さず、まるで夢のようだった。

昨年の M-1 で準々決勝まで残り、そこから一気に知名度が上がったネコニスズもよかった。ネタの作りは準々決勝のものと同じだが、より良い出来で、今年の M-1 でも期待できそうな印象を受けた。赤ちゃん。

ライブ

さとうもか & Mom@月見ル君想フ

5月6日、青山の「月見ル君想フ」という変な名前の会場で、さとうもかと Mom のツーマンライブがあった。双方ともギターの弾き語りだ。

はじめに出てきた Mom は若いミュージシャンで、私はさとうもかの「いとこだったら(feat.Mom)」に参加していることぐらいしか知らなかったが、声がとてもよかった。3月に出たばかりのアルバムの曲が中心で、いい曲も多い。

ニコニコして、独特の雰囲気があるので、なんだかもう中学生みたいだと思ったが、MC で「ゴールデン・ウィーク最終日なので髪型を G と W にしてきた」などと言うのでますます似てきた。

もう中は別として、音楽の雰囲気が何かを思い出させるな……とぼんやり思っていたが、最後になって FISHMANS が浮かんだ。もっとも、第一印象なので違うかもしれない。

Mom のギターは、ときに激しくときに繊細なものだった。いっぽう、さとうもかのほうはむしろギターを叩くタイプの弾き方だ。けっこう弾き間違いもしていたが、あまり欠点には感じられない。スタイルをしっかり確立しているので、多少のことでは揺らがないのだろう。

ライブの最後は二人での「いとこだったら(feat.Mom)」で、これもよかった。

ライブ

クマ・サガル LIVE IN TOKYO (7)

クマ・サガルのライブで、私が恐れていたことのひとつは、群衆事故だ。最前列中央の前には黒い低い壁で囲まれた DJ ブースがあった。壁の前はパーテーション・ベルトが設置されており、その前には人ひとり分の隙間があった。

しかし、ライブがはじまり、観客たちの熱狂が高まると、人々は少しづつブースの壁へと押し出されていった。私が立っていたのはこのブースのない端の部分であったが、私も後ろからの人に押されて、ついにはブースの脇の高台に押し上げられた。

そこから、最前列を振り返って見下ろすと、後ろから押された若者たちが、ブースの壁に手を当ててしのいでいるのが見えた。非常に危ない光景だった。フロアには、人の動きを止める柵など設置されていなかったから、もしどこかでパニックが起きて、後方から観客たちが押し寄せてきたら、壁際の人はもうどこにも逃れることはできず、押しつぶされるほかないのだ。

私の場合は、たとえそうなっても、ステージの方に逃げられる、と考えていた。だが、後ろからどんどん人が前に湧いてくるので、もはやそううまく避難できるかもわからなくなった。

そして、もうひとつ私をおののかせていたのは、おしっこだ。5時前に会場に入場する前にトイレに行くチャンスがあったのだが、私はそうせずに会場に入り、自分の場所を確保した。そして、その瞬間から、5時間にわたる私と尿意との戦いが始まった。

はじめは少し音楽を聞いてから、ゆっくり行こうと、と考えていた。だが、メインフロアが開放され、ステージ前の最前列に立ってしまうと、もうできるだけここで聞いていようという気になった(私のカバンの中にはペットボトルがあった)。そして、会場が満員となり、ライブが始まっても、自分はまだトイレに行くチャンスはあると考えていた。しかし、人々が前へ前へと押し寄せてくるようになったとき、私はもうトイレに行くのは無理だと覚悟した(ペットボトルだ!)。

最悪の場合は漏らすことだが、これだけの騒ぎの中なら、バレないような気もした(もしかしたらペットボトルになら……)。

だが、結局のところ、すべて無事に終わった。群衆事故も起きず、おしっこも漏れず、私と観客たちはクマ・サガルの音楽に満足しながら会場を去ったのであった。

今回の公演を事故なく終わらせることのできた運営の人々、会場の人々、観客たち、そして私の膀胱に感謝をして終わりたい。

ライブ

クマ・サガル LIVE IN TOKYO (6)

そして、ついにクマ・サガルとバンドの面々がステージに上がり、ライブが始まった。ここでバンドの編成についてまとめておく。

アコースティック・ギター(クマ・サガル)が中央。その右にフルートのような笛、その隣にもう一本、アコギ。ステージの左側には、エレキのバイオリン(のような弦楽器)とエレキベース。

後列には、中央にシンバルのような楽器。両脇にネパールの伝統楽器のような打楽器を叩くパーカッショニストが2人。総勢8名だった。

その音楽は、すでにリハーサルのところで書いたがフォークなプログレで、メロディも親しみやすい。だが、クマ・サガルたちの音楽についてはもうこれ以上書かない。

なぜならそれどころではなかったからだ。千人を優に超える観客たちの熱狂ぶりがすべてを変えてしまったのだ。絶叫、合唱、騒ぎ声、鋭い口笛、フロアの轟きに圧倒されながら、私はまるでここが新宿ではなく、ネパールの異界に連れ去られたかのような錯覚を何度も味わった。

ここにいるネパール人のほとんどはみな20代だった。もちろんそれより年上もいたが、大多数が若い人々であった。これらの若いネパール人たちは、日本で学んでいる人もいれば、働いている人もいる。異国でそれぞれ苦労しているこれらの人々が、久しぶりに故国のスターを前にして、騒がずにいられようか? ハメを外さずにいられようか?

今の日本のライブでこれ以上盛り上がるものがあるか疑わしかった。私はライブをそれほど経験しているわけではないが、日本のライブだって高齢化していないわけがないのだ。

これらのネパールの若者たちの歌声にかき消されて、クマ・サガルたちの音楽が多少聞き取れなかったとしても、私はまったく気にならなかった。それ込みでライブだ。もはや日本では存在しえないような破壊的な熱狂に立ち会えたことに私は満足を感じた。

とはいえ、これらすべての感嘆すべき経験にもかかわらず私は、ふたつの恐怖におののいていたのだった。