苦い文学

北千住のバンクシー

バンクシーとは誰なのか、そして何のために壁面に絵を描くのか。私はこう問うだけでは不十分であることを学んだのだ……。

それは、先日、私が北千住の駅前のゴタゴタした界隈で酒を飲んでいた時のことだ。店は混んでいて、私は二人連れの男と相席ということになった。二人ともみるからに品の悪い風体だった。

はじめのうちは、私は無視を決め込んだ。ひとりスマートフォンに見入っていたのだ。だが、どうしたきっかけか、私と二人の男との間で交流が始まり、ついに意気投合にまで至ったのであった。

二人のうち、もっぱら話すのは片方だけだった。もう片方はまったく口をきかず、ニタニタしながら酒を歯の抜けた口にひたすら流し込んでいた。

どうやら私も同じように飲んでいたらしい。ふと気がつくと、私たち3人は別のもっと汚い店で安焼酎の入ったグラスをぶつけ合っていたのだった。やがて私は酩酊し、再び記憶を失い、次に正気を取り戻した時は、道に寝転んでいたのだった。

そこは壁に囲まれた薄暗い袋小路だった。

モウロウとしながら起き上がると、連れの男が私に抱きついてきた。「見ろ、見ろ」

彼が指差すほうを見れば、あの無口な男がこちらに背を向けて壁際に立っているのだった。「それ、やれ! やれ!」

無口な男は身を揺すり、汚らしく喉を鳴らすと、勢いよく吐いた。

「見ろ! 見ろ!」 男は叫んだ。そして、無口な男がふらふらと横によろけて移動したとき、私は信じがたいものを目にしたのだった。

そこには、花束を投げようとするマスクの男が描かれていたのだ。

男は大笑いした。「ほら! 俺の言ったとおりだろ! 北千住のバンクシーだ! なんでも描いちゃう!」

見れば、あの無口な男は、今度は別の壁に向かって吐き散らしたところだった。ああ! その壁では、風の中の少女が虚しく手を差し出していた。そして、赤いハート型の風船が今にも飛び去ろうと……。

「ああ、あのハートは、さっき食べた鶏肉のトマト煮!」 私は思わず叫んだ。

男は壁の絵をを見ながら、腹を抱えて笑っていた。「バンクシー! バンクシー!」

そのとき、無口な男が急に身悶えしだした。腹を押さえていた。もしや、あの生牡蠣が? 彼は苦悶にうめきながら、ズボンを下ろすと、尻を壁に向けた……。

それから何が起きたかは、語るべきではないだろう。ただ、その壁には、プラカードを掲げたドブネズミが、そこ、ここ、あそこ、ああ、無数に!

……バンクシーとは誰なのか、そして何のために壁面に絵を描くのか。そんな問いよりも、もっと重要なのは「何で描いているか」だということを、私は学んだのだ……。

苦い文学

アンガーマネジメント

「短期は損気」などといいますように、この世で一番避けるべきは、一時の怒りに我を忘れて、思いもよらぬことをしでかすことです。

では、怒らぬようにするにはどうしたら、よいでしょうか。

よく言われますのが、怒りを表に出す前に、数を数える、というもの。数を数えている間に、怒りがおさまり、冷静に対処できるというわけです。

もうひとつ、言われているのが、相手の立場になって考えるということ。これも大事なことです。

もし、自分が相手の立場だったらどう感じるだろうか? そんなふうに想像してみると、自分もあるいは同じことをしでかしていたかもしれず、そのぶん寛大な心持ちになれるというものです。

しかし、本当に怒っている時は、相手の立場など考える余裕もないものです。それに、それはなんだか、相手を許すようなことではありませんか。ですが、大事なのは、相手を許す許さないと、怒りは別物だということです。許す必要はないのです。ただ、怒りを鎮めることが大事なのです。

こんなとき役に立つのが、物事を別の目で捉えることです。

よく知られているのは、高速道路で乱暴な運転に出会った時の対応です。無謀な運転で追い抜いていった車を見て「ああ、トイレに急いでいるのだ」と思えば、腹も立ちません。カッとなってあおり運転を始める、などというのはまさに愚の骨頂でしょう。

ところで、最近の北朝鮮のロケットの連続発射は不愉快ですし、非常に腹立たしいことですが、これにしても、「ああ、あの国からは、ロケットまでがわれ先に逃げ出してる」と考えてみましたらば……

苦い文学

強化兵士

ウクライナ侵攻以来、ロシア軍の兵士の敗走が相次いでいる。

その原因はいくつも挙げられている。訓練不足、士気の低さ、不十分な装備、指揮系統の乱れ、兵站の失敗……。

もちろん、兵士が弱いからといって、ロシアを侮ってはならない。なにしろ、核爆弾を何千と所有しているのだ。だが、核が何発あろうと、それで兵が強くなるわけでもないのも確かだ。

実はロシアもその辺りはわかっていて、ウクライナ侵攻前から、強化兵士の導入を進めていたということが明らかになった。

強化兵士というのは、人体に生化学的処置を加えることで、通常の兵士よりもはるかに優れた能力を獲得した兵士のことだ。

ドーピング大国のロシアが本気で取り組んだのだ。その結果たるや、恐ろしいほどだった。

あらゆる点から見て、超人が誕生したのだ。肉体の俊敏性、耐久力、反発力は人間の6倍もあった。感覚も鋭く研ぎ澄まされていた。その聴力は通常の人間の6倍、その視力は8倍あった。真夜中に20キロ先の獲物の動きを難なく捉えることができたのだ。

それだけではない。強化兵士の知能は、外科処置と薬物により、通常の人間の10倍にまで高められていた。戦場のあらゆる情報は、この異常な脳により、瞬時に計算、分析された。強化兵士ひとりで1師団分の威力がある、モスクワはそう評価していた。

強化兵士は、ウクライナ侵攻当日から前線に投入された。その日のうちにキーウを制圧する予定だったのだ。

だが、実際のところ、この作戦がうまくいかなかったのは周知の通りだ。

人間の何倍もの能力をもつ強化兵士は、平和を愛する気持ちも人1倍強かったのだ。

(現在、強化兵士たちはオーガニックな蜂蜜づくりにいそしんでいるという……)

苦い文学

ファクトチェック

インターネット空間での誤情報の氾濫、ヘイトスピーチの跋扈、陰謀論の猖獗に対処するため、政府の肝入りで「日本ファクトチェック協会」が設立された。

当初は、日本に流通するあらゆる情報をファクトチェックの対象とすることになっていたが、新聞やテレビからのマスメディアの情報はチェックの対象から除外されることとなった。これらの機関はすでに独自のファクトチェック体制を備えているからだ。

ついで、政治家から横槍が入り、政府と政党も対象から外された。「大陸から8割」みたいなのをもっと言いたかったのだ。

さらに、ネット上の情報もまたファクトチェックから除外されることになった。それだけの人手の確保ができなかったことが大きい。

「日本ファクトチェック協会」はこれ以外にもさまざまな問題に直面した。ファクトチェックそのものが事実に基づくかのファクトチェックが必要だということになり、ファクトチェックが非常に煩雑になったり、協会の Twitter が、誤情報拡散で炎上したり……。

現在では、協会がファクトチェックするのは、夢だけだ。

「はい、こちら日本ファクトチェック協会です」

「ええと、昨晩、永野芽郁ちゃんから告白される夢を見たんですが、本気っぽかったので、もしかして、本当のことかな、と思って」

「ファクトチェックします……誤情報です」

「では、芽郁ちゃんの頭がパカッと開いて、タヌキが挨拶してきたのも誤情報だと?」

「ええ……」

こんなのだったら、夢占いに行ったほうがマシだと誰もが感じている。

苦い文学

ミサイル防衛についての提案

北朝鮮のミサイル発射による威嚇が続いている。我が国の安全を脅かす重大な事態だ。

こうした危機に対して我が国ではかねてから、ミサイル防衛システムの整備を進めてきた。

弾道ミサイル対処能力を持つイージス艦とペトリオット(PAC-3)の配備によって、防衛体制を構築するとともに、自衛隊が、レーダー、人工衛星、航空機、艦艇などあらゆる手段を用いて、常時、我が国周辺を警戒監視しているのだ。

それだけではない。北がミサイルを発射するやいなや、自動警戒管制システムが着弾点を直ちにはじき出し、すぐさま迎撃を行うようになっている。

だが、これで本当に我が国は安全だろうか? 我が国の守りはこれで鉄壁であろうか? 答えは否だ。我が国は今なお北のミサイルの脅威にさらされているのである。

ここで私は、北朝鮮のミサイルによる脅威を限りなくゼロにする、画期的な防衛策を提案したい。

それはナビダイヤルの導入である。

我が国をナビダイヤルで城壁のように包囲するのだ。

いかなるミサイルであろうと、我が国に飛来するやいなや、ただちにナビダイヤルが発動する。

まずは非情な警告から始まる。「ナビダイヤルの通話料金は、発信者様のご負担です」

ついで「サービス向上のため録音させていただきます」という威嚇。これに続くのは、いつ終わるかも知れぬ、恐ろしく長いガイダンスだ。この初期防衛プロセスによってミサイルは大いに推進力を削がれる。

だが、それだけではない。次にミサイルを待ち受けるのは、永遠に続くかのような番号の選択の迷路だ。ミサイルは、さまよい、待たされ、耳障りな音楽を苦々しい顔で聞き、さらにさまよう。そして、ようやく出口に辿り着くのだが、そこで、ああ、あろうことか、こう聞かされるのだ。

「ただいま混み合っておりますので、しばらく経ったのちもう一度おかけください」

ミサイルは絶望とともに、北朝鮮へと弾き返されるのだ。

「ナビダイヤル防衛」、ぜひ前向きに検討していただきたい。

苦い文学

ショック記事

マスコミの世界でなんと呼ばれているのかわからないが、「ショック記事」とでも呼べそうなタイプの記事がある。そのタイトルはいつもこんな感じだ。

「鈴木たかしショック! 主演ドラマ書店が閉店へ」

「鈴木たかし」というのは、私が適当に作った俳優の名前だが、このニュースの内容は、彼がかつて主演したドラマのモデルとなった本屋が閉店するというものだ。

この「ショック記事」では大事なきまりがいくつかある。

まず、ショックを受ける(とされる)人(ショック者)は、それなりの有名人でなくてはならない。

「斉藤ひでおショック! トム・クルーズ来日延期」

いったい知らないおじさんがショックを受けるという情報に何の価値があろうか。

また、ショック者と出来事の間に何らかのつながりがなくてはならない。仮に斉藤ひでおさんが有名人だとしても、最低でもトム・クルーズの熱心なファンでなくては、この記事は意味を持たない。

さらに、ショック者があまりにも事件に深く関与していてもいけない。だから「森元首相ショック! 高橋元理事逮捕!」なんてのもダメだ。

そして、ショック者が不特定多数でもいけない。例えば「国民ショック! 北からまた飛翔体」。

最後に重要なのを挙げるとすれば、ショック者が本当にショックを受けたかどうかについては、取材すらされない、ということだ。つまり、記者が「ショックを受けたにちがいない」と勝手な推測をし、それをタイトルにまでしてしまうのだ(もちろん、まれに本人がショックを受けたのが事実である場合もある)。

そんなわけで、ショック記事というのは、ショック者の性質、出来事の関係などいろいろな要素が絡み合ってできていて、案外難しいのだ。

だが、私は、長年のショック記事の研究の結果、万能のショック者を発見した。

それは尾木直樹氏だ。

「尾木ママショック!」 

さすが著名な教育評論家、どんなニュースにも合うのでぜひ試してほしい。

苦い文学

認知の歪み

ところで「認知の歪み」という言葉をご存知でしょうか。

ひとことで言えば、「認知の歪み」とは、歪んだレンズの眼鏡のようなものです。そのメガネをつけると、なんでも歪んだ醜い姿で見えてしまうのです。

では、認知が歪むとどうなってしまうのでしょうか。

よく知られているのは、日本人なのに、認知の歪みのせいで日本が醜く見えてしまう症状です。この症状が進むと、中朝の肩を持つようになり、売国へと悪化してしまいます。

日本のために頑張っている愛国者や愛国政治家を貶しだすのも症状の一つです。

フェミニズムにかぶれて、日本の伝統である家制度を破壊しようとしたり、自衛隊を違憲にして日本の弱体化を目論むのも、認知の歪みによるものです。

どれも深刻な症状であり、放っておけば我が国に多大な害を及ぼすことは疑いありません。認知の歪みが国を滅ぼすのです。

私がかねてから認知の歪みの矯正と自宅でできるエクササイズの普及に力を注いでいるのは、まさにこうした危機感からなのです。

『骨盤と認知の歪みにサヨナラ! おうちエクササイズ』(著者:花田正諭[日本健全生活会議理事]、あさはか新社)より抜粋

苦い文学

「カルボナーラになります」

「(こちらが)カルボナーラになります」とは、「(この料理が)カルボナーラであるという認識が(当店では)成立しておりますが、いかがでしょうか」と客側に断定を委ねる表現だ、と私は考えている。

こう言われた場合、客は言葉で断定を表す必要はない(その手間を省くためにあえて疑問文にしないのだ)。客側が料理をそのまま受け取れば、この認識は成立したことになる。

だが、認識が成立しない場合だってある。

「カルボナーラになります」
「えっ、これがカルボナーラ? 思ってたのと違う!」

実はこんな時に強みも発揮してくれるのが、この表現だ。

客「えっ、これがカルボナーラ? 思ってたのと違う!」
店「いえ、違うとおっしゃられても、こちらが当店のカルボナーラになります」
客「しかし、こんなに唐辛子が載っているものかね」
店「ですから、これが当店のカルボナーラになりますので」
客「しかも、これなに? この刺身みたいなの」
店「当店自慢のなめろうになります」
客「カルボナーラになめろう!? いやいや、それはありえないです」
店「だから、これが当店のカルボナーラになります、といっておりますが」
客「ですが、普通のカルボナーラじゃないですよね」
店「うふふ、当店のカルボナーラになりますので」
客(しぶしぶ受け取る)「……うまっ」

相手に敬意を払いつつ、クレームにはめっぽう強い。実にたのもしい表現といえよう。

苦い文学

「になります」

飲食店などで「(こちらが)カルボナーラになります」を「バイト敬語」として、日本語の間違いだという人がいる。

「なる」は「変化」を表すから「持ってきたものがカルボナーラに変化した」というのはおかしいと言うのだ。

だが、そうした人でも「ご馳走になりました」と言わないわけではあるまい。その人が「ご馳走」に変化したわけではないにもかかわらずだ。

おそらく「なる」は「変化」というより「成立」と考えたほうがいいかもしれない。「ある人が大人になる」は「ある人が大人に変化した」というよりも「ある人が大人だ」という事態が成立したと、考えるのだ。

「なる」がこのように事態の成立を表すとすれば、さらに「認識の成立」をも表しうる、と考えたらどうだろうか。

その例が「(こちらが)カルボナーラになります」で、ここでは「(この料理が)カルボナーラであるという認識が(当店では)成立しております」と解釈できよう。

これは店側の認識を伝えることで、客の反応を待っている状態だ。すなわち「差し出された料理がカルボナーラであるかどうか決めるのは最終的に客側である」と断定する権利を客に委ねているのだ。

ところで「カルボナーラになります」はダメだ、「カルボナーラでございます」にしなさい、という人がいるが、断定するかしないかでは大きな違いがある。

「こちらがカルボナーラでございます」と言った場合、店側が「カルボナーラだ」ともう断定してしまっているわけで、客はただその断定を受け入れるしかない。その点では、「客に店側の主張の受け入れを強いる」というニュアンスが生じてしまうので、接客の現場ではそれが違和感をもって感じられるのではないだろうか。

もうひとつ大事なのは「(こちらが)カルボナーラになります」は決して「(こちらが)カルボナーラになりました」とはならないことだ。これでは認識がもう成立してしまったこと、つまりやはり断定になってしまうので、結果として店の主張の受け入れを客に強いることになってしまうためだろう。

苦い文学

正しい日本語

間違っている、とよく言われる言葉づかいのひとつに「〜になります」というものがある。こんなような例だ。

レストランで、カルボナーラを持ってきたお店の人が
「カルボナーラになります」

これを槍玉に上げるのは、「正しい日本語」の使い手を自負している人々だ。たいていこんなことを主張する。


「なる」は「大人になる」とか「元気になる」とかのように変化を表す。だから、できあがったカルボナーラを持ってきて、これがカルボナーラに変化した、というのはおかしい。


それで、本当かどうかわからないが、おかしな難癖をつける人まで出てくる。

「カルボナーラになります」
「じゃあ、カルボナーラに早くなってみろ」

自分では気が利いていると思っているのだ。こういう連中はそもそも、「〜になります」は若い人が使う「バイト敬語」だと決めつけているので、「正しい日本語」の使い手としてはひとこと言う権利があると思っているのだ。

だがかりに、偉い人が「謝礼になります」と現金入りの封筒を渡してきたら、こういう連中ははたして同じような態度を取るものだろうか?

「日本語の正しさ」とやらも、地獄の沙汰と同じく金次第の可能性が高そうだ。