風刺・戯文

平家蟹

その蟹は、平家蟹と呼ばれることに怒っている。その怒りがあまりにも強いので、甲羅に浮かび上がる顔のような模様も、憤怒の度合いが増したようにみえた。

「どうして平家蟹という名称がおイヤなのですか。由緒ある名前なのに」と私が尋ねると、蟹は答える。

「だって、私たちの模様は、その平家とやらとはなんの関係もないからですよ。平家が? 壇ノ浦で? 入水? ハハハ、バカを言っちゃ困りますよ。私たちは、平家が滅びる前から、ずっとこの顔を背負って生きてきたのですよ。なんなら、祇園精舎の鐘ができる前からですよ」

「ならお聞きしますが」と私はちょっと意地悪な質問。「平家と関係がないなら、どうしてそんな悲憤に満ちたお顔をしてらっしゃるのでしょうか」

蟹は憤然とハサミを振り回す。「ああ、人間ときたらこれだ。なんでも自分中心でないと気が済まないのだから。視野が狭いのです。これはただの模様ですよ! もう、ほうっておいてください!」

と言い捨てると、平家蟹はどんどん海の奥へと潜っていってしまった。

「日本を笑顔にするプロジェクト」の一環として、平家蟹を笑顔にするイベントを考えていたが、難しいかもしれない。源氏の末裔のサプライズ登場と涙の和解まで決まっていたのだが……

苦い文学

異界のテレビ(1)

桃源郷の昔から、人々はたまさか垣間見た異界のありさまを記録に残してきた。今回お伝えする話もその類といえるかもしれない。

私の友人に X という研究者がいる。その彼が国際学会で発表するために、ある小国の首都に滞在していた。学会の最終日、他の研究者との交流ののち、彼はホテルに戻った。帰国の便は翌日朝だったため、そうとう早く出なくてはならない。彼は荷造りと寝支度にとりかかった。

あとはもう寝るだけとなって、彼はこの国にきてから一度もテレビを見ていないのに気がついた。メディアに関する研究をしている彼は、外国に行くと必ずテレビ放送をチェックするが、今回ばかりは忙しくてテレビをつける暇すらなかったのだった。

そこでテレビをつけた。もう深夜だったから、残念なことに現地のテレビ放送はほとんど終わっていた。彼はチャンネルを順に押していった。アメリカの映画やヨーロッパのドラマがときどき画面に現れた。そして、かなりチャンネル番号が進んだところで、NHKの国際放送にでくわした。

しばらく見たのち、彼はさらにチャンネルを押し続けた(「深く潜る」と彼は表現した)。映るのはいわゆる砂嵐ばかりで、もうなにも映らない領域に到達したかのようだった。このまま押していっても、もとの「1」に戻るだけだ、と彼が思い始め、惰性でリモコンのボタンを押していると、不意に日本語が飛び込んできた。

苦い文学

今は亡き友へ

やあ、お前がこの世を去ってから、もう1年経ったんだ。信じられないね。実は、まだお前がひょっこり顔を出しそうな気がしてるよ。

俺はずっと考え続けていたんだ。お前がどうして死を選んだのかって。いや、それはわかってるんだ。お前の遺書にも書いてあったからな。だけど、死んでまでして証明することかどうか、俺には今もわからないんだ。

もちろん知っているよ。お前がこの世の不合理をとことん憎んできたってことを。迷信、デタラメな言説、陰謀論にお前ほど激しく立ち向かっていった人間を俺は知らない。

そして、お前が最後に選んだ敵についても、遺書に書いてあったね。「人生に無駄などない」と。お前はこのテーゼにもっとも強烈な否(ノン)を叩きつけた。「人生は無駄ばかりで、それはなにがあろうと永劫不変に無駄なのだ」と。

お前はこのアンチテーゼを証明するために、尊い命を投げ出した。そうすることによって、つまり、自分の命を無駄に蕩尽することによって、お前は人生のすべてが無駄でありうるということを示したのだ。それこそ身をもって、だ。

俺はお前のしたことをどう評価していいのかわからない。ずっとずっと考えてきたけど、まだわからない。だけど、最近、ひとつだけ俺はお前に言えそうな気がしてきたんだ。それを、遅まきながら、お前への手向けにさせてほしい。

俺はお前の死を無駄にしない、と。

苦い文学

調剤薬局

この世で一番、ハラハラさせられる場所は、調剤薬局ではないだろうか。

もっとも、昔はそうではなかった。処方箋を渡して、待っていれば薬をもらえたのだ。

でも、今は違う。薬がもらえるかどうか、ヒヤヒヤしなくてはならない。もちろん、薬は絶対にもらえる。だが、薬局の人は、あの手この手で私たちを不安にさせるのだ。

まず、お薬手帳だ。これは薬物の王国に入るためのパスポートだ。これを忘れた病人は、のちのち薬の名前の書かれたシールを額に貼られて追放されることとなる。

そして、処方箋を出してからの待ち時間がいかに精神をむしばむかについては何も言うまい。瞑想と反省あるのみだ。

さて、ようやく薬局の人が私たちをカウンターに呼ぶ。薬の準備ができたのだ。

「以前と同じお薬ですね。どうです。だいぶ良くなりましたか」

これだ、これにどう答えるか。私たちは悩みに悩んだすえ、答える。

「ええ、おかげさまで」

「ではもう薬はいりませんね」 こう来かねないのだ。では、逆ならどうだろうか。

「以前と同じお薬ですね。どうです。だいぶ良くなりましたか」

「まだちょっと……」

「あら。じゃあ、この薬はやめときましょう」

繰り返すが、薬は絶対にもらえる。だが、それまでに私たちはいくつもの試練を乗り越えなくてはならない。一刻も早く家に帰って寝たい病人にとってはつらい。

しかも、薬が手渡されても安心してはいけない。うっかり喜んだりしたら、これは詐病に違いないと、パッと取り上げられる。つらそうにしててもおんなじだ。やっぱり取り上げられる。つらそうにしながら、足取りの軽やかさで微調整しつつドアに向かうのがいいだろう。

そんなこんなで、薬局を出たときには、もっと病人になっている。

苦い文学

ロシア語上級の時間

ロシア語初級では、覚えるべき単語はたったひとつ、Да(ダー)「はい」であることを皆さんにお教えした。

それだけではない。実はこの単語を覚えるだけでもう中級をすっ飛ばして上級に達してしまうのだ。ロシア語の勉強時間が数億時間省ける。

これで皆さんは、どんな長大なロシア文学も難なく読みこなせる。

ぜひ以下の読解にチャレンジしてほしい。驚くほどすらすらと読めるはずだ(なお、不要だとは思うが、念のため邦訳をつけてある)。

「Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да Да」

邦訳
「偶像がその統治者としての高い場所にデンと坐って、額にけわしいしわを刻み、情容赦もなく、独善的に私たちの人生を滅茶滅茶にしているあいだは、できるだけ重い石を私に授けて下さい! さあ、十人がかりで丸太ん棒を担いで、その偶像を倒そうではないか!」

出典:ソルジェニーツイン『収容所群島』(木村浩訳)第6巻、p.226、「第六部 流刑 第六章 流刑囚のささやかな幸福」