散文

引き波

「東京に住んでいるかぎりは、それほど津波の心配をする必要はありません」と教室に入ってきた教員は、教壇の前に立って見回すと、おもむろに留学生たちに語りはじめた。「もちろん、海の近くに住んでいる場合は注意が必要ですが、東京湾があるおかげで、津波の勢いがある程度弱まるのです」 教員は東京湾の図を書いて、千葉と神奈川が波を受け止めている様子を示した。

「でも、そうはいっても、東京以外の場所、特に海の近くにいるときに、地震が起きないともかぎりませんね。ですから、地震の後に津波がどんなふうに起きるかを知っておくのは大切です。私たち日本人がよく知っているのは、津波が来る前に、海が遠くに引いていくという現象です。これは……」と教員はボードに文字を書いた。

「『引き波』と呼ばれています。もっとも、引き波がなくても津波が来ることがあるそうなので、いつも確実というわけではありませんが。さて、こんなことをいきなり話したのは」と教員は教壇に立ったまま、広い教室を見渡した。ずっと後ろの方で、学生たちがばらばらに座り、彼のほうを不思議そうな表情で眺めている。

「まるで、みなさんが、引き波のように見えたので……」

学生たちはつまらなそうに鼻で笑い、教科書を広げた。教員は、かすかに引き波の音を聞きながら授業をはじめた。

苦い文学

不死の男

長い間、彼は自分の命をないがしろにしてきた。いつ死んでもいいと思っていたのだ。天才は早く死ぬものさ、そんなふうにうそぶいて、命にしがみつく小市民たちを嘲笑っていた。

だが、彼にも、自分が天才でもなんでもなく、それどころか、小市民以下ですらあることに気づかされるときが来た。そのとき以来、彼のたったひとつの希望は、長生きすることになった。あらゆることに負け続けたこの負け犬は、寿命の長さで勝つという、人生のラストチャンスに賭けたのだった。

彼は長生き健康法ならなんでも実践した。命を伸ばすのに益ありと聞けば、どんな遠くにも足を運んだ。どんなまずいものでも食べた。どんなサプリメントも、どんな薬品も、彼が試さないものはなかった。長生きに関するどんな些細な情報も、彼の研ぎ澄まされた注意から逃れることはできなかった。

あるとき、街を歩いていた彼の耳に「俺はインモータル……」という言葉が飛び込んできた。長生きのために英語の文献すら目を通していた彼はすぐに気がついた。「インモータル」とは不死のことだ。「俺は不死だと? これは究極の長生きじゃないか……そうだ、今この時代、不死が実現しても不思議ではない。俺も不死を目指す!」

彼は歩みを止め、その声がしたほうを振り向いた。青白い顔の痩せた男がいた。時代を超越した謎めいた雰囲気が漂っていた。「もしや、現代のサンジェルマン伯爵では?」 彼の心は高鳴った。

痩せた男は、そんな彼に気づかず、自分の隣に立つ連れに向かって言った。「そう、俺はいつも……胃もたれ」

苦い文学

再再入国許可書

さてさて、再入国許可書を持ったビルマのカレン人の友人と私は無事に出国し、そして無事に飛行機に搭乗したのであった。

だが、そのとき私はこう感じずにはいられなかった。「出国するのにこれだけ手間がかかるのだから、タイに入国する時はいったいどうなるだろうか」

そして、その不安は的中したのであった。

スワンナプーム国際空港に到着した私たちは、入国審査の列に並んでいた。日本を出るときは私ひとり先に済ませてしまって、友人が後に残されてしまったので、今度は友人を前にして並んでいたのだった。これならまんがいち彼になにかあったときでも手助けできるというわけだ。

そして、彼の番が来て、審査官の前に立った。私は列の先頭で審査官の様子を注意深く眺めていたのだが、「これはなんだ?」という感じで再入国許可書をみている。戸惑っているようすだ。あちこちパラパラめくったり、パソコンに何か入力したりしている。

友人となにか会話をしだした。友人は許可書のページを指差す。そこにはタイのビザが貼り付けられている。審査官はこれを探していたのだった。審査官はまたなにかパソコンに入力を始める……

いったいどれくらいかかるのだろうか……私は隣の列がスムーズに流れていくのを見ながら考えていた。

苦い文学

しらなみ演劇賞

しらなみ演劇賞は、現代日本の演劇文化発展に寄与することを目的として、今年から創設されました。

1 月から 12 月まで、国内および海外を股にかけて上演された演劇が審査の対象となります。

国内外の演劇関係者 100 人がテレグラムを通じて投票を行い、最優秀劇団賞、作品賞、俳優賞、演出家賞、ニューフェイス賞、功労賞の 6 部門の選考がなされました。

記念すべき第一回の受賞者は以下のとおりです。

【最優秀劇団賞:劇団ゼニカネモギトリーナ】
息子役、妻役、浮気相手役、会社上司役、弁護士役、警察役、銀行役、政治家役、プーチン役、火星人役による洗練されたチームワーク、テンポよい演出、傑出した荒稼ぎ力に対して。

【作品賞:国際ロマンス詐欺公演(配信)「アメリカン軍医」】
およそありえないような荒唐無稽な胸キュン設定を、巧みな筋書き、演技によってまんまと信じ込ませたその構想力に対して。

【俳優賞:滝沢亮八】
高額医療費還付金詐欺公演「絆(ATM)ある限り」の電話オペレーター役で見せたさわやかな弁舌と説得力ある演技に対して。

【演出家賞:巻川からし】
恫喝、脅迫、パワハラ、セクハラ、暴行なんでもありの人を人とも思わない演出手法に対して。

【ニューフェイス賞:未成年(受け子)】
「岸和田オレオレ少年団」における会社員役としてもみずみずしい演技に対して。

【功労賞:麻田芥子】
長年にわたる新人受け子リクルートおよび育成事業に対して。

【功労賞:脇田しぼみ】
シルレルの戯曲(「群盗」「強盗」「下着ドロ」など)の訳業に対して。

授賞式では、警察官立ち会いのもと副賞と賞金の贈呈が行われ、一網打尽となりました。

苦い文学

亡者の収集(異文)

清の時代、山西の陽曲県に陶晶明という篤実な男がいた。

あるとき、陶は生ゴミを捨てにごみ捨て場に行くと、とあるゴミ袋にペットボトルが入っているのに気がついた。

陶は「ゴミの分別がなっていないようだ」とそのゴミ袋からペットボトルをとりだして、懐に入れると立ち去った。

だが、ちょうどその時、薛某の運転する車が走ってきて、陶を轢いた。

亡者となった陶は、気がつくと道端に座っていた。まわりにはたくさんの亡者がいてやはり彼と同じように座っている。

そこに荷車を引いた鬼卒が二人現れた。鬼卒たちは「さあ地獄で燃やすゴミの回収だ」というと、道端に座る亡者を掴むや、次々と荷台に放り込みはじめた。陶はこの恐ろしい光景に肝も潰れんばかりだった。

やがて鬼の手が陶の首根っこに伸びた。そのとき、別の鬼が言った。「おい、こいつは回収できないぞ」

鬼が陶の懐を探ると、ペットボトルが出てきた。「ゴミの分別がなっていないようだ」と鬼は言い、残りの亡者を荷台に積むと陶を置き去りにして行ってしまった。

陶が息を吹き返したのは、彼の葬儀の最中であった。人々は陶の蘇生に驚き、冥界でのできごとを聞くともっと驚いた。

陶を轢いた薛某は、大商人の郭陽の家の使用人であった。一部始終を聞かされた郭陽は、多額のビットコインを陶に送ったということである。