旅・観察

モロヘイヤ

チュニジアの名物料理に、モロヘイヤがある。モロヘイヤと肉が入ったシチューだ。チュニジアのモロヘイヤの食べ方は少し変わっている。日本だとモロヘイヤのよさは粘り気だが、これがチュニジアの人の口に合わないのだという。だから、納豆のネバネバなどは食べられない、と日本に住んでいたチュニジアの人が言っていた。

そこで、モロヘイヤから粘り気をなくした料理が誕生した。乾燥させたモロヘイヤの粉末を、肉と一緒に徹底的に煮込むのだそうだ。そうすると粘り気がなくなるのだという。煮込んであるから、濃厚な味になる。色は深緑、いや黒に近いこともある。

とはいえ、めったに食べられない。いつでもどこでもあるものではないらしい。手間がかかるからかもしれない。この間、チュニスのレストランの前を通ったら、ボードにモロヘイヤと書いてあった。ちょうど昼時だったので入って注文した。

平皿にドロリとした深緑の液体が入っている。これがモロヘイヤだ。料理は出てくるが、スプーンなどはくれない。一緒に出てくるパンを使って、すくったり、押しつけたり、肉をつぶしたりして食べるのだ。チュニジア人には簡単だが、これは非常に難しい。パンを何切れ食べても、シチューは減らない。しかも肉の塊もある。こいつにパンだけでどう立ち向かったらいいかもわからない。

このままではパンだけでお腹いっぱいになってしまう、と私は、お店の人にスプーンをお願いした。スプーンですくって食べ始める。またたく間に、シチューも肉もなくなってしまった。

周りでは人々がお昼を食べている。男の二人づれ、女性の一人客、夫婦、みんなゆっくり食べている。私はなんだか味わわずに食べてしまったような気がして、スプーンなど頼まなければよかった、と思った。

苦い文学

第三次世界大戦

アメリカがイランを攻撃したとき、人々は「第三次世界大戦が始まった」と言い出した。

これに対して、別の人々は「第三次世界大戦はまだ始まっていない」と反論した。これは局地的な紛争に過ぎないというのだ。

また別の人々は別の角度から反論した。

「第三次世界大戦は始まっていないし、決して始まらない。なぜなら、第二次世界大戦の頃とは、世界のあり方も人の考え方も異なるのだから、第二次世界大戦と同じような意味で世界大戦はもう起こりようがないのだ」 そして、こう付け加えた。「次に起こるのは、シン世界大戦だ」

こうした動きに対して「もうとっくの昔に第三次世界大戦は始まっているのに、いまごろそんなことを言っているとは!」と憤慨する人が現れた。この一派の一部が過激化し「今は第五十三次世界大戦だ」と主張するに至った。

第三次世界大戦についてどのような立場を取るかは、いつのまにか、大きな政治問題となっていった。というのも、どんな形にせよ「起こった」状態のほうが都合のいい政治家と、「起こっていない」ほうが都合のいい政治家がいたからだ。

そんなわけで「起こった」派と「起こっていない」派との論争は激化し、いつしか第三次世界大戦に発展していった。

苦い文学

神様

エリ・ヴィーゼルは、自伝的小説『夜』で、少年のころのアウシュビッツ収容所での経験を記している。ユダヤ人に対するさまざまな残虐行為が記録されているが、なかでも男の子が絞首刑に処される一節はとりわけ印象深く、よく知られたものだ。

その男の子は、ヴィーゼルたちの目の前で、ふたりの大人と一緒に絞首刑にされるのだ。大人たちはすぐに絶命したが、子どもは体重が軽いため 30 分以上も死ねなかった。

苦しむ子どもを目の当たりにして、「私(ヴィーゼル)」の後ろで男が尋ねる。


 「いったい、神はどこにおられるのだ。」
 そして私は心のなかで、ある声がその男にこう答えているのを感じた。
 「どこだって。ここにおられる——ここに、この絞首台に吊るされておられる……。」
            ヴィーゼル『夜』(みすず書房)


ところで、最近の日本では、飲食店での客のふるまいが問題になっている。店に対する横暴な要求、いわゆるカスタマーハラスメントをめぐって、「お客様は神様です」という考え方についても議論がされている。

議論の内容以前に、私がいつも気になるのは、ここでいう神様とはいったいなんの神のことか、ということだ。なにしろいろいろな神がいるから。神様によっては、私たち客は、店長に吊るされかねないのだ……。

苦い文学

スマホと人類史

2010年代、スマートフォンの普及により、街中や駅などの施設内でスマートフォンを操作しながら歩行する人類が出現した。これらの行為は「歩きスマホ」と呼ばれた。

「歩きスマホ」は多くの事故や犯罪の原因となった。それにともない「スマホ歩かれ」による被害者も増大した。

そこで、人類は「歩きスマホ」の弊害を乗り越えるべく、「スマホ歩き」の開発を進めた。その結果、2030年代になると、人類は「スマホ歩き」を徐々に身につけるにいたった。

「スマホ歩き」により、人類の歩行能力、歩行速度、歩行領域は格段に向上した。現在では、「スマホ歩き」は、人類史上、初期人類の直立歩行に次ぐ偉大な進化だとされている。

続く 100 年の間に、スマホ歩きは改良が進められた。22世紀半ばには完成に達し、スマホ歩きはここに全盛期を迎えることとなった。偉大なる「ホモ・スマホ・アムブランス(スマホ歩きするヒト)」の時代の到来である。

この時代になると、駅では「スマホを操作せずに歩くのは大変危険です」とアナウンスされるようになった。

苦い文学

隠された真実

この世界には100人が100人誰もが真実だというような事柄は存在しない。

むしろ、たいていの事柄の真実性については、意見が分かれるのが普通だ。

そのようなわけで、ある事柄が真実であるかどうかは、それを嘘だという人がいるかいないかで、判定できる。もし、そういう人がいるとしたら、それは真実である可能性が高い。

私たちがコロナウイルスのワクチンの効果が真実らしいということを知るのも、こうした理由からだ。なぜなら、反ワクチン派が無視できないほど存在するからである。

また、反ワクチン派にしてみても、これらの人びとがその非合理的な主張に執着するのは、私たちという存在を抜きにしては考えられない。

さて、真実であるかどうかが、反対派の存在に依拠しているとなると、ある真実について反対派が一人もいない場合は、必然的にこれは虚偽であるということになる。

そのような事柄があるだろうか。

私が思いつくのは、銀行に関する真実だ。銀行は午後3時に閉まるが、実はその後から忙しい、と誰もが言い、これを否定する人を私はまったく見たことがない。

それゆえに、銀行員たちは午後3時以降は本当は遊んでいる、と断言できるのである。