旅・観察

割れ物

やがて主人が姿を現した。年配の男性で、白いTシャツに白い作業ズボンを履いている。Sさんが私を指してベルベル語を学んでいるというと、話しかけてくれた。

陶器づくりを見せてくれるという。工房の奥の部屋から運んできた粘土を作業台に置いて両手でこねる。表面を親指でなめすように押しながら気泡を潰し、異物を丁寧に取り除いていく。粘土がまるでパン生地のように見えたが、私がやったらすぐに手が痛くなるだろう。

Sさんと主人は最初、少しベルベル語で会話をしていた。すると、Sさんが興奮気味に私に声をかけた。主人の言葉から、子どもの頃、ベルベル語で粘土をなんと呼んでいたか思い出したのだ。

「何十年もこの言葉を口から出したことはなかったよ」

粘土の準備が終わると、主人は台の向こうにあるろくろの前に座り、足で回しはじめた。

昔はこの辺りに小さな窯元が何百とあったそうだ。しかし、今、残っているのは十軒しかないという。ガッラーラのベルベル語について聞くと、こんな答えが返ってきた。

「話しているのは老人だけだよ。若い人はみんなアラビア語を使っている」

だんだんとガッラーラがターウジュートと重なり始めた。

主人は、たちまちのうちに粘土を高さ五〇センチほどの壺に作り上げ、目の前の台に置いた。再びろくろが回転し、小さな壺ができあがる。主人はそれを逆さにして壺の上に載せた。蓋だったのだ。さらに、主人はもうひとつ壺を作り上げた。

私はこの主人の実演のお礼として、売店で何か買って帰ることにした。彩色されたカップや皿が手頃そうだった。工房で作ったものかSさんに確認してもらうと、違うという。主人の作品はみな大きな壺や花瓶だ。ほとんどが素焼きで、飾りやお土産というよりも生活に密着したものだ。

大きな壺はオリーブや干しいちじくや干し肉などの保存食を入れておくのに使ったのだそうだ。だが、今は冷蔵庫がある。窯元が減っているのも、そうした壺を使う生活が、昔のものになりつつあるからなのだろう。

私は小さな急須を見つけ、それを買うことにした。八ディナール。払おうとするとSさんが手で制して十ディナール札を出した。

主人がお釣りを渡そうとすると、Sさんは感謝して断った。「二日もひとりもお客が来ないことがあるっていうからそうしたんだ」と後でSさんが教えてくれた。

割らずに日本に持って帰れたらいいと思う。

苦い文学

危険なアクティビティ

海外旅行に行くたびに保険をかけているが、申し込むときに旅行の目的を選択しなくてはならない。そのときに危険なアクティビティをしないということについても確認を求められる。危険なアクティビティとはなんだろうか。ネットで調べると、スカイダイビング、登山、探検などが出てくる。私は冒険家ではないので「しない」にチェックを入れる。今回のベルリン旅行も同様だった。

そのベルリン滞在中に、とてもいい古本屋がある、と教えてもらった。Antiquariat Carl Wegner という。住所を頼りに行ってみると、ショーウィンドーにいかにも古くて味のある本が並べられている。勇を奮って店内に入る。重々しい皮の装丁の本が天井まで所狭しと並べられている。200 年前の本など当たり前という感じで、もっと古い本もたくさんありそうだ。

お店の人が声をかけてくれたので、関心のある分野をいうと、英語のものはこれしかないですね、と検索してパソコンで見せてくれた。しかし、私はドイツ語でも良いものがあれば買おうと思っていたので、その本棚を教えてもらった。

3段目に面白そうな本があった。いわゆる亀の子文字の本もある。上の段を見ていくと3段上ぐらいから天井のあたりまでの棚にも興味深い本が並んでいるのが見えた。私はお店の人に頼んで、鉄の脚立をその本棚の前まで動かしてもらった。

脚立は2メートルはある。段に足をかけると軋む。おそるおそる最上部に上がる。もう立つのがやっとだ。それでも、なんとか私は棚の本をじっくりと調べた。本を引っ張り出したり、棚に戻したりするたびにふらつき、足を踏み外して床に落ちそうな気がした。

危険なアクティビティの「する」にチェックを入れるべきだったろう。

苦い文学

天国行きのチケット

私たちの神は、旧約聖書の神よりもはるかに優れている。私たちは、この神が私たちの民のことを最優先に考えてくださるということをとても誇りに思っているのだ。

とはいえ、私たちの神は、自分を裏切る者、謗る者、逆らう者にはとてもとても厳しい。旧約聖書の神などお話ならないくらい容赦ないのだ。刃のような残酷な言葉で斬りつけ、雷のごときパワハラで追い詰め、必ず滅ぼさずにはいない。

神は信じる者のためだけに天国を用意してくださった。神に従い、神を裏切らなかった者だけがそこに行けるのだ。だが、裏切り者に対して神はこう言われる。

「天国への出入りをとこしえに禁ずる」

おお、私たちはどんなに天国を乞い願い、すがりついたことだろうか。

「どうか、どうか、私たちを天国に入れてください。そこに建設されるいくつもの壮麗な建物や、この世のものとは思えない木造建築物を見たいのです」

私たちはこの神にすべてを捧げた。財産のある者は財産を。力のある者は労力を。そしてなにもない者はボランティアとして。命も人間の尊厳も税金もすべて巻き上げられた……そして、ついに神は私たちの願いを聞き入れ、こう約束してくれた。

「喜べ。お前たちは天国に行けるだろう」

そして、しばらくして大阪万博のチケットが送られてきた。

苦い文学

蛙化現象

蛙化現象とは、恋愛障害のひとつで、近頃大きな話題となっている。

どんな障害かというと、片思いのうちはそれこそ恋焦がれて相手を崇拝せんばかりだが、一度相手が好意を向け出すと、たちまち熱が冷める、それどころか、相手が汚らわしく気持ち悪く思えてくるというものだ。

「蛙化」というのは、グリム童話の巻頭の「カエルの王さま」に由来している。「人なつこい美しい目をした王子」も「きたならしい、いやらしいかえる」になる、ということらしい。

童話ではカエルが王子になるのだから、逆で、辻褄が合わないように思える。だが、そもそも王子がカエルになったのは「悪者の魔女の魔法にかかって」いたためだというから、もしかしたら魔女の恋愛障害の結果、王子はカエルになってしまったのかもしれない。

「蛙化現象」という名称の問題はさておき、ネットニュースによれば、ある男性がこの現象を抑制する特効薬の開発に打ち込んでいるということだ。

その男性も蛙化現象にずいぶん悩まされたのだという。この現象を克服したいという思いが、彼の研究欲に火をつけたのだ。

この男性は、ニュースでこう呼びかけている。

「完成した暁には、僕のまわりの女性にはみんなこの薬を服用してほしい。そして、勇気を出して僕の胸に飛び込んできてほしい」と。

苦い文学

無駄な教育

「学校教育には無駄な知識が多すぎるので、必要のない生徒には教えるべきではない」などという人がいるが、こういう話を聞くと、私が思い出す物語がある。

それは確かどこかの僻地に伝わる民話で、人間の誕生を物語るものだ。

昔、神々が相談をして、自分達そっくりに人間を作った。神々はそのでき栄えに満足したが、しばらくしてある者が言った。

「人間には手は100本も必要ないだろう。我々とは異なり、大地の上で暮らすのだから」

神々は賛同し、98本の手を奪った。するとまた別の神が言った。

「足も100本もいらないのでは。大地を歩ければいいのだから」

それで、2本だけ残された。そんなふうにして、50個あった目は2個になり、20個あった鼻の穴や耳も2個になった。

「心も10個もいらないと思うが、どうだろうか。神々の世界に比べれば、大地の暮らしは単純だから、そんなにあっても無駄だと思うのだ」

「そのとおりだ」と神々はうなずき、心を9個取り除いた。

そんなわけで、心が1つだけになってしまった人間は、思いやりや思慮深さ、他人を尊重する気持ちを失い、「学校教育には無駄な知識が多すぎるので、必要のない生徒には教えるべきではない」などと切り捨てるようになったのだそうだ。