散文

構造の外(1)

ビルマ人の友人が入院したというので、2 人のビルマ人とお見舞いに行った。病院は新宿にあり、彼の病室は 8 階にあった。エレベーターの中で私は「入院でも 8 階なら、いい景色が見えて楽しそうですね」と冗談を言った。

もっとも、彼の病室に行ってみると、大部屋だし、暗いし、ブラインドは閉められているしで、楽しそうでもなかった。それに彼は高額な医療費についても心配していて、私の顔を見るや、減額の可能性について尋ねた。だが、これは平日に病院のメディカル・ソーシャル・ワーカーに相談するほかなかった。私たち 3 人が友人を囲んで話していると、看護師が来て「他の患者がいるので、談話室に移動してください」と言って、友人を車椅子に乗せ始めた。

談話室は病棟の中央にあり、大きな窓が開けていた。私たちはベンチに座って、車椅子の友人と話を続けた。最初は、手術のあとに尿管を抜くときの痛さの話だったが、やがて永住ビザの話になった。最近は厳格化が進んだということで、300 万円以上の年収が 5 年続かないと、申請してもビザが降りないのだという。

「その収入は家族全体の収入ということですか」と私が聞くと、同行したビルマ人が家族ひとり増えると、必要な年収が 70 万円高くなるのだと答えた。つまり、妻子がいると、440 万円以上の年収が必要ということになる。

「奥さんが働いている場合はその収入も加えることができるのですか」と聞くと「そうです」と返事が返ってきた。共働きで 440 万円なら難しいということはないかもしれないが、どちらかが病気で倒れた場合はそう簡単にはいかないだろうと思った。

ビルマ人たちはやがてビルマ語だけで会話を始めた。私はわからないので、窓から景色を眺めていた。

苦い文学

猿の手に

ネパールの日本語学校で使っているという教科書を見せてもらった。現地でネパールの日本語教師が出版したもののようだ。表紙を開くと、なにやら偉い人の写真が載っているが、ネパール語が読めないのでだれだかわからない。

教科書は分厚く、かなりの情報量だ。会話と単語と文型がびっしり詰め込まれている。日本語の後に、ネパールの文字で発音が記され、ネパール語と英語でその意味が書いてある。

パラパラと見ていた私は、「ことわざ」と書かれたページに目が止まった。日本のことわざが紹介されている。

最初は「1.てんせきこけ を しょうぜず」。発音、ネパール語訳、英訳が記してある。次は「2.ねこの て も かりたいほど だ」だ。だが、英訳はない。3つ目は「ねこにこうばん」。英訳はないが、「こうばん」は交番ではなく小判のことだろう。

そして、4つ目に「さるの て に ここのつ」とあった。

「猿の手に九つ」? 英訳もないので意味がわからない。日本語の教科書に載るようなことわざに知らないものがあったとは。

私は自分の教養のなさを恥ずかしく思い、「猿の手に九つ」をさっそく検索した。

……いろいろ調べてみてわかったのだが、本当は「猿の手にココナッツ」だった。ネパールのことわざで、意味は「猫に小判」と同じだ。

苦い文学

頭悪いね

(曲が終わる)

「お聞きいただいたのは、アべートルズの新曲『キックバック』でした。本日はヘビー・ローテーションでお届けしております」

「いやいや、何回かければ気が済むんですか?」

「キックバックだけに、ノルマがありまして……というところでお便りが届いています。長崎3区のラジオネーム『じじい』さんからです」(と読み始める)

……こんにちは。毎日楽しく聞いています。いきなりですが、ちょっと困ってます。先日、裏金のことで記者たちに質問攻めにあいました。本当にしつこくて、記者に対して「頭悪いね」といってしまいました。

ところが、それが炎上してしまったのです。もう全国的なニュースになってしまい、地元の支援者からも苦情が来る始末です。

実は私もこれは言い過ぎたな、と思っておりまして。韓国か北朝鮮を相手にしているような気分になってしまったんです。それですぐに反省いたしまして(般若心経を唱えているうちに落ち着いてきたのです)、謝罪をしようと、決心しました。

そこで翌日、外に出ますと、記者たちがたくさんいます。あいかわらずしつこく質問するのですが、私も反省いたしておるものですから、こんなふうにお答えしました。

「記者のみなさんは、じつに頭良いですね〜。ですから、何度も言っているじゃないですか。お答えできませんって。ダメ、質問しても、これ以上、無駄ですよ。何もいいません、いやほんとに、みなさん、頭良いですね〜」

これが昨日にも増して大炎上なのです。悪くいってもダメ、良くいってもダメ、いったいどうしたらよいのでしょうか……

苦い文学

覚醒する飛翔体(1)

YouTube での絶大な人気を利用して、政治家となったバーシーが、議場に現れたとき、政治家の誰もが震え上がった。ただし寝ている者は別だったが。もっとも、これは彼にとってはいかにも好都合。というのも「寝ている政治家を叩き起こす」が彼の唯一の公約だったのだから。

バーシーは議長席にのっしのっしと歩み寄り、議長の首根っこをむんずと掴んで引きずり下ろすや、仁王立ちになって、大音声で「起きろ!」と一喝した。歴史に残る政治活動が今まさに始まったのだ。

この衝撃的な発声に幾人もの政治家たちが寝とぼけた顔を上げた。それから始まったのが、独断の眠りより目覚めた政治家たちに対するバーシーの痛烈きわまりない罵倒だ。そして、固唾を飲んでテレビ中継を見守る国民たちは、彼の勇気ある政治を通じて、我が国の立法府にいかに不潔な悪徳が忍び込んでいるかを知ったのであった。 

ああ、災いなるかな、寝ている政治家ども。連中が寝ている間にどんな夢を見ていたにせよ、バーシー現れしのちは、悪夢のみ見ることがここに決まったのである。

だが、勇猛なるバーシーの怒声響くなか、不穏な空気が徐々に議場に漂い始めた。愚かな議員たちは不安げに顔を見合わせる。なにかが、なにかがおかしいのだ。

バーシーもハタと異変に気づく。思わず口を閉じたその瞬間、議場の奥のほうから聞こえてきたのは、たかだかと鳴り渡る鼾の響き。見れば、三人の議員がそろって居眠りの真っ最中。

一人は仰向けで頭をぐらぐらと揺らし、もう一人はつっ伏して体をぴくつかせ、三人目ときたら、空いた議席に横になって自らの氏名標を枕にすやすやと。

凄まじい怒鳴り声あげ、怒髪天を衝く形相で駆け出すバーシー。さて、三議員の命運やいかに。

苦い文学

不合格

「合格」は「合格する」と動詞になる。「不合格」は「不合格だ」なのでナ形容詞だ。つまり、合格するときは動詞だが、不合格だとナ形容詞になる。

このように「する」がつくと動詞として使える名詞でも、「不」とか「無」とか「未」がつくと動詞にはならない。例えば「案内する」と「不案内だ」、「漂白する」と「無漂白だ」、「処理する」と「未処理だ」などいろいろある。

しかし、日本語の学習者にはこの違いがわからない人もいて、「不合格だ」を「不合格する」とよく言っている。これは、「不合格」を「合格」と同じように「〜する」と動詞で使えると推測したためだ。

留学のたくさんいる学校で、日々、進路指導している職員がいた。コロナ以前のことで、留学生の進路の問題はとてもシビアだった。

それでその人は、あまりにもたくさんの「不合格しました」に接したため、ついに彼自身も「不合格しましたね」とか言うようになってしまった。

現代日本語に生じた変化といえよう。